第一章
元王子らしからぬ男
お人好しの外交官に付き添われて、リディは一階の応接室に向かう。
(まだまだ、ね)
階段を降りるだけで疲れてしまう。
壁に手を添えながら階段を降りきったところで、車椅子を勧められるけれども、彼女ははっきりと断わった。
(ギルバート元王子がどんな奴か知らないけど、なめられるわけにはいかないもの)
お人好しの外交官でも、彼女が意固地になっているように見えた。実際、彼女は意固地になっていた。
二人の周囲に漂う居心地の悪い空気を払拭しようと、外交官が実はと苦笑しながら口を開いた。
「実は、ちょっと揉めましてね」
「揉めた?」
ふらつきそうな足元を注視しながら、リディアは続きをうながす。なるべくなんでもないように振る舞おうとしたけれども、うまくいかなかったかもしれない。
(わたし、どうなるの?)
もしかしたら、自分の行き先がなくなるかもしれない。
身元引受人が、リディアを受け入れないと意見を翻すこともあるのだ。ギルバート元王子には、彼女の面倒を見る義理なんてどこにもないのだ。そもそも、今のいたれりつくせりの環境だって、あくまでも従妹の嫁ぎ先の好意で成り立っている。巻き込まれただけとはいえ王太子暗殺未遂に関わった彼女を、受け入れるほうがおかしいのではないか。ギルバート元王子の好意だと聞かされていたけれども、もしかしたら裏があったのかもしれない。容姿にそれほど自信があるわけではないけれども、彼女は二十歳の若い女だ。
彼女の中で不安がこじれ膨れ上がったのは、ほんの一歩進む間のことだった。
「誰もギルバート様の現在のお姿を知らなかったのもあるんですけど、いやぁまさか……」
「ん?」
外交官の話が見えなくて、彼女は足元から目を離して彼の顔を見上げる。彼は参りましたよと、笑っていた。
「僕もびっくりしました。国王陛下の書状を確認しても、まだ信じられませんよ」
どうやら、ようやく到着したギルバート元王子が本人だと確認するのに、揉めたらしい。
具体的なことは言わないで、彼はまさかとか目を疑ったとか、だんだん面白そうに笑うのだ。
「リディアさんも、きっと驚かれると思いますよ」
「はぁ」
いたずらっぽく笑いかけてきた彼に、リディアは曖昧な返事しかできなかった。
(どんな男よ)
膨れ上がった不安が一気にしぼむのがわかった。完全に払拭されたわけではないけれども、尽きようとしていた体力が湧いてきた。
「こちらの部屋です、リディアさん」
彼が足を止めた部屋は、ひときわ騒々しかった。
複数の歓声や喝采、拍手まで聞こえてくる。
(何が始まっているのかしら? まあいいわ)
罪人の引き渡しは厳粛に行われるものだと、リディアは考えていた。ひどく場違いな声に鎌首をもたげた不安を押さえつけて、彼女は顔を上げる。
「ギルバート様、リディア嬢をお連れしました」
外交官がドアを開けると、室内の喧騒が落ち着いた。
なるべく毅然として見るようにと、リディアは杖を肘にかけて背筋を伸ばすと膝を曲げた。
戸口で
六人のうち、三人が高級そうな酒のボトルを大事そうに抱えて、二人は織物の手触りを確かめていた。そして、残りの一人は、この場に一番ふさわしくなかった。
大陸西部でフラン神聖帝国が唯一追随を許している神なき王国の貿易商となれば、下っ端の使い走りでもきちんとした身なりをしていた。
ところが、その男の出で立ちときたら、着古された生成りのチュニックには左の脇腹に大きなつぎはぎがあり、紺の厚手のズボンの裾は擦り切れており、頑丈そうな革のブーツのつま先には泥がこびりついたまま。混じりけのない黒髪は、あっちこっちにはねている。一応、髭は剃ってきたのだろうけども、頬骨のあたりに剃り残しがある。
豪奢な調度品を揃えた一番上等な応接室に、ふさわしくないその男に、他の男たちはうやうやしく頭を下げる。
(待って。待って。待って待って待って! まさかあの男が、ギルバート元王子なの)
何度まばたきしても、信じられない。
外交官にさり気なく腕を引かれて退室する五人の男たちに道を譲っても、まだ信じられない。
会長によろしくと五人の男たちに声をかける男の右腕が欠損しているのに気がついても、信じたくなかった。
(四十三歳のはずじゃない!!)
