第22話 鐘の音と旅の決意
オルテキア候の屋敷を訪ねてから2日が過ぎた。
キオネは食事とお祈りの時以外は宿の部屋から出ず、心ここにあらずと言った風だった。
これから先どうするのか尋ねても、空返事だけが返される。
キオネがそんな状態なので部屋には居づらく、かといって離れることも出来ず、宿の1階の食堂で時間を潰す。
特にやることもないので、看板や掲示板に書かれている文字を眺めて、何が書かれているのかと解読を試みる。
文字くらい読めるようになっておこうという考えだったが、やはり1人では効率が悪い。
キオネに教わった方が良いだろう。
だけど今のキオネは勉強に付き合ってくれるだろうか?
黙考を続けていると、宿の入り口に人が入ってきた。
昼下がりに珍しい。
そう思って入り口へと視線を向けると、ローブを纏い、帽子から垂らされた黒いベールで顔を隠した女性が居た。
肌の露出を抑えては居るが、その人物が何者なのか、直ぐに分かった。
オルテキア候婦人だ。
彼女は宿の主人の応対を無視して、こちらへと視線を向けると歩み寄ってくる。
攻撃されるかも知れないと立ち上がり警戒する。
しかし婦人は目の前で止まると告げた。
「あの子は何処」
「何の用です?」
問い返す。
もしキオネに危害を加えるつもりで現れたのなら、会わせるわけにいかない。
婦人は即答した。
「話がある」
「話だけですか?」
痺れを切らしたように婦人は即座に頷く。
不安はあるが、キオネは彼女へと数日間ここに滞在すると告げていた。
会うつもりが無いのならそんなことしないだろう。
彼女へと「分かりました」と返して、2階の部屋へ案内する。
扉をノックしてキオネへ客があったと告げると、「通して」と返答があったので扉を開く。
婦人は直ぐに部屋の中へ。
何かあっては困ると、後ろ手に扉を閉めるとキオネの元へと駆けつけた。
キオネの方はいつもの澄ました顔で、椅子に座ったまま婦人へと問う。
「要件は何かしら」
その問いかけに、婦人は声を荒げて返した。
「あれから2日経ったが主人の容態は一向に良くならない。
あなたは本当にカニを消したのでしょうね」
「消したわよ」
それは間違いないことだとキオネは告げる。
だが回答に納得いかないらしく、婦人は一歩詰め寄った。
顔にかけられたベールが揺れるほどに、激しく声を上げ責め立てる。
「だったらどうしてあの人の病気はよくならないの!」
キオネは小さくため息をついてから答えた。
「必要な情報は全て伝えたはずよ。
病気の原因は、臓器内の血管を詰まらせているカニの卵殻。
私は約束通りカニを消した。
でも卵殻はまだ体内に残っている」
「今すぐに消しなさい!」
婦人の要求に対してキオネはかぶりを振った。
そんな態度に激高して婦人が殴りかかろうとするので、間に立って制止する。
キオネは立ち止まった婦人に対して、説明するように言った。
「必要な情報は全て伝えたと言ったでしょう。
カニは私が召還したもの。
でも卵は叔父様の魔力によって作られている。
だから私には消せない。
卵を産んだカニ自体は私の能力だから、叔父様にも消せない」
分かるでしょう? とキオネが問いかける。
キオネにも消せない。オルテキア候にも消せない。
体内に蓄積し毛細血管を詰まらせた卵殻は、もう誰にも消すことは出来ない。
「――だったら、わたくしはどうして――」
婦人は顔に手を触れようとして、それを取り止め強く手を握る。
婦人が顔を焼こうと、オルテキア候の病気が治ることはない。ただこれ以上悪くならなくなっただけ。
そして既にオルテキア候の病気は、後戻りできない領域まで進行している。
その命はいつ尽きてもおかしくない。
婦人は何も言わず、部屋から出て行った。
なりふり構わず走り去っていく婦人の姿を、キオネは窓から見下ろしていた。
「ねえキオネ」
何を聞かれるのか分かっていたのだろう。キオネは質問される前に答える。
「必要な情報は提示した。
確認を怠ったのはあの人の問題だわ」
キオネは立ち上がると部屋を後にする。
そして1階で宿の主人へ声をかけ、遅い昼食を取り始めた。
その向かいに座り、食事が終わったのを見て問いかける。
「本当に、オルテキア候の病気は治せないの?」
「無理よ。誰にも治せない」
きっぱりと言い切るキオネ。
それはきっと正しい。
毛細血管に詰まった卵殻は、現代医療だって除去できない。
食事を終えてもキオネは部屋に戻ろうとしなかった。
