ウォーターラブソングを聴かせて

あっぷるピエロ

第1話

 電車をおりると瞬く間に夏のもわりとした熱気に囲まれ、すぐに引いたはずの汗がにじんだ。時刻はまだ昼過ぎ、夏休み中の部活が早めに終わったので帰るには少し早い。誰かを誘って遊びにいくのもいいし、一人でゲーセンにいってもいい。夏休みを満喫するための予定を立てながら男子学生は改札を出た。アイスでも買っていこうとカバンを探る。

 その横を同じように降りたらしい青年が通り過ぎた。暑そうな格好だ。サマーコートにしっかりした造りのカジュアルシューズ。若いが年上らしいことしかわからない。片手にちらりと見ただけでもおしゃれなセンスを垣間見せるブルーと白のグラデーションカラーの傘を持っていた。高校生ぐらいになると、特に男子は紺か黒のこうもり傘、またはビニール傘になってしまうものだ。好きでもあんなしゃれた傘なかなか選べない。

 すると、青年は駅を出るところで立ち止まって傘を開いた。

 かちり、と丁寧に伸ばされた傘が青年の肩に乗る。傘に描かれた美しい青い翅の、エメラルドグリーンの光沢が乗った蝶が合わせてふらふらと舞う。

 思わず目を奪われてから、ちらりと空を見る。

(? 晴れてるのに――)

 日傘代わりかと邪推する間もなく青年が足を踏み出すと同時、空の明かりが落ちた。

 ザァアア――……

「えっ!?」

 自分の声さえかき消えて、いきなり景色が水煙に包まれた。薄くなり煙るのは激しい音の雨である。まるでスライドショーで青と灰色を入れ替えたような突然の変調だった。先ほどまで雨の気配など微塵もなかったというのに、だ。

 驚いた様子もなくスタスタと青年は去っていく。タイミングがよすぎて唖然としたまま学生は青い傘が離れていくのを見送った。

 姿が見えなくなると、彼を追いかけるように雨はやんだ。


 ◇


 心地よい音楽のメロディーだけが流れる室内は、木製のコーディネートで統一され、柔らかく落ち着きのある空間であった。飾られた窓や小物はレースであったり木の実や麻紐で作られていて、どちらかというと可愛らしい印象。しかしかっこよさの映える時計や砂糖壷、デザインをシンプルに追求した椅子等は男女どちらの客層にも悪くない。

 カウンター四席、テーブル三組のお休みどころがこちらの喫茶店――『レインドロップ』。

 そう出入りが激しい店ではないらしく、今も客は一人。ポロシャツを着た広い背中がカウンターに座りノートと厚い参考書を開いている。

 カウンターの向こうにはホールを担当する給仕が一人。その奥にオーナーたる店長その人がいたが、作業を一段落させて奥へ入っていってしまった。

 それを気にした様子もなくエプロンを巻いた給仕がふきんをたたみしまうと、カウンターの隣に出て客のノートを覗く。就職後の課題と資格試験に追われているのだと、入ってきてコーヒーを注文した時点で本人が言っていた。高校上がりですんなりこの店の従業員になった給仕には何の勉強かもよくわからなかった。国語や社会という科目分けに分類できないタイプの文言が並んでいる。大卒は大変だという感想を抱いた。

 不意に窓から差し込む光が陰った。太陽に雲がかかったらしい。さっぱりと短い髪をがしがしかいてうなる客の傍で給仕が頬杖をついてそれを眺めていると、少ししてパラパラと雨の音。顔を上げてコーヒーに手を伸ばした青年が窓を振り向いた。

「お。雨が降ってきた」

「そろそろ来るわね」

 彼が言うところの意味を受けて、給仕はカウンターへ戻りカップを温め始めた。といっても次の客がいつも決まったものを頼むというわけでもない。だがその手間は三分の二ぐらいの確率で役に立つので、客がいないときには用意することにしている。

 カウンターの客がコーヒーをもう一杯おかわりする頃、雨足は強くなり空の灰色が濃くなった。激しい雨音がミュージックを打ち消し、ちりんちりんとドアチャイムが鳴る。滑り込んできた新しい客は手が濡れるのもかまわず丁寧に傘を束ねる。ブルーと白のグラデーションカラーの傘は、優しく傘立てに置かれた。

「やあ」

 それからひらりと振られた手に給仕が笑顔をこぼし、カウンターの青年が応じる。

「いらっしゃい」

「来ると思ってたぜ、ミスター」

 コートを脱いで抱え、黒のカットソーからのぞく首筋の水滴をぬぐいながら、客は迷いなくからかう調子の先客の元へ、カウンターまでやってきた。

「君がいるのは珍しいね、シュウ」

 広げられたノートをのぞき、ある資格の問題集だとわかると客はコートと鞄を空き椅子において友人の隣の椅子を引いた。二人並ぶと少し大柄な背丈の方の先客は、にやりとにかりの間で歯を見せて笑った。

