一助の喜び

 ドラマなどで、「わたしはしがない専業主婦だから…」などという台詞を聞くことがある。実は、リアルでもお客さまの口から聞いたこともある。これは、『男は外で働くもの・女は家を守るもの』と考えがちな、旧世代の日本人的習慣から来るのだろう。この件に関して色々述べ始めると切りがないので割愛するが、『しがない専業主婦』には大いに異論がある。

 主婦業(妻&母親業を含む)が、如何に広範囲の知識を必要とする総合職か───リアルに考えると気が遠くなるほどだ。

 家族の栄養管理にしても、子供達と親世代では考慮することが違うし、更に三世代同居になるともっと違ってくる。毎日の掃除や洗濯に伴う衛生管理、外から帰って来る家族の心理的フォロー、子育てに至っては一朝一夕には終わらない大事業であることは間違いない。

 家庭内料理人・クリーニング屋さん・栄養士・子供の教育に携わる職業・看護師とまではいかないが準看護師・介護士等々、一つの職業として成り立つ仕事を、家庭の主婦は一手に引き受けなければならないのだ。伴侶や親世代、子供達のお手伝いなど、それぞれに出来ることをしてくれなければ、とてもとても成し遂げられる仕事量ではないのだ。


 その中で、やはり一番大変だと思うのは、お母さんになるということだろう。


 私が所属する会社には、妊婦さんの送迎というのがある。多分、他の会社でも似たようなサービスはあるだろう。要は会社と契約して、ご自宅と掛かり付けの産婦人科を登録しておき、産前産後の定期健診の時や急な陣痛の時に、タクシーでチャチャッと送迎するサービスである。ウリは、妊婦さんが(お母さんが)余裕がない状態でも、行き先が判っているから大丈夫。いざという時は、料金も後払いでOKですよ───という事だ。

 そのサービスの為に、全員ではないが多くのドライバーが社内研修を受けた。妊婦さんに関する基礎知識や、妊婦体験をする為のボディスーツを着用したりと、一日研修にしてはかなり本格的なものだ。そして、研修を受けたドライバーは認定書を貰う。

 しかし、実際にそのサービスを運用するに当たっては、会社側が予測していなかった問題が当然発生した。

 何といっても、ドライバーの男女比が九十五対五の男性職場である。妊婦さんの対応に男性ドライバーが行くという事だけでも違和感がある上、それが陣痛や破水となると、おいちゃん達の平常心は瓦解がかいするのだ。研修を受けていても、子供や孫がいても、それは変わらない。妊娠・出産という、男性には未知の領域に対して、平常心で対応できる人材は非常に少ないのである(少ないが、居ることは居るのだが)。

 かくして、私の所に回ってくる案件は、陣痛・破水の案件が多くなるのだ。まあ、私はそれでも構わないのだが。


 そうやって出会った妊婦さん達の状況も様々で、初産の方はご夫婦共に緊張感に溢れているといってもいい。奥様のお母さまがスタンバイされていればまだマシなのだが、私の生息区域は転勤都市なので、若いご夫妻が地元を離れて住んでいる場合も多い。そうなると、土地勘はないわ、周囲に友人も知り合いもいないわで、ビシビシに緊張されている方もいる。それでなくても、初めて子供を産むという大事業に対して、緊張感を持たない人の方が少ないだろう。

 そんな時、まだ陣痛の感覚が切羽詰まっていない場合、私は出来るだけのんびりした口調で、産まれて来るお子さんの星座の話や誕生石の話をするようにしている。

 産まれて来る子が女の子と判っていれば、誕生石の話にはお母さんも興味があるようで食い付きがいい。興味を持っていただいて、少しでも気が紛れてくだされば私の目論見は成功ということだ。難しいのは男の子だった場合で、どちらかといえば星座の話の方がマシなようだ。「ほほう、男の子で乙女座ですか。それは優しい子になるんでしょうね」という具合だ。

 トークのコツは、決してネガティブ発信をしないということ。

 出産するというだけでも大変なのに、本当に大変なのは産まれた後なのだから、ささやかなことでも祝福と応援を籠めて、出来るだけ楽しく・良い話をしてあげたいと思っている。


 これが、初産ではなく、一人・二人産んだ後のお母さんであれば、ご本人もわりと余裕があるものだ。自然、車内でのトークははっちゃけたものになりがちだ。

「やだ、運転手さん、あまり笑わせないで~。弾みで(子供が)出ちゃう」

 と、おっしゃったのは三人目の出産に挑むお母さん。陣痛の感覚が十分となかったので、誇張表現ではないのだろう。

 幸い、私は車内出産には遭遇していないが、一応脳内緊急マニュアルは作ってあるので、何とかなるとは思っている。


 『誰かの役に立てる仕事』というのは、働く上での遣り甲斐ではあるのだが、基本的に一期一会の仕事であるが為に、その後のことを知ることは少ない。それでも時には、思わぬご褒美が貰えることがあるのだ。


 通りすがりに流しのお客さまをお乗せした時、「運転手さん、お久しぶりです」と突然言われたことがあるのだ。仕事が運転だけに、お客さまの顔をしっかり見る事が少ない為、過去のお客さまを顔で覚えていることは少ない。「お会いしたことがありますか?」と訊くと、「はい、この子がお腹の中にいる時に、陣痛で○☆産婦人科まで送っていただきました。その節は本当にお世話になりました」とのこと。ちらりと見ると二歳ぐらいの娘さんが御一緒だった。

「つまり、その時にお腹にいたのが、そちらのお嬢さんなんですね?」

「はい、お蔭様で無事に産まれて、元気に育っています」

 長くタクシーの仕事をしているが、自分がお送りした妊婦さんと、時間を経て会うのはこれが初めてだった。

「こちらこそ、ありがとうございます。自分がお送りしたお子さんと会うのは初めてです。元気そうだし、可愛いし───お会い出来て本当に嬉しいです」

 これは本音だ。


 送迎に掛かる料金は、超短距離から割と遠い所まで様々。

 けれどもこんな出会いがあるからこそ、日々ハードなこの仕事を続けていられるのである。

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