缶コーヒー逃避行

yolu(ヨル)

缶コーヒー逃避行

 僕が手渡した缶コーヒーで、幼馴染の穂花ほのかは暖をとる。

 赤い指先が缶をしっかり包み込んだけれど、この温もりが生きている時間はそう長くない。

 ぬるくなった缶コーヒーを握り、穂花が言う。


「……ゆうくん、どっか逃げちゃおっか」


 穂花の声は明るくて、だけど、少し声が震えていて。

 思わず僕は、


「いいよ」


 いい加減な僕は、その場に合わせてそう言った。

 僕の適当な気持ちを表すように、白い息と濁って、声は消えていった───





 高校に入学して、もう11月。

 そう、もう11月。

 すぐに年末がやってきて、僕は2年になってしまう。


 冬の曇り空は、どんより灰色が一面に広がる。

 高い建物が少ないここだと、どこまでもコンクリートが打ちつけられているようで、息が苦しくなる。

 だけれど、僕はそのため息を飲み込んだ。

 幼馴染の穂花がとなりにいるからだ。

 彼女のテンションはいつも変わらない。常に一定な波。湖みたい。

 僕はそんな彼女が大好きだ。

 だけど、僕のこの気持ちを彼女は知らない。

 幼稚園の頃から変わらない気持ちを、知らないでいる。


「ねぇ、ゆうくん、またフッたって、本当?」


 穂花はベンチに座った僕を覗き込むように言った。

 艶やかな黒髪が肩から滑って、ダッフルコートを着た胸元で、小さく揺れる。


「また、っていわないでよ。だって知らない子だったし。あ、僕も聞いた。穂花、三年の南先輩に告白されたんでしょ?」

「それ? 断ったよ? あたしは、勉強忙しーんで、恋愛してる暇ないんですー。つーか、受験で忙しくないのかね、南先輩は。やっぱ顔だけ良い人は手当たり次第って感じするよねー」


 ズケズケと言うけれど、これは僕にだけだ。

 そのギャップが彼女の面白いところ。

 僕しか知らないってところも、ポイント高い。


「昨日さ、お父さんから成績のこと言われてさぁ、マジありえないって言うか、」


 彼女は医者になるべくこの学校に来た。

 ここの特進科は、日本の上位大学へ行くには、いい通過点になる。……って、穂花のお父さんが言っていた。

 じゃあ、なんで僕がここの学校に?