「バカいえ、俺も常連だ。俺がいるときにお前がいないんだよ」

 そこにすっと水とおしぼりが滑り込む。にこやかに微笑む給仕が客を歓迎して注文を伺う。

「いらっしゃいませ、常連さん。本日は?」

「んーと、ウィンナー紅茶にしようかな」

「はい、かしこまりました」

 今日の分は当たりだ。温めて置いたカップの湯を捨て、給仕は紅茶の準備を始めた。

 その動きを眺める友人の足を小突いて、シュウは勉強の道具を片付け始めた。

「いいの?」

「だいたい目処は立った。おまえは?」

「僕も勉強中。知り合いから過去問もらったけど使う?」

「マジ? 見せてくれ」

「いいよ。代わりにこの前君が使ってた資格参考書貸して」

「あいよ」

 日常茶飯事の取引をして道具をデイパックに放り込み、コーヒーをすする。常連度で言えばミスターの方がよっぽど高いが、シュウだってそこそこの頻度でこの店を訪れている。ただ、シュウは気恥ずかしくて一杯片づけたら退散してしまうのに対し、ミスターは長時間喫茶店そのものにいることを好む。なかなか会わないのはタイミングの問題だろう。

 傘を差していても飛び込んでくる滴に濡れたのだろう、しっとりとした少し癖のある薄い色の髪から水分をぬぐう横顔を覗きこむ。

「なあミスター。今日の降水確率は何パーだったっけ?」

「さあ。連日晴れが続くって言ってたけど」

「やっぱりな。雨降り始めたから二人でそろそろ来るなって話してたんだよ。な、日菜乃さん」

「ええ。あなたが来るとプラントポットに水を撒きに行く手間がはぶけて助かるわ」

 肩の上でふんわりと毛先を巻いてそろえた髪を揺らし、給仕の日菜乃はしたたかな笑みを添えて生クリームの巻かれたカップを青年の前に置く。礼を言いながらミスターは苦笑した。

「そう前向きに受け取ってもらえると助かるよ」

「冗談よ。それがなくたって歓迎してるわ」

 くすくすと悪戯げに笑って日菜乃はスカートを翻しカウンターの中に戻っていく。彼らより彼女の方が年下なのだが、なんだかんだ彼女にはかなわない。ミスターはスプーンを取ると生クリームが溶けてこぼれそうな端をカップからすくい始めた。

 窓を叩く雨音は先程より控えめになっている。ミスターが雨音を何より好むと知っている日菜乃がいつの間にかボリュームを絞ったらしく、音楽より雨音が心地よく響いてくる。シュウはスマホで時間を確認した。ミスターは窓を叩く雨を眺めている。柔らかい笑みで。


 ミスターというのは彼のあだ名だ。通称。を、さらに略したもの。

 彼の特徴をひとことで表現すると雨男だ。彼の来店前に来訪を察知したのも雨が降ってきたからである。ごく希にただの通り雨だったりもするが、的中率は今のところ99パーセント強。彼が雨を連れ歩いているのはほぼ確実である。

 人呼んで、局地的豪雨、傘をステッキ代わりに持つ紳士、雨に愛された男。

 ミスターレイン。


 ひとまずあふれようとする生クリームの救出を終えると、ミスターが鞄からチラシを取り出した。

「はい、これ」

「お? ……ああ、この地区の花火大会か。あれ、明後日じゃん」

 夏祭りのチラシである。中心の舞台でやる演目と、屋台と、花火の時間が載っている。行き当たりばったりで知ったら向かうシュウはわざわざ日程を調べたことなどなかった。珍しいなと思いミスターの表情を伺う。

 ミスターと呼ばれているが彼に欧米の特徴があるわけではない。純日本人。特別冴えた容貌ではないものの厳ついと形容される自分よりとっつきやすかろう。体の厚みもそうなく細身で綺麗めな顔つきの彼は、日に焼けてそれなりに筋肉がつき、男らしく頬張ったシュウと対照的だ。どの季節も大抵コートを着ているので紳士っぽいと噂されているせいもあるが、その呼び名を初めに使ったのはシュウだ。ノリである。

 チラシを軽く叩いて、ミスターも目を上げる。

「シュウ、一緒に行ってくれないか。久しぶりに花火が見たいし、屋台も回りたい」

「いいけどよ。男同士でいくのもさみしいなぁ。しかもおまえは彼女持ちだし」

 友達同士でいくのは全然構わないしむしろ歓迎する。けれど多少僻みが入るのは仕方がないだろう。唇をナナメにしてポースを取るシュウに微笑み一つ見せてミスターはチラシをカウンターに見せた。

「日菜乃さんもどうです?」

「あら、いいわね」

「おい」

「いいだろう? ねえ」

「ええ。その日は早めにお店を閉めるそうだし。おめかししていかないとね」

 打って響くように誘いを受けてしまった日菜乃は、ミスターと結託してシュウの僻みをいじり始める。本当に求めていたわけではないのにここまでされたら抵抗の術はない。

「浴衣?」

「浴衣ね」

「楽しみだ。僕らもそろえた方がいいかな」

「浴衣? 甚平?」

「おいおい勘弁しろよ! ふっつーの普段着で行くぞ!」

「ええー、残念だなあ」

「そうよ、せっかくなのに」

 やめてくれ、とシュウは降参する。集合場所と時間について話が進み、あらかた決まるとミスターはシュウを見て「よろしく頼むよ」と困ったように笑ってお願いをする。

「しゃーねえ。任せとけっての」

 ミスターレインは雨男だ。だからイベントごとには自主的に休むことが多い。どうしてもの時にはこうして相方が呼ばれる。相方であるシュウの特性は晴男だ。普段は降る雨の好きにさせている特性は、気合いの入れ方で切り替わってくれるのか今までにし損じたことはない。胸を張って自慢げに請け負うと、親友は頼もしそうに目を細めた。


