犠牲者の町



今週は、二年二組の原田正子ちゃん(八)です。ご協力ありがとうございました。



   ※



「あっ」

 とぽろりとあを口から落っことして、お母さんが僕の手を強く握った。

「どうしたの?」

 何かあったのは一目瞭然だったけど。僕が一応尋ねると、お母さんは何か答えようとして、言いあぐねて、僕に分かりやすく説明するのが面倒になったのか、怒ったような調子で「こっち来な」と握った手を乱暴に引っ張った。お母さんは困るとすぐに怒ってみせる。その方が面倒じゃないと学んでしまったから。僕は自分では手のかからない子供だと思っているけれど、毎回こんな具合じゃあね。お母さんって、僕以外の子が産まれてたらやってけなかったんじゃないかなあ。

「ほら、さあ。お爺ちゃん。そうよお爺ちゃん。もうこんな時間じゃない、漁太。あんたがフラフラしてるから。急いで支度しなきゃ。カレーでいいわよねあんた好きだもんね」

「うん」

「よかったじゃない。それじゃあ、急いで帰らなきゃ。急げ急げ急げ」

 誰も聞いてないと思うんだけど、お母さんはわざわざ周りに聴こえるように声を大きくした。

 僕はお母さんがもう片手で持っているタータンチェックの防水お買い物袋に、さばのみりん干しが二パック入っていることを知っている。今夜のメインは疑いようもなくみりん干しだ。でも、お母さんがああ言うなら、僕はうんと答えるしかない。大人は時々、意味の分からない嘘をつくなあと思う。

 僕はそっと後ろを見た。右の手を引っ張られているので、左周りにゆっくり首だけ動かすと、おじさんの背中が少しだけ見えた。

 知らないおじさんは綺麗なポロシャツを着ていて、普通の、沢山見かける大人の一人に見えた。でも左手でゴミ袋を広げていて、右手に握ったものを次々そこに放り込んでいた。透明の袋だったので、おじさんが投げたコミックスが斜めになったり、ひっくり返ったりして積み重なっている様子がよく見える。新刊コーナーの台がひと通り空になったところで、僕は慌てて前を向いた。顔を上げたおじさんと目があって、もし話しかけられたら、この後に控える晩ご飯のみりん干しも食べられなくなる気がしたのだ。


 家に着いてからこっそりと話を聞いてみると、お母さんは「あれがイバシラさんなんだよ」と教えてくれた。




【サンプルここまで】

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