 お恥ずかしながら、推薦が貰えたから。

 ……表向きは。

 裏の気持ちは、穂花を追いかけて。

 とはいえ、普通科でも、そこそこの学力は必要だったし、何より、将来への分岐が多い学校が良かった。

 僕は穂花みたいに、何も目指すものがないから。

 少しでも、何かに届く場所が良かった。

 穂花にはお礼を言い足らないくらい。僕の選択肢をしっかり作ってくれている。

 でも、大学への選択肢は、自分で探さなくちゃいけない。

 僕は、将来、何になりたいんだろう……──


「聞いてる? でさ、課題がまた山ほど出てるんだけど、ゆうくん、少し手伝わない?」

「僕ができると思う?」

「英語ならいけるんじゃない?」

「いやいや」


 同じ学校でも特進科と普通科では、勉強量は雲泥の差。話を聞くだけでもウンザリする。

 ……それでも恋愛している生徒はいるわけで。

 清楚系の穂花を狙う男子が多いのも事実だ。

 気配り上手で、見た目もトップクラスだけど、特進科でも成績トップ。

 妬まれることもあるだろうポジションにいながら、敵がいない、というのはスゴいことだと、僕は思ってる。


「あんた、惚れられやすいんじゃない?」


 話を変えたいのか、また僕をいじろうとしているのか、僕の鼻をつつく穂花の手を払う。


「ゆうくん、誰にでも優しくするのは、本当の優しいんじゃないんだよー?」

「なに、しったかぶって」

「あ、ね、昨日の特番みたー?」

「衝撃動画集めたやつ?」

「そーそー、それのさ」


 バス停から少し離れたベンチに腰をおろし、二本遅らせて僕らは帰る。

 缶コーヒーを買って飲みながら、のんびり、なんとなく話したり、話さなかったり。

 いつからか、僕らの日課になっていた。


「はぁー、今日、めんどくさーい」


 穂花はベンチに赤い膝を揺らす。

 膝より少し長いスカートだけど、彼女の足を寒さから守りきれはしない。

 僕はぬるくなったコーヒーを飲み干し、スマホを見た。


「今日は家庭教師の日か」

「そ。マジで喋り方、ねちっこいから。毎回、イライラするんだよねー。はぁ……この時間続けばいいのにー」

「缶コーヒーの時間だけ、現実逃避、みたいな?」

「そうそう! あ、バス来ちゃった……」


 バスに乗ったら、僕らは会話をしない。

 近所同士だから下りるバス停も同じだけれど、降りたらお互い背を向け歩きだす。

 バス停から家までの距離は、どちらもあまり変わらない。白く濁った空気を頬にまとわりつかせながら鍵を開けて家に入っても、きっと僕たちは背を向けたままなんだ。


「ただいまぁ」


 まだ誰も帰っていない家に、一人、僕は声をかける。

 リビングのドアを開けると、丸太のように太った黒猫のソラが出迎えてくれた。


「ただいま、ソラ。寝てた?」


 たるんだお腹を揺らしながら、トントントンと走ってきて、僕の前にゴロンと横たわる。


「よしよしー、手洗うから待ってて」


 足にまとわりつくソラをよけながら、部屋着に着替えると、要望通り、ソラのお腹を撫でてやる。

 大きな声で喉を鳴らすソラに笑いながら、僕は思う。


 ──僕はもうすぐ二年になる。


 そう思うと何かに焦る気持ちが湧いてくる。

 漠然と、見えない将来に不安になるんだ。


 だけど、猫を三回撫でさえすれば、そんなことも消えてしまう。

 本当は消えてはいけない。

 消してはいけないのに。


 いつかは、自分の将来を見なきゃいけない……

 誰か、僕の将来、決めてくれないかなぁ。


「……ソラ、僕の将来、決めてくれない?」


 僕が声をかけると、ソラはフン! と鼻で息をして、どてんと寝返りをして背を向けた。





 今日は一段と冷え込んだようだ。

 ガラス一面に霜が張り付いて、結晶の模様が透けて見える。

 日陰のコンクリートにも、霜が薄らかかって、チカチカと光る。


「おはよー」


 マフラーで口元を隠した穂花が声をかけてきた。


「穂花、おはよ」

「ゆうくん、なんか元気ない?」

「寝不足だからじゃない?」

「なんであんたが寝不足なの?」

「僕だって寝不足の日、ありますよ?」

「そー?」


 いつも彼女は僕の右を歩く。

 どこかで見たけど、右を歩くのは主導権があるから、だとか。


「あ、あれバス来てるんじゃない? 穂花、どうする?」

「どうするもないじゃん! ゆうくん、走るよー!」


 急に僕の右手首が掴まれた。

 手ではないのが彼女らしい。

 息を切らしながらバスに乗り込むけど、二人で目を合わせて微笑んだあとは、一言も喋らない。


 僕らの関係は、そういう関係だ。

 いっしょだけど、常にいっしょではない。

 透明の壁が、僕らにはある。

 その壁が、僕と穂花の間にあるのか、囲っているのかは、わからないけど。


『ちょっと、本屋、つきあって』


 穂花からのメッセだ。

 絵文字も顔文字もないのが、彼女らしい。

 それにしても、彼女からのお願いは珍しい。


「ゆう、今日の放課後、空いてる?」


 クラスメイトの誠に首を横に振ると、苦笑いを浮かべる。


「ゆうさ、色々ハッキリしないと、あとから辛くなるぞ」

「どういう意味?」

「穂花ちゃんにさ、マジで彼氏できたら、お前どうすんの?」


 なんだろう。

 喉が詰まる感じがする──


 放課後、いつものバス停で待っていると、手を振りながら彼女が駆けてくる。相変わらずマフラーは完備してるが、手袋ははめていない。

 指の先が赤いのが遠目でもわかる。


「ゆうくん、待った?」

「いいや」


 そう言いながら、ついさっき買った缶コーヒーを手渡すと、目元が優しく細まる。


「ありがと。これ美味しいよね」


 彼女は手のひらで包み込むように缶を転がして、立ったまま、さっそくと飲み始めた。


「穂花、バスで行く? それとも歩いてく?」


 僕はポケットに入れた缶コーヒーで手を温めながら、バス停を見る。


「寒いけど、今からだともう一本待たなきゃいけないから、歩こうか。途中のバスに乗ってもいいし」


 彼女は先頭を歩き始めた。

 缶コーヒーをすすりながらのせいか、歩幅が狭い。

 だが飲む込むたびに白さが際立った息が彼女から流れてくる。


「……ね、ゆうくん、」

「ん?」

「あんた、夢とかある?」


 前を歩いているため、顔は見えない。

 唐突な質問に声が詰まる。

 少し考えたけど、


「……ないかなぁ」

「そーだよねー」


 彼女の背が低いからか、彼女の先の景色も見ることができる。

 視界の底辺でちらちらと現れる髪が陽の光に照らされて輝いて見え、まるで今日の霜の窓のようだ。


「ゆうくん、」

「んー?」


 僕は次のバス停でバスを拾えるかと、スマホを見ていた。


「なんかぁ、夢、おいかけるのって体力いるねー」

「そうなんだー」


 適当に返したのがわかったのか、穂花が振り返った。

 てっきり怒られると思った。

 だけれど、予想と違った。


「……ゆうくん、どっか逃げちゃおっか」


 穂花の声は明るくて、だけど、少し声が震えていて。

 思わず僕は、


「いいよ」


 そう言うしかなかった。


「ね、どこまで連れてってくれる? あたし、缶コーヒー、飲んでる時間じゃ、ぜんぜん足りない……」


 彼女の目は真剣で、真面目で、逃げることに迷いがない。

 僕は、ぬるくなった缶コーヒーをポケットから取り出し、タブを持ち上げ、飲み込んだ。


 僕はそこまで考えていなかった。

 現実の今を切り抜けるために、同調しただけだ。


「あんただったらさぁ……」



「本当に優しくない」



 こんなにはっきり言われたことがなかったけど、自分でも気づいていたことだ。


 優しくない。

 そう、僕は、優しくない……


「あんたは、あたしが逃げれないことわかってて、そーいうこと言う。そして、一緒に逃げもしない。言うだけ。合わせてそれだけ。それってさ、優しさでもなんでもないよね!」