 夏祭りの夜は大盛況だった。曇ることもなく色を変えていく空はまっさらに開けており、日が暮れる前から始まった音楽は駅前から大通りを占拠して裏道まで根を張る屋台の元まで調子のいいリズムを振りまいている。明かりが点ると同時に増え始めた人で、道路はあっという間に埋まってしまった。若緑色に桃色の花が描かれた浴衣姿の日菜乃が水風船で遊びながら綿あめを持って振り返りながら先を歩いている。緩い格好で人波からわずかに頭の飛び出たシュウが離れることを危惧して彼女に声をかける。ミスターは興味のある屋台を見つけて、先に行っていてとシュウの背を叩いて離れた。晴男と雨男のパワーバランスというのは出だしで決まるもので、ここまで始まりきってしまえば多少離れたところでなんともない。きちんと計ったわけではないからわからないけれど。

 りんご飴の屋台でりんご以外にもたくさんの種類が売っているのを見かけ、試しにいくつか買ってみる。見た目ではなんだかよくわからなくなっている抜群の甘さの桃飴をかじりながら合流のタイミングを考えていたところで、ふと道の外れの神社に目が止まった。祭りの中心には乗らない、露店街のはずれ。 とても小さなもので、祭り自体がこの社に関係ないため、鳥居近くに提灯が灯った程度の参加で薄闇に沈んでいる。

 その石階段の下にうずくまっている人を見かけた。白っぽい服。サンダルを履いた足も膝を抱く腕も白く細い。顔を伏せてしまっているが、女の子だ。

「……」

 ――その姿に違和感を見つけてミスターはそちらに足を向けた。少女は人のないその薄闇に身を隠そうとしたのだろう、身じろぎもしない。

 彼女のつむじが見える位置まできて、ようやくミスターは違和感の正体に気づいた。髪だ。少女の腰まで届く長い髪が、きらきらと、とても美しく祭りの明かりを受けて輝いている。今は夜に沈んで深い色をして、とろとろと密のように見える、とても綺麗な髪だった。

 その手のものが専門であるわけではないのだが、その手に似た経緯のある恋人のことも手伝って、ミスターは泣いている様子の彼女に声をかけることにした。

「泣いているの?」

 少女は初め反応しなかった。

「どこか痛い? それとも怪我したの?」

 重ねて問うことでやっと自分に書けられた声だと思い至ったのか、少女がゆるゆると顔を上げた。泣きはらした目だった。中学……高校生くらいだろうか。

「……何」

「どうしたのかなと思って」

「ほっといて。どっかいって」

 歯を食いしばった震える声だ。全力の拒絶である。拒絶どころか存在さえ無視されていたことのあるミスターはあまり動じなかった。想像に確信を持つため彼女の肩に手を伸ばす。指先が髪をかすめたところで素早く立ち上がった相手に手をたたき落とされた。警戒心も露わに、威嚇する動物のように大きく息を弾ませて睨む少女をよそに、ミスターは触れた指先をしげしげと眺める。ひんやりとした柔らかい感触。でも指には何の跡もない。濡れた形跡さえも。

 手をおろして別段表情も変えず少女を見ると、怯えて身を引かれてしまった。長い髪がおりた身体は、キャミソールにキュロットスカート。夏らしい。さっぱりした格好は素直に可愛らしい。

 しかしそのミスターの表情といえば、驚きも恐怖もなく、警戒する猫の子を見るような純粋な興味だけがのぞいたいつもの顔である。その反応の鈍さが逆に恐怖を煽ってしまったらしい。少女の表情がくしゃりと歪んだ。

「き、気持ち悪いでしょ! 近寄らないでよ!」

 だだをこねる子どものように振られた頭から髪が揺れる。ふるふると、水風船のようなあっちこっちに重心が振れる揺れ方。美しい、水でできた髪。きらきらと表面が輝いて見えるのは光の反射だ。透き通り、かといって輪郭は曖昧にする透明感。

 ――少女の髪は、水そのものでできていた。

 表面をたとえるならゼリーのようだろうか。ぷるぷるとした弾力を思わせる表面張力は重力に負けず髪の形に留まったままで、毛先ほどの概念はなさそうでも、ある程度髪型らしく枝分かれしている。彼女の頬にも肩にもしっとりとかかっているが、どうやら濡れはしないらしい。けれど切り離されることはあるのか時々ぽたりと水滴が落ちていく。水で作られたヴェールをかぶったような装いで水髪少女は唇を噛みしめてミスターを必死に睨みつけていた。

 ミスターは躊躇なく飛び退かれてしまった距離を詰めた。少しだけ見下ろす高さに彼女の頭がある。しむじを見下ろすまどは届かず、すいっと水髪少女の肩に掛かる一束をすくいあげる。水の中に手を入れたような冷たさと簡単に手から逃げていく流動感。確かに濡れた感触がするのに触れる手は何事もない。掴めはするけれどゼリーのようにとはいかないらしい。あくまで髪の形を保った水なのだ。

「わあ、これはすごい。すてきな髪だ。綺麗だなぁ」

「気持ち悪くないの?」

 身構えた少女はびっくりして目を丸くしていた。

「どうして? とてもすてきな髪だよ」

 ミスターは小首を傾げて当然と平然と常識を語るように当たり前のようにさっぱりと言いきった。それを聞いて少女はしばし絶句し、泣きそうに顔をゆがめると背を向け弾かれたように走り去っていってしまった。裏通りの静かな路地にパタパタとサンダルの音がはねて消えていく。