持ってきていた聖書を広げ、静かにその文面へと視線を落とす。
字の読み方を教わろうかと思ったが、聖書の文字は古代カニ語で書かれているとテグミンが言っていたのを思い出し、また今度の機会にする。
ただただ時間ばかりが過ぎていく。
キオネは何を待っているのだろう。さっぱり分からない。
だけどそうして時間を潰していると、まだ夕方には早い時間。澄んだ音色の美しい鐘の音が響いた。
オルテキアの街の時計台にある鐘
その鐘が間隔をあけて2回、街に響き渡った。
鐘の音は、何かが旅立つときに鳴らされる。
遠くへと旅立つものが、きっと戻ってくるようにと。
日が沈む頃に鳴る鐘は、沈んでいく太陽を送り出すものだ。
でもまだ太陽は沈んでいない。
だとすれば、この鐘は誰かが亡くなったことを知らせるもの。
――それが2回鳴ったと言うことは、きっとそういうことなのだろう。
鐘の音が空気に溶けていく。
その余韻すら消えていくのを待って、キオネへと問いかけた。
「これで、すっきりした?」
対して彼女はかぶりを振る。
「復讐してすっきりすることなんてないのよ」
「だったらどうして――」
言葉を遮り、キオネは告げる。
「ただやるべきことを。
やらなくてはいけないことをやっただけよ」
そこには理屈はもちろん、感情すらない。
ただキオネは6年前に誓った復讐を、その通りに果たしただけ。
何かが変わるわけでもない。それでも彼女にとってそれはやらなくてはならないことで、生きる目的そのものだった。
「あの人達のやったことも許されることじゃない。
でも、だからといってキオネのやったことは許されない」
「理解してる。
行為の正当性を主張するつもりはない」
自分が正しくないと理解はしている。
それでもキオネにとっては成し遂げなければいけなかった。
肉親を奪われ、家を追い出され、顔に傷をつけられた。
そんな彼女がこれまで生き続けていたのは、生きる目的があったからだ。
どんな手を使ってでも復讐を果たすという目的があったからこそ、彼女は泥棒に身をやつし、生きながらえてその機会を勝ち取った。
「やること全部やって、これから先キオネはどうするんだ?」
問いかける。
キオネはしばらく答えないでいたが、中空を見つめたまま告げた。
「もう、何も残っていないわ」
空虚な言葉。
彼女には、やることはおろか、生きる理由すらない。
放っておいたら消えてしまいそうなほど、今のキオネは空っぽだった。
だからこそ放ってはおけない。
キオネは、この世界に飛ばされてきて、右も左も分からない僕を助けてくれた。
今度は僕が、キオネを手助けする番だ。
「――だったら、一緒に真っ当に生きよう。
過去の罪は消せないけど、これから先、正しい道を歩くことは出来る」
「正しい道なんて存在しないのよ。
正しいとか正しくないなんてのは、人間の相対的な価値観の内側にしか無い概念よ」
「それでも、正しくあろうとすることは出来る」
キオネは鼻で笑って、「バカな考えだ」と一蹴する。
それでもめげずに言い返す。
「バカで構わない。
キオネは元泥棒で、僕だって元密漁者だ。
もう落ちるところまで落ちてる。
そんな僕らが正しくあろうと生きて何が悪いんだ」
「悪いなんて言ってないわ」
キオネが否定しなかったので更に続ける。
「僕にはキオネが必要だ。
キオネの役に立てるかどうか確約は出来ないけど、それでも一緒に居て欲しい。
キオネの両親や、叔父さん夫妻、マガトさんの分まで、真っ当に生きていこう」
提案に対してキオネはこちらへと視線を向けた。
黒く濁った淀んだ瞳で、品定めするようにまじまじと見つめられる。
今までキオネは、復讐の役に立つかどうかで物事の価値を判断していた。
その尺度が無くなって、今の彼女が何を物差しにして物事の価値を計っているかは分からない。
鑑定はしばらく続いたが、やがてキオネは小さくため息をつくと言った。
「……それも悪くないかも知れないわね」
「ありがとうキオネ」
礼を言うと、キオネは「別に」と素っ気なく言って、更に続けた。
「この街では生きられないわ。
もう1度、旅に出ましょう」
提案に頷く。
この街はキオネにとって辛い過去がありすぎる。
「そうだね。旅に出よう。
今度は復讐のためじゃなくて、未来のために」
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