26.あったかい夜


 出逢ったときから不思議な子だと思ってた。


 紡ぎ出される言葉たちはどれも素直で混じり気がなくて、その並外れた純粋さが時々怖くもあった。


 だけど君を知るうちに予感は濃さを増していった。


 他者に対して寛容なこと、痛みを感じないといったふうに振る舞えること。特に生きづらさが伴う訳でもない個性だったらどんなに良かっただろう。


 これ以上近付くときっと俺は気付いてしまう。この子にはまだ“何かある”。

 そうわかっていたのに本能は君へと手を伸ばしていた。そして今も求めることをやめられない。


 霧の向こう側にいる君へ。




 ……き……



「……響、大丈夫?」



 いつの間にか彼女が俺の顔を覗き込んでいた。心配そうに眉を寄せている。


 自分の頬に手を当てると湿った感触。素早くそれを拭った。

 俺は自分を恥じた。つらかったのは俺じゃない、彼女だ。それなのに。


「悪い、俺が泣くところじゃなかったな」


 彼女は黙って首を横に振る。俺の胸に額を預けると、ふぅ……とゆっくり息を吐く。


「あったかい。響はあったかいね」


「奏はすっかり熱下がったな。意外と手冷たくてびっくりした」


「ふふ、当たり。本当は冷え症なの」


 俺がベッドの上に座り直すと彼女も隣に来てぴったりと身体を寄せてくる。結構身長差があるからどういう表情しているのかよく見えないけど、自分の身体がどんどん汗ばんでいくのはわかる。むしろ俺の心の方が見抜かれてしまいそうだ。


「私ね、響の温かさに触れているといつか見えてきそうな気がするの、自分の気持ち。今も少しずつ変わってきてると思う」


「そう、なの?」


「そうだよ。息がしやすいの。そういう感覚がだんだんわかるようになってきてる」


 彼女の少し低めな体温を感じながら自然と理解していく。


 今まで彼女の心の声に触れることが出来なかったのはきっと、感情を手放すしかなかった過去が関係しているんだろう。そうしなければ生きていけなかったんだろう。

 伯母さん夫婦が手を差し伸べてくれたことでいくらか取り戻していったんだろう。それでもまだ無意識の底に沈めた感情がある。ちゃんと息をしている。その気配は俺も感じ取れるようになった。



「八月ももうすぐ終わりだから日が短くなったな。そろそろ電気つけようか」


 そう言って立ち上がろうとすると彼女の重心が更にこちらへ傾いてきた。ふわりと花弁が舞い降りてきたかのように甘い香りが濃くなる。


「……っ、か、奏?」


 薄暗くなった夕暮れ時の部屋は人を感傷的にさせる。あんな話を聞いてしまったから尚更。


 鼓動を伴いながら今まさに理性が抗っているのがわかる。

 自分の欲求と混同するな。慰めで一線を越えるのはただの自己満足にすぎない。


 だけどもし彼女が必要としている安心感がこういうものなのだとしたら、あまり潔癖症みたいなことも言ってられないんじゃないだろうか。一応彼氏なんだし、それが、それが……今の俺に出来ることなのだとしたら……!


 あからさまに喉が鳴ったのが自分でもわかった。意を決して彼女の方を向く。



「奏、俺……っ!」


「…………」



「あ、あれ?」



 すう、すう、と続く息遣い。

 やけにゆっくりで、穏やかな。もっと早く気付くべきだった。

 俺の顔面は今、夕焼けにも劣らぬほど真っ赤に染まっているだろう。




 日もすっかり沈んでもう夜と呼べる時間帯。ほとんどの家は夕食どきってところだろう。


 やれ参った。こんな時間まで彼女の部屋にいるのは初めてだぞ。


 ちらりと後ろを振り返ると未だ目覚める気配のないいばら姫。

 寝室の電気はそのままつけないでおいた。変な気を起こさないようにと俺は隣のリビングへと退避しているんだが。


 ともかく家主が眠っているんじゃ帰ることも出来ない訳だ。俺は筋金入りの心配性。ここの玄関がオートロックだと聞いていてなお、万が一のことを考えると落ち着かないし黙って置いていく気にもなれない。