「……」

 立ち尽くすミスターに声をかけるように、ぱらぱらと小雨が降り出した。染み込むとまではいかず、髪や服に玉のような滴ができていく。柔らかく繊細な声で、恋人が呼んでいる。

 音もなく寄り添ってきた気配に指先を向けながら、少女の立ち去った方を見つめたままミスターは恋人にささやいた。

「あの子を探してくれる? ……ああいう子、放っておけないんだ」

 ミスターの指先を撫でて、恋人はそっと離れていった。気配の名残に手を重ねながら、ミスターは遠くで響いた大きな花火の音に振り向いた。

「……帰ろうかな」

 本格的な雨になる前に。濡れそぼって恋人を心配させるのもよくないだろう。


 祭りの同行者に連絡をとると、同じく花火も見ずに引き返すことになり(帰るから見ていけといったが聞かなかった)、待ち合わせ場所へ戻ったときには二人ともすでにそこにいた。祭りを全力で楽しむタイプのシュウと悪のりには定評のある日菜乃はそれはもうめいっぱい祭りの戦利品を抱えていた。シュウは射撃か輪投げかなにかの商品とバルーンサーベル、ライトサーベル等を抱えライダーマスクのお面を装備していた。もう片手にはたこ焼きややきそば等の出店食品。日菜乃もお面を頭にかぶり、綿あめと水風船と金魚とりんご飴とアクセサリーをぶら下げてかき氷を持っていた。楽しそうだなぁ。

 待ち合わせ場所にしていた喫茶店『レインドロップ』の店先で土産話と戦利品を分け合って、花火の音を聞いて帰った。

 明日以降の天気は、まだ決まっていない。


 ◇


 日の出と競うような早朝から人目のつかないところを探して少女がうずくまったのは、地区の小さな集会所だった。めっきり人の減ったこの地区は別の地区と合併し、ここはほぼ打ち捨てられた空き家だ。わざわざ雨の日に何もない集会所を訪れる人もいないだろう。

 いつの間にかしとしとと雨が大地に降り注ぎ始めたのを、軒下でひざを抱えながら少女はぼんやりと見送っていた。世界がまだぼんやりとまどろみから目を覚ましてなさそうな薄群青色の空気は、日が昇ったあとも時間を朝で止めている。

 雨のせいで人通りはぐっと少なく、聞こえてきた通り過ぎる車の音も三台数えただけ。ひざを抱え直すとこぼれ落ちた水色の髪が肩を抱いた。体温が移ったのこほんのりと温かい。

 ふと、集会所の横手の道路を歩く人の姿を視界の端に捉え、少女は縮こまった。通り過ぎる人なら、傘で視界も悪いはず。陰に入ったこちらの姿までわからないだろう。

 ひざにかかる自分の吐息がぬくい。ずいぶんと身体が冷えているなぁと思ったとき、迷いもせず道を折れた人影がすぐ近くにまでやってきており、少女の伏せた視界に防水加工がされたカジュアルシューズのつま先が入りこんだ。

「みいつけた」

 のんきな男性の声だった。

 素直に顔をあげてしまったのは心当たりがまったくないわけではなかったせいだろうと思う。チョコミント色のアイスのようなデザインの傘を背中でくるりと回して、祭りで出会ったあの青年が笑った。

「水髪少女」

 なんだその呼び方は。思ったが口に出すほど気力もない。

「ねえ、話を聞いてもいい? 温かいお茶でも飲みながら。オススメのお店があるんだ」

「……」

 応える力さえない。見せ物としてつきだされることも少し思い浮かんだが、人畜無害そうなこの相手に警戒するのさえ疲れる。少女はもう疲労でいっぱいいっぱいだった。

 可否さえ示さない反応をしばらく黙考した青年――ミスターレインは、話を進めるために真っ向から話題に入ることにした。

「君の髪、なにかいるの?」

「!」

 ばっと少女が顔を上げた。強い反応にミスターの方が目をしばたかせる結果になった。

「なんで……」

「いや、半分は当てずっぽうだったんだけど……」

 困惑する相手をまた困惑しつつ見つめる少女の視界に、肩にかかる長い髪に、透き通る身の一部に、時々ちらりと赤い色が泳ぐ。ひらりとリボンのようにおびれが柔らかく水になびく様子。いるのは一匹だけ。この水槽に棲むあるじがいるからこそ、少女はまだ強硬手段に出ることはしなかったし、一人に耐えきれずなんてこともなかった。代わりに苛まれる後ろめたさとほんの少しの喜び。けれど他人に水槽の主の存在を気づかれたことはなかった。

「似たような前例に遭ったことがあってね」

 ミスターは傘の縁に指を伸ばして垂れ下がる雫をつつつ、となぞった。ぽたぽたと雫が地面に落ちて、水たまりに波紋を作った。

「僕は自称他称ともに雨男でね。そのせいじゃないんだけど、水にはちょっと縁がある。今までも少し不思議な相談に乗ったことがある、じゃあ弱いかな? 風邪を引くといけないし、今いきたいところがないなら、雨宿りがてら話をしてもいい?」

「いくところ……」

 オウム返しに呟いて、少女は立ち上がった。このままでは家には帰れない。隠れるにも疲れていた。すがる思い半分、自暴自棄半分、少女は八つ当たりのように青年を尖った目で見て唇を引き結んだ。

