寄り添って
宿は工房が軒を連ねていた区画に隣接していて、路面店が連なる比較的広い通りに面していた。
玄関番がいるようなその宿は、大理石の柱と床で落ち着いた気配に満ちている。
先程出ていったばかりの元帥__その際の騒ぎも承知の宿では、元帥が戻ってきた報せを受け、支配人が出迎えにすぐに現れる。
雨で濡れた石階段で足を滑らせて転げ落ちた元帥の縁故の娘と、その従者__見るに堪えないだろう風体のキルシェをイャーヴィスはそう紹介し、部屋の手配をお願いした。
よく出来た支配人はイャーヴィスが多くを言わずとも、風呂とご不浄がついた部屋をあてがってくれ、すぐに湯浴みの準備をしてくれるとのことだった。
階段を使わず、一階の奥まったところ。廊下を進んだ一番奥の部屋に通された。
石造りの部屋には大きな天蓋付きの寝台と、今は休んでいる大型の暖炉。暖炉の前には、ゆったりと寛ぐには丁度いいソファーとテーブル。
4人で囲っても余裕がある円卓に2脚の椅子は、窓の直ぐそば。窓は天井から床まであるもので、窓の向こうには露台がある。露台には、幾何学的な組木細工のような模様に加工された柵__檻といってもよい覆い__が設置されていて、外からの防犯を高めている。
部屋にはもうひとつ扉があって、おそらくそこから先が湯殿なのだろう。
「この一部屋で全て済むようにしてくれるはずだ。ナハトリンデン。そなたは、従者ということで、この隣の部屋を用意してもらっている。そこを使うといい」
「はい」
「さて……すまないが、私はもう行かねばならない」
リュディガーに促され、ソファーに腰を据えたところでイャーヴィスが、懐中時計を眺めながら穏やかに言った。
「あぁ。宿代については気にしなくていい」
「ですが、それは……」
リュディガーがキルシェの疑念を代弁するように言葉を発した。
ここの宿。ビルネンベルクが出先で手配する格の宿のようであるし、部屋も風呂とご不浄が備え付けということは上等なものである。
「__ナハトリンデンが出世払いするはずだ」
くつくつ、と笑いながら
それは困ります、と言おうと口を開いたのだが、それより一瞬早くリュディガーが軽く手をキルシェの前へ翳して制し、次いで彼は小さく笑い掛けた。
そして、元帥に向かって胸元に手を当てて頭を下げた。
「心得ました。利子は、返し切るまでの活躍でお返しします」
「いい心掛けだ。期待する」
イャーヴィスは満足気に笑って、扉へと向かう。
「先程、ラウペン家の使用人が荷物を持って後から合流するはず、と支配人に説明していたが、それが、私が手配した者だ。今暫く耐えてくれたまえ。ただ健やかに」
「ありがとう、ございます……」
立ち上がって見送ろうとすれば、イャーヴィスは苦笑を浮かべて手で制し、深く頷くと出ていった。
「……あのリュディガー……それは、困ります……」
それ__宿代の支払いである。
「場を和ませるための冗談だろう。私は閣下とは格が違いすぎるし、直接な面識はほぼないから親しいわけではないが、それでもああしたところがある方なのだろう、ということは察している」
リュディガーは、壁際の棚に置かれていた水差しからグラスへ水を注ぎ、キルシェの元へと運んだ。
「__そのことについては、今は気にするな、ということだと私は思う。健やかに、と仰せなのだから」
だとしても、とキルシェは俯く。
いくらかは分からないが、支払い義務は自分にあるし、自分には支払い能力はあるのだ。
__なぁなぁにされてしまうのは困るわ……。
幸いにして、父に報告しなくても済むように、手元の蓄えでどうにかできるはず。
__父に知れたら、どうなるのかしら……。
ぎゅっ、を噛みしめるキルシェ。
__……まだ大事にしないほうがよいだろう。
ふと
尾ひれがつくことを危惧してのことかは分からないが、その気遣いはありがたかった。
__事実と違うこと……事実に尾ひれがついてしまった話……
俯くキルシェの視界に入り込むリュディガーに、顔を覗き込まれた。はっ、と我に帰って見れば、その顔は痛ましい物を見つめるそれである。
