遠き山に日は落ちて

 「運転手さん、遠い所ではどこまで行ったことがありますか?」───とは、よく訊かれる質問である。


 朝から翌朝までの一日交代勤務をしていた頃、深夜に三人連れのお客さまの一人に言われたことがあった。

「隣の県で、明日の朝一番の仕事があるから、このままそこまで送ってもらおうかな」

 勿論、冗談であることは判っていた。女性ドライバーであるが故に、『隣の県まで』と言われればおくするだろうと、揶揄からかわれていることも判っていた。けれども、女性だからといって、深夜の長距離に臆するようであればタクシードライバーは務まらない。

「いいですよ。お送りいたしましょうか?」

 と、答えると、「隣県だよ?」と驚いたように問い返された。

「隣県といっても、県庁所在地ですよね。片道一〇〇km程度で、高速を降りてすぐじゃないですか。お安い御用ですよ」

 かんらかんらと笑いながら答えると、返事は勿論「ごめんなさい」である。

 勿論、お客さまは知る由もないが、タクシードライバーになる前の私は長距離ツーリングライダーで、日に三五〇kmから四〇〇kmほど走っていたこともあるので、車であれば一〇〇kmぐらいは何てことはない。その上タクシードライバーになれば、日勤で一〇〇km以上、夜勤で二〇〇km以上、一日交代勤務で三〇〇km以上の走行距離を求められるのが普通だった。

 まあ、そういう事情はお客さまには分からないことなので、訊かれることも悪意のない揶揄からかいも大した問題ではない。


 では、一体どこまで遠い所まで行くことが可能なのか?

 はっきり言えば、出発か到着が営業エリア内であるのなら、制限がない───というのが、本当のところだ。

 タクシー車両として最も馴染み深いトヨタのコンフォート(最近はジャパンタクシーに世代交代しつつあるが)であれば、満タンの状態で四八〇km前後まで走ることが出来る。まあ、そこまでギリギリになるほどの危険は冒さないので、一度の満タンの目安として、四五〇kmというところだろう。最低限、お客さまと別れてから、補給に行けるだけの燃料は残しておかなければならない。行き先で補給することが出来れば、もっとだ。その距離内であれば、「行ってください」と言われて断るドライバーはいないだろう。

 そういうわけで、私の場合は、私の生息区域がある県に接している場所には、だいたい行った事がある。西と東の隣県で往復二九〇km前後、南では二〇〇km前後だろうか。特例としては、二人ドライバー態勢で片道四四四km、往復八八八kmのロングランに出たこともあった。しかし、これは会社からの直接指令で、特例中の特例だった。

 通常であれば、普通ではない長距離の依頼には、それなりの理由がある。家族が危篤・高齢者の旅行・車移動しか出来ない患者さんの移送・取材や災害調査が、そのほとんどだ。それらは、通常はドライバーが個人的に請け負うものではなく、会社が考慮してその依頼を受けてから、各営業所やドライバーに予約として降りて来る。


 そして、会社指令ではない場合、幾つかの確認をしなければ引き受けるものではない。

 新幹線や航空便が発達している現在、最終が出た後であれば、朝まで待ってそれらの交通機関を利用した方が、安いし早いのが普通だ。それなのに、タクシーを何百kmも利用したいというのは、尋常ではないと考えなければならない。実際、とんでもない金額になるのだ。


 一:何故、そうまでしてタクシーに乗るのか?

 二:支払い能力はあるのか?


 と、出来るだけ円満にその二点を確認しても、更には事前に会社への報告と超遠方に行く許可を取っておく方が無難である。それほどに、不審な依頼なのだ。

 それにも拘らず、私が知っているだけでも数件、この尋常ではない依頼に答えたドライバーがいた(自社内のことだ。他社のことは知らない)。

 一件は、懸命なドライバーできちんと会社に報告し、走行距離が片道四〇〇km前後・帰り入れると八〇〇km前後になることを考えて、交代要員として同僚ドライバーと二人で出発した───が、目的地に辿り着くことはなかった。行程の半ばまで来た時、酔っていた為に後部座席で眠っていたお客さまが目覚め、「今、一体どこに向かっているんですか?」と言い始めたからだ。それで、サービスエリアに車を寄せて話を聞くと、目的地に居るのは別れた彼女、鞄に持っている大金は会社のお金───酔いに任せて、別れた彼女に会いに行きたかったというのが真相だった。その事をお客さま本人が認め、更に会社に報告も行っていた為、引き返すことになった場所までの往復料金は、後日支払われたとのことだった。

 もう一件は、単なる愉快犯。高速に乗ってどんどん走らせた挙句、一文無しという始末。勿論、警察に直行である。

 最後の一件はもっと酷かった。お客さま曰く、自分は某有名アイドル事務所のマネージャーで、とにかく東京に戻らなければならない。経費は事務所が払うと言われたらしい。それを聞いたドライバーは、嬉々として走った。遥か東京までの距離を、単独で、会社に報告することもなく。そして、到着してみると───そのすべてが嘘だったのである。お客さまは無職で一文無し。警察に行き、御親族と連絡が出来ても、御親族側も寝耳に水の暴挙だ。その場で話がまとまる筈もなく、後の交渉は会社の上部に一任して、そのドライバーは長い・長い道のりを一人で帰って来る羽目になった。その時の法外な料金が幾らだったかは聞いていないが、後日御親族が支払って下さったとは聞いた。

 この三件目に関しては、お客さまも悪いが、引っ掛った方も相当に考え無しだとしか言えない。

 我々タクシードライバーの給料は、売上に大きく左右されるが故に、目が眩む気持ちは痛いほどよく解る。それでも、この件を聞いた同僚ドライバーの意見は一致していた。

 「そいつ、アホかいな」の一言。


 まあ、この三件は、滅多にないイレギュラーで不運な出来事ではあったが、本当に恐れるべきはそこではないのだ。

 会社からの依頼を受けて、遠距離を走る。それ自体はいい。売上も揚がるし、時に見慣れない場所に行くのは気分転換にもなる。───が、どんなに遠くに行ったとしても、タクシーは日帰りなのだ。例え、会社に辿り着くのが深夜になろうとも……。


 斯くして、彼方の地で陽が暮れる。

 海際の国道を走っている時に。

 走り慣れない山中を走っている時に。

 自分が居住している県境が、まだまだ遥か彼方にある地点で無情にも夜が訪れる───もしくは、夜が明ける。


 私の場合、そんな時に脳裏に流れる曲は、決まって『ドナドナ』だ。

 気持ちを奮い立たせる為にもっと陽気な歌を歌っていても、いつの間にか『ドナドナ』に変わっている。

 一日に三万以上になる予約は嬉しい。もっと金額が太ければ、なお嬉しい。───けれども、金額に見合った覚悟が必要にもなると、これはそんなお話。

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