「うん。いくところなんてないもの、いいよ」


 少女をつれて目的地についたミスターレインが扉を押すと、ちりんちりんと軽やかな音を立ててドアベルが鳴った。慣れた様子で、不思議なほど様になった動作で傘を束ねて傘立てに置くミスターに続いて、少女もおろした傘を束ね始める。青年が差し出してきた桜色に若草色の葉が描かれた可愛らしい傘だ。彼の私物だという。「可愛いでしょう?」とのんきなことを言っていたからには、周りの目も気にせず愛用しているようだ。

 先にカウンターへ入ったミスターが先客に対し「やぁ」と声をかける。そこで、人がいる事態を思いつかなかった少女はやや狼狽して身構え、目でその背を追った。青年の前に男女がふたり。

「いらっしゃい」

「お、例のいってた子か。さっそく口説いてくるとは手が早いなぁ。カノジョにいいつけてやらねーと」

「怒られるからやめてよ」

 ミスターがちょいちょいと手招きしたのを受けて恐る恐る中へ進む。カウンターの奥に喫茶店のマスターらしき渋い雰囲気の男性がいる以外に他に人はいない。おどおどと青年の隣に並ぶと、ミスターが簡素な紹介をする。

「こちらさんがちらっと説明しました水髪少女です」

 その呼び方で固定されているのかと驚く暇もなく、エプロン姿の女性が目を輝かせて身を乗り出してきた。

「きれいな髪ね!」

「でしょ」

「なんであなたが自慢気なのよ」

 ミスターのわき腹をつついて退散させた日菜乃は、わくわくとした好奇心を隠さず少女の顔を覗き込んだ。

「ねえ、触ってもいいかしら?」

「は、はい」

「あら柔らかい。すり抜けてこぼれていきそうね……結べるのかしら? ちょっと髪借りるわね」

 どうぞどうぞとカウンター席の椅子をすすめられ、座るとどこからともなく取り出してきたくしとリボンを手に、日菜乃が嬉々として水髪少女の髪をいじり始めた。流されるままになっている少女は緊張気味に膝の上で手を握りしめている。

「ほどほどにしなよね」

「まかせて」

 日菜乃はウインクをよこしてまとめた髪をリボンで束ね始めている。

「マスター、飲み物をお願いできる? 僕はココナッツカフェ。その子にはバナナミルクティー」

「はい、かしこまりました。しばらく空けておくから、ゆっくり使ってください」

「いいんですか?」

「雨の日の来店はやはり減りますから。あなたのような上客でもない限りは」

 当店オススメのオーダーを受けつつ、白髪の混ざり始めた髪を丁寧に撫でつけたマスターは、紳士らしく洗練された姿勢で柔らかく微笑んでミルクパンに茶葉と水を入れ火にかけ始めた。

 ミスターも友人の隣に腰を下ろして、かすかに濡れた肩先を取り出したタオルでぬぐう。その合間にシュウがささやくように肩を寄せてきた。

「よく見つけられたな」

「彼女にお願いした。近くはなくても、関連があるならわかると思って。がんばってくれたみたいだから、なにかお礼しないとね」

「雨の日に動物園でも行ってこい。人少ないし喜ぶぞ」

「うーん、動物園とか喜ぶかなあ……」

「じゃ、自然公園とかは?」

「あ、いいねそれ。今度はそうしよう」

「できた!」

「早いな」

 男性陣がふたりそろって振り向くと、日菜乃がえへんと自慢げに胸を張っていた。その前に、赤と黒のリボンで両サイドに二つ結びをされた水髪少女がもじもじとひざを合わせている。髪をあげると印象ががらりと変わる。

「可愛いね」

「似合うじゃねえか。というか、ふつうに結べんだな」

「さわり心地いいのよ~。気持ちいいわ」

「え、じゃあおれも」

「おさわり禁止!」

「なんでだよ!」

 手をたたき落とされたシュウが日菜乃にくってかかり、日菜乃がなんだかんだいって少女の肩を抱き独り占めしている。わたわたとする少女と掛け合いの賑やかな様子を見ているのも楽しかったが、仕方なくミスターは間に入って水を催促した。カウンターの中へ戻る日菜乃にまだ言い返し続けるシュウをよそに、ミスターは少女に話しかけた。

「中にいるものはどう? まだいる?」

 少女がちらりと髪全体を見回して頷いた。

「います」

「何がいるの?」

「金魚」

「金魚?」

「赤い、金魚」

「……金魚、泳いでるの?」

「うん」

「しばってても大丈夫?」

「大丈夫そう」

 首を傾げるシュウに短く説明すると、幾度か似た経験をミスターの傍でしてきた彼は理解もしにくいだろうにあっさりとうなずいて聞き役に徹する姿勢になった。この親友には高校時代からの付き合いで、長らく世話になっている。その有り難さをかみしめて緩みそうになる唇をなんとか引き結び、優しく、まじめな態度で少女に向き直る。

「原因に心当たりは?」

「……飼おうと、したことがあった」

「できなかった?」

 少女の顎が小さく引かれた。辛抱強く待ちの体勢をとる。水髪少女は言葉を探すように薄紅色の唇を少しだけ開き、また閉じることを繰り返した。ことり、とグラスに入った水とおしぼりが場に応じた日菜乃の手によって静かにおかれ、その水面に目をやった少女が意を決したように言葉をこぼした。