「痛み止めは、効いてきたか?」
こくり、と頷くと、そうか、と少し彼の険しい顔が穏やかになる。
「お茶も用意してもらう。とりあえずは、湯に浸かって温まるといい。少しは気持ちが落ち着くはずだ」
自分ではどうにもできない小さい震え。
痛み止めを噛んでいなければ、おそらく歯もかたかた、と鳴っていたに違いない。
「リュディガーは……戻り、ますか……?」
「いや。私は、ほら……従者だろう?」
「でも、それは……」
「確かに閣下の指示であるが、妙案だと私は思うからそれに従っている。__こんなに震える君を置き去りになんて選択肢が、私にあると思うのか?」
大きく無骨なリュディガーの手が、膝を握りしめて震えを堪えていた手に重ねられる。
うっ、とキルシェは喉にこみ上げるものがあって、声が詰まった。
「……ですが、大学が……」
「いいんだ。それも。上手いこと話せば分かってくれる教官の授業だから」
「……すみま、せん……」
「謝らないでくれ。君は知らないかも知れないが、案外私は大学での評判がよく、信頼も厚いらしいから、そこそこに融通が利くんだ。方便もすんなり受け止めてもらえるぐらいに」
努めて明るく、冗談めかしていう彼の気遣い。
独りでも大丈夫__そう言えればいいのに、その一言をいう勇気がない。
これほど自分は弱かったのか、とほとほと嫌になる。
独りになると、思い出しそうなのだ。
あのときの恐怖。あのときの情景。あのときの臭い__
「その……今の君を独りにはしたくないというのは、私の希望でもあるんだ。だから、本当に気にしなくていい。そうさせてくれ」
重ねられた手が、やんわりと、それでいてしっかりと手を包み込む。ただそれだけだというのに、なんとも心強いことか。
「__湯殿の準備に参りました」
そこへノックとともにそう告げる声に、リュディガーは立ち上がって扉へと向かった。
扉を開けると、大きな木桶に並々と満たされたお湯を持った女中が3人立っていて、彼女らは頭を下げてから入室し、部屋の中にあるもう一つの扉のほうへと向かった。
扉の向こうへと次々に消えていく彼女ら。浴槽だろうか、木桶のお湯が次々に注がれていく豪快な音がする。
「__もう一度、お持ち致しますので」
「お手数をおかけします」
空になった木桶を手に戻ってきた女中たち。リュディガーは彼女らを廊下まで見送り、扉を閉めた。
振り返った彼は難しい顔をして腕を組む。
「……キルシェ、独りで湯浴みはできそうか?」
立ち上がるのも難儀した。歩くのも支えがなければ、崩れ落ちそうになっていた。このソファーに座るまで、彼の補助は欠かせなかった。
「湯殿で、何かあっては困るのだが……」
至極、言いにくそうに言葉を濁すリュディガーに、彼の危惧が何かを悟って、キルシェは顔が朱に染まる。
__独りでは……難しいかもしれない。いえ、不可能だわ……。
リュディガーが思案していた理由を悟り、キルシェは自分を掻き抱いて小さく身体を縮こまらせる。
リュディガーのことは信頼している。暴漢と一緒に括るつもりは毛頭なく、介助で触れられるというだけで嫌悪感を抱くことまではしない。だが、それとこれとは別。
彼は健全な成人男性__異性だ。
療養施設で、予後の経過を診察された時に目撃してしまった、筋骨隆々とした彼の身体がまざまざと蘇って、キルシェは顔を覆う。
__私なんて、あんなところを……醜態を、目撃されている……。
醜態を目撃されていなかったとしても、彼に湯浴みの介助などして欲しくはない。彼だって迷惑に決まっている。
気まずい雰囲気に満たされた室内__否、気まずく感じているのは自分だけかもしれない。彼は顎に手を添えて、解決策を思案しているようである。
そこへ、こんこん、と再びノックが響いた。
「……追加のお湯か」
速いな、と独り言を零し、リュディガーは扉を開ける__がそこで固まってしまった。
「遅くなりました」
キルシェからは扉の向こうも、リュディガーの顔も見ることはできない。
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