彼女の覚悟
ギルバートは、リディアは寝たきりの重病人だと聞いて北壁の外にやってきた。
ところが、彼女はベッドから離れて自力で応接室に来たではないか。
(神のご加護、ねぇ。そんなはずはないが、まぁいい。しかし、予定が若干狂うが、そのほうが都合がいいかもしれん)
彼の提案に対するリディアの反応は、劇的だった。もともと血色が悪いのに、リディアの顔はさらに青ざめてしまっている。
受け入れてくれるはずだった身元引受人が、意見を翻したようにしか聞こえなかっただろう。
「とりあえず、俺の話を聞いてくれ。それから、決めてほしい。北壁の向こうに行くか、行かないのか。今なら、まだ間に合う」
不安で落ち着きをなくした彼女は、何か言おうと口を開きかけて言葉を飲み込むように口を閉じる。
(まだ、見捨てられたと決まったわけじゃないわ。話を聞いて、慎重に考えないと)
人生の大きな岐路に立たされている。
このまま先へ進むことの不安は大きい。けれども、謎に満ちた神の国への期待も、負けじと劣らず大きい。
今、彼女の中の天秤は小刻みに揺れている。
確認だがと、ギルバートは彼女よりも動揺して真っ青になっている外交官を見やる。
「コニーにも伝えてあるが、フラン神聖帝国は移民を受け入れない。そのために、北壁を築いたくらいだ。もちろん、俺みたいな例外もいる。だが、例外はめったにないから、例外だ。だから、こんなことはもう二度とない」
「この度はご無理を通していただいたこと、しっかり承知しております」
全身をこわばらせた外交官に、ギルバートは苦笑しながら左手をひらひらと振る。
「実のところ、俺はコニーの頼みでも断るつもりだった」
もうこれ以上ないというほど青ざめていた二人の顔が、ほとんど屍のようになった。
(いや、普通に話を聞いてくれよ。そんなに表情をコロコロ変えられると、からかいたくなるじゃねぇか)
こみ上げてくる意地の悪い誘惑をこらえて、彼は真面目な顔を維持する努力を強いられていた。
「そう悪く思わないでくれ、リディア嬢。できもしないことを言うほど、俺は無責任ではないんでね」
「ええ。わかります。でも、ギルバート様は例外として、わたしの身元引受人になってくれたんですよね」
「まぁそういうことなんだが、誤解しないでほしい。あんたの帰化の許可を出したのは、俺じゃない。そもそも、俺にそんな権限はない。ま、身元引受人までは引き受けなくても、治癒くらいは手配してやるつもりだった。なにしろ、可愛い弟の頼みだからな」
げんなりとしたため息をついて、ギルバートは軽く頭をかく。
「ようするに、俺はあんたを北壁の内側に招待する気はなかったってことだ。今もな」
「でも、わたしはフラン神聖帝国に行くように命じられて来たんです」
「まぁ聞けよ。北壁の内側に入ったら、あんたはもう二度と出られない。外と連絡を取ることすらできない」
「覚悟はしています!」
リディアは、ついヒステリックな声を上げてしまった。
(そんなことくらいわかっている。わかっているから)
ハッと我に返った彼女は、恥ずかしさと悔しさに唇を噛んだ。
本当は覚悟はできていなかった。
覚悟ができていたら、不安をこじらせたりしなかっただろう。
動揺を隠しきれない彼女に、ギルバートは軽く目を細める。むしろ、彼女の反発は想定内だといわんばかりの余裕すらあった。
「もう少し具体的な話をしよう。北壁の中に、あんたの知り合いは一人もいない。たとえば、俺があんたに危害をくわえたとしても、助けはないってことだ」
「危害なんて……」
「神の国なんて呼ばれているが、帝国は善人ばかりの楽園じゃない。いくらでも考えられるだろ。壁の向こうで、あんたがどうなろうと、外にはわからない。売春宿に売り飛ばそうが、金目の物を奪って捨てようが、俺が何をしようと誰にも咎められない」
「ギルバート様、ご冗談はほどほどにしてください」