「金魚が飼いたかったの」

 透明なビニール袋に入った赤い魚。ひらひらと泳ぐ姿が可愛くて美しくて、嬉々として家に帰った。ただ、そういうものに頓着しない父をのぞいて、母と祖父からひどく否定された。邪魔だと。水がこぼれたら困る。生き物なんて。おとなしくて手間暇もそこまでかからないと思っていた存在を全否定されたことに受けたショックはまだ忘れられない。祭りの灯火に照らされながら、波打つ水面から金魚をすくい取ったときの感動を、あの賑やかな祭りの熱気を、まるごと踏みにじられたようだった。

「お祭りで一匹だけとったことがある。金魚鉢にあこがれてて、泡玉とか水草とか入れて、きれいに飾りたかった。でもダメだっていわれて捨てられた。それが申し訳なくて、悲しくて、そしたらいつの間にか髪がこうなった」

 目撃した母の顔が驚愕と恐怖に染まっていく瞬間を見て、とっさに家を飛び出した。髪の中をあのときすくえなかった金魚が泳いでいる。みんなには見えない、自分だけの金魚。

「お祭りっていつの?」

「隣町の……」

「一週間前にやったやつか」

「髪、その日に?」

「ううん。なったのは三日ぐらい前」

「ふむ」

 甘い香りがする。バナナを煮詰める香り。マスターが静かにミルクに茶葉を入れた鍋をかき混ぜている。コーヒーの準備を続ける日菜乃もシュウも、口出しせずミスターの言葉を待っている。ミスターは焦りもなく黙考したあと、ひざの上で組んでいた手をカウンターに乗せ直して、少女に提案した。

「じゃあ金魚鉢を買いに行こう。泡玉も、水草も、君がしたい形のすてきな形のデザインを探しにいこう」

 喫茶店の時計の時刻は、まだブランチにも早い。のんびりしてから、繰り出そう。

 顔を上げた水髪少女の表情が曖昧に揺れ動いた。困惑していた心が徐々に意味を理解したらしく、じわじわと期待と喜びに変わる。その表情を肯定と受け取って、ミスターは店の確認をしてくるねと一度席を立った。携帯を取り出しながらどうやら外まで出て行く様子。

「ミスターレインにまかせりゃなんとかなるって」

 ちりんちりんとベルの音が鳴るのを見送っていると、同伴していた青年から声がかかった。頬杖をついての発言態度、投げやりにも見えるが信頼しきったものだ。興味深そうに少女の髪を眺める彼は、少女が自身の家族から向けられた奇異や異端に向ける恐怖の目を持っていない。飛び出し、密かに帰っても顔を合わせず逃げ回っている我が家の家族は、今どうしているだろう。ぼんやりと思考停止して、青年の言葉を反復する。

「ミスターレイン?」

「ん、あいつのことだ。あれ、聞いてない? 年中無休の雨男って」

「雨男っていうのは聞いたけど……年中無休って?」

「いつもさ」

「いつも?」

「雨に恋して、雨を好きすぎて、雨に好かれちまったのさ。だから雨男。ミスターレイン」

 ちりんちりんと再度ベルが鳴った。入ってきたミスターが真っ先に友人に声をかける。

「シュウ、買い物を手伝ってくれ。さすがに二人で鉢やらなにやらそろえるのは大変だからさ」

「お、いいぜ。どこまで?」

「近くのホームセンターで大丈夫。今聞いてきた」

「おっけー。……それで、あれどうにかなんのか?」

 会話しながら席に着いたミスターと同じタイミングで、日菜乃がバナナミルクティーを少女に運んでくる。その隙をついて声を潜めた親友の問いに、ミスターは笑って答えた。

「あの子は金魚が飼いたかったんだ。飼わせてあげればいいさ」

「ふぅん……天気は?」

「いいよ、このままで。あ、歩きにくいかな?」

「いーや、俺はもう慣れた。問題ねえよ。あの子だって雨ん中あの格好の方が目立たねえだろ」

「あ、そっか。なるほど」

 次いで出てきたミスターの注文のカフェにかぶせてシュウが別のものをおかわりする。朝ご飯にどう? とおすすめしたワッフルを少女にごちそうし、食べ終えるころにミスターは雨足の弱くなってきた窓の外を見て、いこう、と彼らを促した。


 喫茶店は大通りから幾本か道を入ったところにある穴場の位置にあり、そこから大型マーケットの類がそろう商業地区はわりと近い。雨の中歩いていくことに伺いをたてられたのは少女に対してだけで、ふたりは何にも気にせずぽんぽんと言葉を投げ合っている。明け透けにじゃれあう男子たちの図を見て、くすと笑う余裕ができる程度に落ち着いた少女は、日菜乃に借りたパーカーのフードをかぶっている。長い毛先はほとんど出てしまっているが、前に垂らしているし、遠目からのインパクトはなくなった。日菜乃の気配りに感謝だ。

「なあ、髪ちょっとだけ触ってもいいか?」

 結局日菜乃に阻止されたシュウが水髪少女にうずうずと尋ね、少女は目をぱちりと瞬いて苦笑した。結んでもらった髪の束を掴んで持ち上げる。

「どうぞ」

「マジ!? やったー! どれどれ……」

 透明感あふれる少女の髪は、今も日の光が透けた明るい灰色の空から降る明かりに煌めいている。その光が海の波のようにちかりちかりと一定しないので、髪自体が流動しているような、彼女自身が水の化身のような、そんな神秘的で美しい光景だ。ほう、思わず見惚れてため息をつく。

