レーゾンデートル
私の仕事では、ほとんどの場合、相手がどこの何者であるかを知らない。流しのタクシーの時は勿論、予約でお迎えに行ったとしても、判るのは名前だけ、もしくは自宅or会社だけ。素性など判ろう筈もない。当然、例外的に知ってしまう場合もあるが、そのケースはレアだ。また、各方面から入って来る情報で後になって知ることもあるが、大前提として『知らない人』であるのが普通だ。
これは、多くの・知らない人の中の・一人の小父様との一期一会。
ある日、ちょっと見にダンディで、自分より目上の小父様と御同行することになった。
お客さんが老若男女のどなたであれ、お送り先と通るコースを確認した後、会話をすることもあれば、しないこともある。私としては、多少の会話をしていた方が細かいニーズを拾い易いのだが、話をしたくない人も意外に多い。人見知り・疲労・体調不良等々。
接客業必須のマニュアル・トークは、多くはないが勿論ある。だがそれとは別に、自分の所属している会社は、助手席の後頭部の部分に顔写真と趣味など掲示してあったりもするので、話好きのお客さんだと、先方からその話題を振ってくる方も多い。
これは、口が重く・愛想が悪く・案外シャイなおっちゃんドライバーが、コミュニケーションを取りやすくする為のアイテムだ。だが、元々接客業が好きで、根本的にシャベリーな私は、それらのアイテムがなくてもしゃべりまくる。
そのダンディなお客さんは、乗車して行き先を告げた後、低い声で「趣味・美術鑑賞か……」と呟いた。
そしてしばしの沈黙。
これは、美術もしくは美術館系の話題が来るかなと構えていたら、出てきた言葉は意外なものだった。
「運転手さん、レーゾンデートルって知っていますか?」
う~ん……かなりのフェイント。
世の中の皆さまは、『タクシードライバーは情報通』との潜入概念を持っているらしく、実に様々な問いを投げかけてこられるが、このパターンは初めて。しかも、意図が読めない。
「それは、『言葉の意味を』ということでしょうか?それとも、そういう名前のアーティストやお店をということでしょうか?」
「言葉の意味を、ですね」
静かに答えるお客さん。
うむ、運転中にお顔を拝見することはないが、醸し出す雰囲気はやはりダンディ。
「知っていますよ?」
「え? 本当に? 英語ですらありませんよ?」
心底驚いた小父様の声───そんなに変な返事だったろうか?
「ドイツ語───ですよね、多分(後に調べてみると、フランス語だった)」
「本当に知っているのですか? 言ってみてください」
「合っているかどうか確認したことはありませんが、『存在意義』ではないかと」
「……合っています」
束の間の沈黙。そして───
「語学が堪能で?」
「日本語はどちらかといえば得意ですが、語学は苦手です。中・高の英語の成績は、五段階評価で1212と来た人なので」
「いやいや、そんな筈は───私、ちょっと面白そうだと思った人に同じ質問をしているのですが、正解した人は初めてですよ。どちらの大学を御卒業ですか?」
「家庭の事情で高卒です。その後は興味の趣くままの独学で、あっちの知識を齧り・こっちの知識を齧り。知っていることは知っていますけど、知らないことは全く知らないという偏りで」
「それにしても、『ちょっと知っている』という言葉ではありませんよ?」
「そうなのですか? 私の友人達はみんな類友なので、ほとんど通じますよ。言葉遊びが好きなもので」
現在、この文章を読んでいただいている方々には、『言葉遊び好き』だけが理由で蓄積した雑学ではないと、説明するまでもなく判っていただけると思うが、世間的にはそう説明するしかなかった。
「では、他には何が?」
「走行中ですので、咄嗟に色々は思い出せませんが、アンビバレンツ(二律背反)とかエクトプラズムとかカッシーニ間隙とかエントロピー最大値とか……」
「……それを言葉遊びで遣っていらっしゃる?」
「カッシーニ間隙に行ってくる=隠れてサボリとか、エントロピー最大値=全くやる気がない状態とかの意味で遣いますね」
ダンディ小父様は、意味深な溜息を吐いた。
「いやはや、この歳でこんなに驚くことがあるとは思いませんでした。正解者が出たので、次の質問を考えなければいけませんね」
「では、次回お会いした時には、次の質問を楽しみにお待ちしています」
目的地に着いたので、そう言ってにこやかに別れようとすると、ダンディ小父様はタクシーチケットを差し出して言った。
「私、一度引退した後、ここで顧問のようなことをしているのです。今日は楽しかったですよ」
受け取ったタクシーチケットは、某有名広告代理店のチケットだった。どうりで……ね。
それから数年が過ぎたが、かのダンディ小父様とは再会していない。
いつの日か再会した折には、新しい問いかけを楽しみにしています。
およそ¥800ほどの、移動時のお話。
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