忘雪(わすれゆき)
紫 李鳥
第1話
日本海の荒波は波の花を舞いながら岩に砕け、灰色の空の下で哭いていた。汽車の窓から覗く疎らな家並みに心細くなりながらも、
「まだだよ」
客と思ったのか、女将は背を向けたままで
「……あのぅ」
澄の声に
「とにかく、閉めておくれ」
身震いしながら両手で自分の肩を抱くと、中に入るように促した。
「すいません」
急いで中に入ると、戸を閉めた。
「お忙しいとこ、すいません。……働きたい――」
「ああ、いいよ。働いておくれ」
澄の話が終わらないうちに返事をした。澄が驚いていると、
「丁度あんたのような人が欲しかったんだ」
板場で手を動かしながら
「寒かったろ。暖まりな」
隅に置いたストーブに顎を向けた。
「……はい」
澄は
「おでんができてるから食べるといい」
女将はそう言いながら、急須に茶葉を入れた。
「……はい」
澄は風呂敷包みを横に置くと、黒い角巻を脱いだ。女将は急須と湯呑みを手にして出てくると、湯気を立てているやかんをストーブから下ろした。澄は丁寧に角巻を畳んでいた。
「今日はゆっくり休んで、明日から働いてくれればいい。な?」
「……はい」
「……どこから来た」
澄の前に置いた湯呑みに急須を傾けた。
「……南のほうから」
言いづらそうに俯いたままで返事をした。
「……長旅じゃったな。疲れたろ。おでんを食べたら
「はい。……ありがとうございます」
澄は顔を上げ、しみじみと礼を言うと、頭を下げた。
「その代わり、明日からは気張って働いてもらうよ」
「はい」
澄は笑顔で頷いた。
女将の名を
おでんで
若い頃の香の着物を着ると、翌晩から店に出た。――
最後の客が帰ると、縄のれんを仕舞い、後片付けをする。そして、余った惣菜で飯を食べる。この時の飯が一番
「……苦労したのぅ」
澄の着替えを眺めながら、こんな地の果てにやって来た澄の過去を推測して、香が言った。
「えっ?」
「……私、馬鹿だから。人は苦労って言うけど、私、幸せでした」
「……お前を見ていると、昔の自分を思い出すよ」
布団の中の香が独り言のように呟いた。
「……」
「綺麗な肌をしてる。男を吸い付ける肌だ」
「……そうでしょうか」
澄は恥じらうように俯くと、寝間着を羽織った。
――その日は、珍しく閑散としていた。
「今夜は客足が鈍いね。どれ、
香がそんなことを言っていると、戸の開く音がした。洗い物をしていた澄は咄嗟に顔を上げた。見ると、澄に目を合わせた着流しに襟巻きをした男が戸を閉めるところだった。
「こりゃぁ、よしさん、久し振りじゃのぅ」
香が満面の笑みで迎えた。
「……どうも、久し振り」
「よしさんっ」
止まり木の馴染み客の二人連れも声を掛けた。
「よっ」
良治は二人連れに応えると、澄の前に腰掛けた。
「……いらっしゃいませ」
澄がおしぼりを手渡した。一瞬、互いは見つめ合った。
「……お飲み物は」
「辛口の人肌を」
「はい、かしこまりました」
「よしさん、おすみだ」
香が紹介した。
「あ、澄と申します。よろしくお願いします」
鍋の湯に、酒を注いだ徳利を入れた。
「おすみさんか……。何か飲まないか」
「はい、ごちそうになります」
良治の前に
香と二人連れは賑やかに喋っていた。それとは対照的に、澄と良治に言葉はなかった。良治が飲み干せば、澄が注いでやる。澄が飲み干せば、良治が注いでやる。それは重い空気ではなく、互いを労るような、何か
良治が袂から
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