呆然としている彼女を、外交官は楽しそうに笑いをこらえていた。
親子ほど歳が離れているはずなのに、応接室に残った男は、どこからどう見てもせいぜい二十代半ばにしか見えなかった。
外交官が言っていた揉めたというのは、このことだった。
半ば外交官に引きずられるようにして、リディアは肘掛け椅子に座った。
「ギルバート様、お待たせいたしました」
「いや、待たせたのはこちらのほうだろう」
気にするなと笑いながら隻腕の男――ギルバートは、彼女と向かいのソファーに腰を下ろす。
「待たせてすまなかったな、リディア嬢。俺がギルバート・ヴァルトンだ」
「ど、どうも……リディア・クラウンです」
申し訳なさそうに眉尻を下げた彼に、戸惑いながらどうにかリディアは答えた。
(なにが、どうも、よ。なんなの、どうも、って)
つい口から出てしまった言葉に、リディアは頭を抱えたくなった。
(どうもって、すごく間抜けみたいじゃない)
初対面の男に舐められないようにと気合いをこめて来たというのに、台無しだ。
そんな彼女の気負いや悔しさ、戸惑いといったものが、向かいのソファーで足を組んだ男にどれほど伝わっただろうか。みすぼらしい外見にくわえて、弧を描く糸のように細い目のせいで何を考えているのかわからない。
ニカッと元王子らしからぬ笑みを浮かべた彼は、外交官に対して左手で窓の下にある小ぶりな木箱を指差した。
「そうそう、忘れないように先に言っておくが、あれ、コニーに渡してくれ。南部の特別美味い蜂蜜だ。滋養にいいし、あいつは甘いものが好きだったからな」
「あ、は、はい。必ずお届けいたします!」
彼が言うコニーが現国王コーネリアスの愛称だと気がついた外交官は、急いで木箱を抱えると大事そうに、テーブルの上に置いた。
そんな彼に、リディアは腹立たしくなった。
(ここでは、あなたが一番しっかりしないといけない立場なのに)
今から行われるのは、リディアの引き渡しだ。
引き渡しの書類にギルバートがサインしたその時点で、リディアはヴァルト王国と縁を切ることになる。
目の前の詐欺まがいの若作りの男が、彼女の命運を握っていると言っても過言ではないだろう。
気負う彼女は、自身が考えるよりもずっと余裕を失っていた。
肩に力が入っている彼女に、ギルバートは目を細める。
「しかし驚いたな。リディア嬢は、ベッドから起き上がるのもままならないのではなかったのか?」
「それは……」
「神の御加護です」
お人好しで頼りない外交官を遮るように、リディアは胸元にある蛍石の聖石に両手を重ねて答えた。
真剣に答えた彼女に、ギルバートはかすかに眉をひそめる。
「そういえば、敬虔な信徒だったな」
「ええ、常に祈りを欠かしませんでしたから。神なき国と神の国の国境である大河を渡るうちに、ベッドを離れることができたのです」
「なるほど、たしかに敬虔な信徒だな」
感心するギルバートに、今度はリディアが眉をひそめる番となった。
「ギルバート様も、今は信徒になられたのですよね」
「もちろん。俺は偉大なる皇帝陛下の臣民だからな」
首から下げたオニキスの聖石に触れながら、彼は口角を吊り上げてニッコリと笑う。細めたままの目も相まって、リディアには狐のように見えた。
(本当に、こいつがギルバート元王子なのかしら。なんだか、胡散臭い詐欺師みたい)
二十代半ばにしか見えない容姿のせいもあって、彼女は彼が偽物ではと不安になる。
「お年の割にはお若いんですね」
「神の御加護だな」
彼は冗談のような軽い口調で答えた。
(馬鹿にしている)
腹立たしくてなにか言い返さなくてはと、彼女は膝の上で両手を握りしめた。
険悪な雰囲気を察した外交官は、急いで脇に抱えていた紙ばさみから書類を取り出す。
「えーっと、それでは始めさせてもらいます」
前に置かれた引き渡しの書類を一瞥したギルバートは、軽く手をあげる。
「その前に、俺から提案がある」
「提案?」
声が揃ってしまったリディアと外交官が気まずそうに目を合わせて、気まずそうにギルバートに視線を戻す。
ギルバートは笑っていなかった。
「リディア嬢、フラン神聖帝国以外の国に受け入れてもらうという選択肢もある。俺は、そちらを勧めたい」
「え?」
ただでさえ弱っているリディアの心臓は、ぎゅっと押しつぶされそうになる。目の前が真っ暗になるほど、衝撃の提案だった。
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