穴
みつお真
第1話 穴
一人きりの久しぶりの休日を明日に控えて、あたしは春の終わりに表参道のショップで買ったネイルチップをぼんやりと眺めては、隠せない息苦しさと葛藤していた。
ちいさくて可愛い蕾の絵柄。
花の名前はわからない。
調べたいとも思わない。
お気に入りの浴衣と合わせるつもりでいた。
そんな過去に冷め切ったあたしの穴。
どうでも良いけど・・・。
彼氏とは二週間前に、些細な言い争いが原因でさよならした。
もともと溝ができていたから、いざ別れ話となってもそんなには悲しくはなくて、むしろ決断の遅さを後悔しながら、一人残されたショットバーで泣いた。
涙は元彼の前では見せなかった。
『どうせ淋しくなんかないんだろ』
その元彼からの台詞はあたしの決心を固めてくれた。いわば魔法の言葉。
不思議なもので、7 年間人生の一部を共に歩んだ男でも、受け入れられない価値観や言葉の積み重ねで愛情なんて薄れていくものだということを学んだ気がした。
たった数日前の出来事なのに、遥か遠い思い出みたいに記憶は風化して、あたしは仕事に専念することが出来たけど、心の片隅には小さな穴が空いていた。
そこには得体のしれないおばけみたいなものが息を潜めて身を隠している。
空虚…。
認めたくはなかったけれど、思い出の品を処分しようとするたびに、そのおばけはあたしの身体にまとわりついて離れなかった。
ネイルチップをゴミ箱に投げ捨てて、あたしはカルーアミルクを飲み干した。
これじゃあ上司の田沢と同じだわ。
生ビールとリキュールの違いだけで、お酒に頼る所は一緒じゃないの。
そう思うと可笑しくなって、あたしは一番嫌いな田沢に始めて感謝した。
田沢は本社から出向してきた国立大卒のエリートで、妻子のある身でありながらそのセクシャルハラスメントは社内でも問題になっていた。
ある日の帰り道、立ち飲み屋で見かけたのを最後に彼の姿は会社から消えた。依願退職と
いうことだった。
いい気味だわ。
あたしの天使が笑っている。
ふふっと、自然に笑みがこぼれたのはアルコールのお陰。
お風呂上りの身体に冷たい液体が流れ込んで気持ちが良い。
あたしはクローゼットからスキニージーンズを取り出して、ほつれた箇所に手をあてがった。
前から直そうと思っていたのにすっかり忘れてしまっていたのだ。
明日はお休みだからカジュアルな格好でお出かけしよう。
自由が丘か下北沢なんかも悪くない。
お気に入りのカフェでランチして、その後はアロママッサージか最近サボり気味のジムに行くのもいいな。そう思うと、あたしのさっきまでの憂鬱は消えていた。
裁縫はあまり得意ではないけれど、今日はたっぷり時間があるからこれを気にパッチワークでも始めようかしら?等々考えながら、小さな針の穴に糸を通す。
裁縫で一番のの苦手な作業にあたしの神経は集中していく。
右手の糸を摘まんだ親指と人差し指がかすかに震えている。左手の針を掴む指がしっとりと汗で濡れる。
あたしの視界はチラチラとかすれた異空間。
思い通りにならない頼りないこの糸はあたしの人生みたいだわ。
針の穴は幸せの入り口。
おばあちゃんがよく口にした言葉。
昔の人の歌の歌詞だと笑って言っていたけど、あれは間違いなくおばあちゃんの創作だとあたしにはわかっていた。
幸せの入り口はこんなにも困難で辿り着けないものなのだろうか。
あたしの指先は震えて、次第に肩もパンパンに張ってくるのがわかった。
せっかく半身浴で温まった身体は、すり減る神経とアルコールのせいでカラカラに乾燥してしまいそうだった。
幸せの入り口近くで、頼りないあたしの分身はあと少しのところでうなだれて塞ぎ込んでいる。
針の穴は「またね!」と言いながら、幸せの入口を開放してはくれない。
人生なんて辛いことの繰り返しで、わずかな喜びや楽しさがあるから生きていける。
だから嫌なことは忘れて幸せな思い出は永遠に残るのだ。針の穴のお陰でわかった気がした。
友人はよく友達に裏切られたと喚いたりしていたけれど、生きていると人は裏切る生き物であることを痛感するし、それは自然なことなのだ。大事なのは自分がいかに人に優しく出来るかなのではないか?
華奢なあたしの分身はそう言いながらもまたうな垂れてしまった。
凛とした異空間に、産まれたばかりの空気が息吹をあげている。それは嵐に立ち向かう小舟のように、頼りなくとも勇ましくて神々しい。
小川の清く穏やかな流れも、枯葉の難破船にとっては荒波なのだ。それは大海原の艦船と何ひとつかわらないのではないか。
あたしの心の灯火は空虚という小さな穴を埋めていた。
幸せの入り口はまだ抜け切れないけれど、そのトンネルに向かう過程があるからこそ幸せを感じられるのだ。
あたしはあたしに呪文をかけた。
元気になれるおまじない。
『ま、いいか』
おしまい。
穴 みつお真 @ikuraikura
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