さすがに、外交官が顔をひきつらせて口を挟む。
「冗談かどうかは、北壁の向こうに行かなければわからないだろうが」
悪人を演じる下手くそな役者のように、ギルバートはわざとらしく鼻を鳴らして足を組んだ。
「いいか、俺はあんたのためを考えて、来るなと提案している。中途半端な体を治すくらいなら、ここでもできる。あんたが健常な体を手に入れるために、わざわざ北壁を超える必要はない」
ギルバートは一気に畳み掛ける。
「あんたの従妹が結婚すれば、恩赦で呼び戻すこともできるだろう。そうでなくても、ほとぼりが冷めたら呼び戻すように、俺ができるかぎりのことをしてやる。北方の故郷に帰るという選択もある。そっちのほうが現実的だな」
「それも、ギルバート様が手配してくださると?」
「ああ、当然だ。俺が提案したことだからな」
リディアは、テーブルの上の書類に目を落とした。
「でも、そちらにサインしてもらうこともできるんですよね?」
「帰れなくなるぞ」
サインさせるなと、ギルバートは暗に告げていた。
(そんなに、ギルバート様はわたしを帝国に連れて行きたくないのね)
善意からくる提案なのかどうかは、リディアにはわからない。ギルバートが、身元引受人として信頼できる人物かどうかも、わからない。
――帰れなくなるぞ。
けれども、ギルバートのそのひと言が、彼女を決断させた。
「サイン、してください」
「まだわかっていないのか?」
「わかっています。わたしを壁の向こうに連れて行ってください」
膝の上においていた両手を、彼女は痛いくらい握りしめていた。
彼女はまっすぐ見つめることで、決意を示す。
「俺が善人だという保証はどこにもないぞ」
「わかっています。でも、わたしを嵌めようとするなら、先に警戒させるようなことを言うのは、おかしいです」
「打ち明けることで信頼させて、嵌めるというのも、よくある話だろうが」
リディアとギルバートは、ほとんど睨み合っていた。
「提案、ですよね。決めるのは、このわたし、ですよね」
ひと言ひと言、リディアは強調した。
提案と言っておきながら言いくるめようとしているのだと、彼女は気がついていた。
まだ言い募ろうとするギルバートを制するように、彼女は続ける。
「帰る場所は、もうないです。どこにも帰れないなら、進むしかないんです」
彼女の覚悟が決まったのだと、ギルバートは悟った。
(別に、進む先は帝国だけじゃないだろうに。まぁしかたない)
苦笑した彼、は軽く肩をすくめて外交官を見上げる。
「ペンをくれ」
安堵した外交官は、彼の気が変わらないうちにとペンやインクをテーブルに並べていった。
ペン先をインク壺に浸したのを見て、リディアもようやく肩の力を抜いた。
「そうと決まれば、できるだけ早く出たいんだが、支度にどのくらいかかる?」
「え、もっとゆっくりされては……」
「そういうわけにもいかなくてな」
ペンを置いた彼は、申し訳なさそうに頭をかく。
「荷物が多いなら、あとで送ってくれ。できれば、そうだな……」
「ご心配にはおよびません。ほとんど着の身着のままでヴァルト王国を追放されたようなものですし、すぐにでも支度できます」
リディアの声は、こころなしか弾んでいた。
(これで、ようやく前に進める)
帰る場所はないと、彼女は言った。より正確に言うなら、帰りたい場所がないだ。
来年の春に次期国王と結婚する従妹も、故郷の両親も、きっと彼女を迎えてくれる。王太子暗殺未遂に巻き込まれたことも、災難だったと慰めてくれるだろう。本心はどうであれ、上辺だけでもそうしてくれるはずだ。
けれども、それでは駄目なのだ。
(今度こそ、わたしは新しいわたしになるのよ)
不安は完全に消え去ったわけではない。
とはいえ、今は不安よりも期待のほうが大きかった。
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