 ふと、雨の調子が変わった。信号で足を止めたミスターが傘を持ち上げて空を見上げる。さあさあと霧雨のようだった滴が少し大粒になって斜めに傘の中まで飛び込んでくる。おや、と手を傘の外に差し出す。ぺちぺちと皮膚をたたく強めの滴が手のひらをたたいて、すぐにやわらかくなった。首を傾げる水髪少女に微笑する。

「『彼女』がすねてるみたいだ」

「『彼女』って?」

「僕の恋人だよ」

「恋人いるの?」

「いつも一緒にいるよ。見てるだろう?」

「……?」

「雨のことだよ」

 雨。名前ではなく天気だろう。上空に水蒸気が集まり重さに耐えきれなくなると落ちてくる滴。雨は確か、恋人と称するような意識体ではないような……人どころか、自然現象では。

 何の比喩だろうと首を傾げたまま考える少女に、ミスターは秘密を教えるようにふわりと笑った。

「僕はね、雨が恋人なんだ。雨を連れて歩く、っていくより雨がついてきてくれる。だから雨男。それだからミスターレインなんて呼ばれてしまってるけどね」

「……いいの? それ」

「雨が好きでね。あの音も激しさも柔らかさも冷たさも、とかく雨が大好きなんだ。あまりに好きすぎて恋をして、口説き落とすくらいには」

「口説き落としたの?」

「うん。だからほら、僕の周りにはいつも雨が降っている。『彼女』が僕に惚れてくれたから。口説いた甲斐があったね」

「この雨男の雨好きっぷりはすげえぞ。雨に濡れて帰るのは当たり前、休日も雨に打たれて半日近くぼうっとしてるたけ、それで風邪引いたことなんて数知れず。一度ぶっ倒れたこともあったよな」

「肺炎一歩手前だったね。あれは申し訳なかった」

 あまり申し訳ないと思ってなさそうな顔でミスターは笑った。親友に額をチョップされ、大げさに押さえる。風の流れが変わって瞬間的に強くなった雨足がシュウの顔面にかぶった。ぶあっ!? と挙がる声にミスターの笑い声が弾ける。

 水髪少女の周りでは、雨を好きだなんて言い出す人はいなかった。うっとうしい、濡れる、冷たい。そうやって避ける人は多く、少女自身もわりとそう思っていた。それでもなんだか、今は。 髪に手を通す。するりと抜ける、不思議な感触。そういえば人の反応が恐ろしくて逃げていたけど、この髪自体を気持ち悪いとは思わなかったな、とぼんやり思う。

 背中の傘をくるくると回しながら雨に濡れることがいちばん好きだと彼はいった。

「……ホントに雨が好きなのね。雨男や雨女は龍神様に好かれてるって聞いたことあるよ」

「へぇ、龍神様! かっこいいな」

 傘の下から雨に手を伸ばし「龍神だって」とささやく。やや雨足が強くなる。

「浮気はいけませんって」

「怒った?」

「すねてる」

「ごめんなさい?」

「気にするなって」

「じゃあ晴男は何かに好かれてんのかね」

「晴の方はお稲荷さんじゃなかったかな」

「ああ、天気雨のこと狐の嫁入りとかいったりするもんね」

「……それは晴れって意味なのか? 雨なのか?」

「晴れを司ってて、特別な日だからちょっと天気を変えとこう、みたいな?」

「すごいなお稲荷さん」

 すごいねぇとのんびりと応じる彼は自分の奇特さはあまり視野に入っていないようだ。シュウはそれをわかってあえて流している。慣れた付き合いのようだ。

「……すごいなぁ」

 雨が大好きだと笑う横顔を見ながら、そっと少女は自分の髪を拾い上げ、肌の色を透かして見える不思議な髪を見下ろした。強く握りしめてみるとやわらかく隙間から逃げていく。毛先をほんの一束つかんで、ぐいとちぎるつもりで輪を縮めると、さすがに耐えきれなかったのかぱしゃんと水になって道路に跳ねた。混ざってしまった水たまりに映った自分の、肩先の水髪に赤色が翻る。まだいてくれる。ちくちくと罪悪感を苛ませるものだと思っていた存在が、いてくれることにほっとする。呼ばれて顔を上げると、横断歩道を駆け出した。


 ホームセンターや雑貨屋、果ては百均まで巡って、少女の理想の材料をそろえるのにほぼ半日かかった。歩きだから仕方ない。代わりに一日の初めには不安そうで仕方なかった水髪少女は買い物を始めると目を輝かせ、当初の攻撃的な一面や気弱な雰囲気をまるごと脱ぎ捨ててしまって、年相応らしい明るさではしゃぎ回っていた。

 少女が選んだのは、オーソドックスによくある、縁が波状になった小さな鉢だった。本物の金魚鉢である。長らく本格的に飼う予定もないため、他に綺麗なガラス製の玉砂利や水草の飾りを購入するに留める。少女は思い描いていた理想の物が手に入ってうれしいのか、自分で大事に鉢を抱えている。シュウは不思議現象の専門家になりつつある友人を向く。

「これで金魚なんて飼えんの?」

「入れるのは彼女の中に棲んでる金魚だよ。大丈夫さ」

 ふぅん、とシュウは相槌を打つだけにした。雨男に対抗して晴男だなんて振る舞っているが、不思議現象に浸って生きたいとは思わないスタンスでこのつきあいは続いている。ミスターにとってこんなくらいの距離がちょうどいいのかもしれなかった。

 喫茶店へ戻ると、ちょうど中にいた客が会計を終えて出て行くところだった。ドアを開けたまま客が出て行くのを見送り、会釈を交わして入れ替わりに中へ入る。出迎えてくれたマスターと日菜乃に断って、奥のテーブルを一つ借りる。