 初めて見る感情的な穂花に僕は驚きながらも、言われる言葉がグサグサと胸に刺さる音を聞いていた。


 僕は人に期待をしていない。

 期待をしていないのだから、何も求めない。

 その場が丸くおさまれば、なんとでも声をかける。それが僕だ。

 だから、優しさと勘違いして、告白なんてされてしまう。

 それもわかってる……


「あんた見てると、ホント、自分が馬鹿らしくなる」

「なんで?」

「あんたは、何も考えてない! 人のことも全部」

「期待をしてないんだよ」

「ううん、今を生きてない!」



 今を生きていない————



 妙に納得できるフレーズだ。


「穂花の言葉は、説得力、あるね」


 少し笑いながら答えると、鋭く睨んだ目が返ってきた。


「馬鹿にして」

「違うよ」

「何が!」

「僕は穂花のこと、尊敬してる。……だって10年、20年先のこと見てんだろ? 僕は今すら見てない。だいたい僕は頭がそれほど良くない。だから選択肢は狭い。未来もそれほど多くない。けど、穂花はいざとなれば、何にでもなれるじゃない」

「医者以外になれるわけないでしょ」

「なんで?」

「なんでって……うちがどういう家か知ってるでしょ?」

「知ってる。でも、選ぶのは、穂花だよ」


 僕がゆっくりと歩き出すと、彼女もゆっくりとついてくる。


「……ぎって」

「ん?」

「だから……」

「なに?」

「手、握って!」


 いきなりの大声に驚き、勢いで握るけど、穂花の顔は俯いたままだ。


「……泣いてるの?」

「うっさい!」


 僕は自分のコートのポケットへと、彼女の手を突っ込んだ。


「こうしたほうがあったかいよ。あと、穂花は体細いから、手袋、したほうがいいよ」


 彼女の手は小さくて、細くて、柔らかくて、氷のように冷たかった。

 しばらくすると、少しずつ僕の熱が彼女の皮膚に溶けていく。

 しっとりと、ポケットの中に熱がこもり始める。


「……ね、こんなとこ見られたら勘違いされるから」


 唐突に手が引き抜かれそうになるが、僕はそれを男子の力で引き止めた。


「特進が普通と一緒に歩いてると、からかわれたりするの?」

「そーじゃなくって!」


 今日の彼女の心の波は激しい。

 泣いたり怒ったり、とても忙しい。


「……僕さ、将来のこととかなんもイメージなくってさ」

「……それで?」

「だけど、穂花の夢だけは、叶って欲しいんだ」

「……なんで?」

「わかんない。……ずっと、見てるから、かな」



『僕の代わりに、穂花が生きてくれている──』



 きっと僕は穂花を通して、夢や将来を見ていたのかもしれない。

 だからこそ、僕にはなにもなれるものがないと思っていたのかもしれない。

 すべて仮定で想像でしかないけれど、きっと、はっきりとした目標をもった人が、こんなに近くにいたせいで、僕の未来が霞んで見えたんだろう。

 本当はもっと立体的で、見通しも良くって、僕なりに、なにかができるのだと思う。

 でも僕は、また太った猫を撫でて、焦る気持ちをなだめて消すんだ。


「ゆうくんさ、カウンセラーになったら?」

「……は?」

「人に、なんにも期待してないなら、興味ないってことでしょ? ならさ、いつでも平常心で的確な判断できるんじゃない?」

「なんか、ちょっと違わなくない……?」

「ゆうくんがカウンセラーになったら、あたしの病院で働かせてあげる!」


 まだまだそんな先のことなんてわからないのに、穂花は胸を張って言い切った。

 言い切れる強さが羨ましくなる。


「……そう、なったらいいね」

「また逃げる気?」


 逃げる、か。

 たしかに、いつも、逃げていたかもしれない。

 いろんなことに向き合わなきゃいけないタイミング、なのかも。

 ……僕の将来も、穂花への気持ちも。


「じゃ、僕、カウンセラー目指してみるよ」

「……は?」

「穂花が言うんだから、間違いないんじゃないかな。だから、もう、これからは君しか見ないようにする。穂花も僕のこと、ずっと見ててくれる? どう? ……あ、あそこのバス停、5分後に来るみたい」


 バス停で待ちながら、見上げた空は、今日も灰色だ。平坦だと思っていた雲だけど、濃淡がある。

 変わり映えしない僕の日常だけど、少しだけ変化があるみたいに。


 僕が冷たくなった飲みかけの缶コーヒーを握り直したとき、


「ゆうくん、あのね、」

 

 彼女の返事は、バスのブレーキ音で、僕にしか聞こえなかった。

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