 このままいても許されるのかな、彼氏だし。

 これ以上にない特権を得たはずなのにまだこんな調子。一体いつになったら自信が持てるようになるんだか。


「夕飯、俺が作っちゃってもいいかな。いや、でも勝手に食材使うのはやっぱ駄目?」


 ついには独り言が零れ出す。ウロウロと部屋の中を行ったり来たりした。

 そうやっているうちに少しは頭の中が整理されて一つの結論に辿り着いた。



「奏〜、ごめん、夕飯作りたいんだけど……」


 しょうがない。やっぱり起きてもらうしかない。可哀想だけど。


 ただ隣の部屋へ行くだけなのに、それはまるで聖域に足を踏み入れるかのような緊張感を伴う。一気に半日くらい進んだみたいに空気がガラリと変わるのを感じた。


 カーテンから透けて見える彼女はこの上なく幻想的だった。目覚めを望んでいるはずなのに何故だろう、触れるのをためらってしまうんだ。

 もしかしたら今が一番幸せなんじゃないか。一番安らげるときなんじゃないか。

 こんなただれた現実世界よりかよほど。


 しかしその声は唐突に俺の淡い空想を打ち破った。



――助けて――



「!?」



――誰か――


――ここから出して!――



「この声……」



 聞き間違えるはずはない。もう何日もずっと一緒にいたんだから。

 そしてこの独特の響き方。

 一つの可能性が閃くなり俺はカーテンを開けて彼女の顔を覗き込んだ。


「…………っ、…………っ!」


 シーツが乱れてる。汗ばんだ額、眉間にはしわが寄ってる。不規則で苦しそうな呼吸。明らかに様子がおかしい。


「奏、大丈夫か」


 呼びかけても瞼を閉じたままの彼女は未だ夢の中にいるようだ。

 だけど悲痛な声が止むことはない。



――お願い、ここから出して!――


――私を起こして!――



――響……!――



 暗い幻想の渦の中から必死に手を伸ばしている。


 安らぎなんかじゃない。彼女の悪夢は終わっていないんだ。今もずっと。

 そう悟ると共にもはや考える余裕もなく身体が動いていた。



「ここにいるよ。今起こすから安心して」



 その身体を抱き起こし、背中をさすりながら囁き続ける。

 柔らかいはずの彼女の身体が今は強張って肩は荒く上下している。両手が俺の背中を彷徨っていた。


 眠りの中でさえ安息の地ではないというのか。

 やるせなさに唇を噛み締めたけれどすぐにそれは違うと思い出した。


 御伽の国の姫だって皆、目覚めることを望んでいたんだと。本当は現実の世界で両手を広げ、風を感じて、大地を感じて、伸び伸びと生きていきたいのだ。


 救いは現実の世界になくてはならない。


 ならばせめて、彼女が目覚めたそのときに、一番最初にぬくもりを与えられる存在でありたい。



「奏、大丈夫。もう独りじゃないよ。俺は何処にもいかない」


「ひび、き……?」



 王子様のようなかっこいい存在じゃなくたって、ただ彼女にとって変わらない場所でありたいと願った。


 背中に爪を立てられる痛みも甘んじて受け入れた。大丈夫、大丈夫と繰り返しながら。

 ゆっくりと現実に引き上げられていく彼女の虚ろな瞳にやがて一つ二つと星が宿った。

 ぽろりと零れ落ちた透明な欠片を目で追いかけているうちに可憐な唇へと辿り着く。そっと指でなぞって柔らかさを確かめる。あとはもう引力に導かれるだけだった。


 涙が混じったせいか少し塩辛い味。


 想像とはちょっと違っていたけれど熱を伴う感触は俺を確実に酔わせ、次第に止まらなくなりそうな危機感を覚えてやっとの思いで顔を離す頃には結構息が上がってた。


 正直、ほんの一箇所の接触でこんなに身体が痺れるとは思わなかった。なんて強烈な麻酔だろう。


「響……」


「おかえり、奏」


 いや何を言ってるんだ俺はとすぐに思ったけれど、彼女はうん、うん、と何度か頷いた。

 潤んだ目を細めて俺を見上げる。


「ただいま、響」


 俺から見ると彼女はとても小さい。だからなのか、俺の肩に手を伸ばそうとしたものの一瞬ためらって胴にしがみ付いてきたその仕草が愛らしくてたまらない。

 両腕で包み込むとすっぽりと自分の内側に納まってしまう、小動物みたいに危うい彼女。



「すごいね、響。やっぱり本当に聞こえるんだ」


「うん。久しぶりに聞いたよ、奏の心の声」


「ああいうときって実際の声は出ないの。ただただ苦しくて。でも響には聞こえたんだ」


「そうだね。こうして近くにいることさえ出来れば」



 再び見つめ合うとお互いに笑みが零れて、今度は軽く唇を重ねた。すごいな、これ。アルコール度数の高いお酒でも塗ってあるんじゃないかってくらい目眩がしてくる。慣れるのは時間がかかりそうだ。


 彼女の瞳が至近距離から訴えかける。もう心の声は聞こえないけど伝わってくるものは確かにあって。

 これ、言っていいのかな。

 ためらいは本当に厄介だけど、触れ合うことを許された俺にはそれを振り払うくらいの勇気は多少備わっている。



「一緒にいてもいい? 今夜」


 ううん、君が望むなら何度でも。



 俺の葛藤から情熱まで全て受け取ってくれたみたいに彼女はしがみつく腕に力を込めて応えてくれた。



 夜が更けていく。窓から見える街の明かりも一つ二つ、徐々に消えていって。


 満ちていく月は柔らかな光だけど太陽に比べると何処か冷たくて、星々もまるで氷の欠片のよう。彼女にとっても俺にとっても、それはきっと孤独な時間の訪れだった。今までずっと。


 同じ場所に身体を横たえる。額を合わせて手を取り合う。

 すぐにこれ以上のことをする気はないんだ。俺のキャパシティはそんなすぐには広がらない。実際、恋愛初心者だからこういうのはゆっくり覚えていった方がいいんだと思う。


 だけどいつかは彼女の全てを知るときが来るのかもしれない。




 奏、君の中に眠る真実は確かに残酷だった。


 心と言葉に嘘がないと思っていた君は、実は自分を丸ごと騙して生きていた。


 実際は存在している痛みさえなかったことにして、水面下の悲鳴に耳を塞いで。

 それでも身体は正直だから時に悪夢の中に君を閉じ込める。


 無理に思い出さなくてもいい。

 だけど君が取り戻したいと思う自分があるなら俺も一緒に探すよ。


 手探りだから時に独り善がりになってしまうか知れない。お節介してしまうかも知れない。そのときはごめんね。どうか許してほしい。


 心配は尽きない。それでも……




「おやすみ、奏」


 彼女の髪をそっと撫でたなら、あとはゆっくり瞼を閉じる。


 二人ならきっと寂しくなどない。これからは優しい夜の中を共に揺蕩うのだと信じて昨日までの冷たい夜に別れを告げた。



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 第2章お読み下さりありがとうございます。次回は登場人物紹介です。

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