 シュウにもたせていた砂利と水草を広げ、好きなようにセットしてみなよと水髪少女に一任する。工作の時間に目を輝かせる子供のように、少女はさっそく取りかかった。そこにぱっと手が突き出される。

「じゃん」

「?」

「金魚の置物」

 開かれた彼の手の中に、小指の先ほどの大きさの、ガラス製の小さな飾りが乗っている。赤いからだに黒い目の可愛らしい金魚だ。それを少女の手のひらに落として、ミスターはぱちりと片目を閉じた。

「雰囲気は大事でしょう?」

「……ミスター。ウインク似合わないね」

「あははは! ひどいなぁ」

 笑いながらカウンターに戻っていく彼を見送り、水髪少女は水草を手に取る。かつて、自分が思い描いていた通りの、美しい鉢を作るために。


「水ある? 水道水でいいよ」

「金魚にはだめなんじゃないの?」

「ふつうの金魚はね。彼女のは大丈夫だよ」

 そんなやりとりをカウンター越しにしてボールに入った水を持ってきたミスターに礼を言い、水髪少女はそっとその水をガラスの鉢の中にそそぎ入れた。半分程度満ちたところで様子をうかがう。水の波紋がくわり、と底にしかれた青の砂利の上で揺れる。ゆらゆらと水草も波に応じ、やがてゆっくりと静かになった。

 青と半透明の砂利が、光を受けてテーブルに色を透かしている。そこにそっと、手のひらに握りこんでぬるくなった金魚を落とす。青い浜に着陸した金魚は満足げに揺れて落ち着いた。

「……」

「満足?」

「うん……うん……!」

 水に溶けたようにぼやけた、けれど確かにきらめいた声で少女は目に玉を浮かべて頷いた。

「ほら、君の金魚を中に入れて上げようよ」

 水髪を指さされて、少女はあわてて自分の姿を見下ろした。水を足すと増える仕組みなのか、雨をかぶって若干量が増えている気がする。水髪の中を泳ぐ金魚を探してくるくる回った後、結んだ髪の先にやってきた子を見つけて房をつまみあげる。

 金魚鉢の上に運んで、道中やったことと同じように、絞るように毛先をぎゅっと握る。葉の先からたまった水が滑り落ちるように、するんとシャボン玉大の水滴が鉢の中に落ちた。

 髪を握りしめたままじっと水面をうかがう少女の手から、ぽたぽたと水が滴っていく。束ねられた髪の量が減っていく。きらきらとした輝きが別の色になる。気づいて声を上げる気配を察したミスターは、後ろを振り向いて唇の前に指を立てた。

 少女は金魚の姿を追うことに没頭している。水でできていた髪が戻っていく。少女の髪が確かに地毛だとわかる焦げ茶になる頃、肩先で揺れる丈から湿り気も残さず水の髪が金魚鉢に入ってしまった。どんな量だとぼやくシュウの声は全員で聞き流す。リボンがほどけてぱさりとテーブルに落ち、鉢の中を間違いなく泳ぐ少女だけの金魚の姿を満喫したのか、元・水髪少女は体を起こしてミスターに笑いかけた。初めて見る、心の底からのまばゆい笑顔だ。ミスターも応えて笑みを返した。

「よかったね」

「うん、ありがとう!」

「そういえば、髪、短いのも似合ってるね」

「え?」

「水をかぶると量が増えて伸びる仕組みだったんだね。ギャップかな。髪、長いのも可愛くて似合ってたよ」

 髪が戻っていることに唯一気づいていなかった少女はあわてて自分の頭に触れ、身体を見下ろし、毛先をつまんで口と目を丸くして動きを止めた。じわじわと目元に滴が浮かぶのを見て、ミスターは一瞬対応を間違えたかと焦った。

「……私ね、ミスター」

「うん」

「……けっこう、あの髪、気に入ってた」

「うん」

「だって、とっても綺麗だったもの」

 少しだけ寂しそうに、けれど嬉しそうに、少女は花がほころぶように微笑んで、したたかにいってのけた。

「うん、僕もそう思うよ」

 ミスターレインも、水の精のようだった彼女と目の前の少女を重ね、強く頷いた。

 彼女にだけ見える金魚が入った鉢を抱いて、少女はまた訪ねてくると約束し頭をさげて帰っていった。夏の夢だと思えばいい。家族からきっと怖がられてしまった彼女に一つアドバイスをする。きらきらした夏のような笑顔で、彼女は青空をのぞかせる日差しの中を去っていった。


 場を貸してくれた喫茶店のマスターと日菜乃、それに手伝いを請け負ってくれたシュウに礼を重ね、その上でミスターは先に帰ると断りを入れて店を出た。

 歩き出すとすぐに小雨が降ってくる。恋人に手伝ってもらった礼に、今日自然公園に寄っていこうと決める。チョコミント色の傘を傾けて、少しだけ晴れ間がのぞく雨空を見上げる。そうして舞踏会に参加するマドモワゼルにダンスを乞うように手を差し出した。

「手伝ってくれてありがとう」

 ミスターレインは手のひらにぱらぱらと降る滴を受け止め、顔を寄せ、雨にそっとキスをした。

 恋人は恥ずかしそうに日の光に瞬くシャワーを振りまいて、虹を架けて駆けだしていく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ウォーターラブソングを聴かせて あっぷるピエロ @aasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