25.水鏡に映るもの


 朝比奈さんの熱はまだ下がってないけれど、表情にはだいぶ生気が戻ったように見えた。

 もう大丈夫と彼女が微笑んだのを合図に俺も帰り支度をする。部屋はすでに薄暗くなり、一層、御伽話の世界に近付いたみたいだ。


 玄関で靴を履いているときに思った。後ろには彼女が立っている。


 今日お互いに本当の気持ちを伝え合って秘密も打ち明けた訳だけど……


 結局どうなるんだ、俺たちは。

 どういう関係になっていくの。


 朝比奈さんの気持ちは朝比奈さん自身で見つけてほしいって俺は言ったし、彼女も本当のところ自分の気持ちはまだよくわかってないらしい。それは付き合ってることにならない、よな?


 でも髪に触れたり頬に触れたり抱き合ったりなんかして暗黙の了解みたいな雰囲気が漂っていたし……


 いや、待て。落ち着くんだ。

 俺は素早くかぶりを振った。こんがらがった思考回路を力づくで振り解く。


 この段階で気付いて良かった。特に恋愛関係において“暗黙の了解”は危険。そこに同意があるかどうかは明確にしておかなければならない。


「夜野さん?」


 呼びかけられて、俺はぐっと奥歯を噛んだ。意を決して振り返る。



「あっ、あの! 朝比奈さん。今日はその……あんなことになって……その、もし嫌じゃなかったら、その……っ」


 勇気を振り絞ってこれか……!

 あまりにも辿々しい口調が自分でも悲しい。これじゃ何が言いたいんだかわからないじゃないか。


 パニックになったせいか勢い余って彼女の両手を掴んでしまった。

 しまった、ますます引き下がれない。もう情けないとか気にしてられない。


「こういうの、嫌じゃない?」


「こういうの、ですか?」


「俺が触ったり……するの」


 まんまるな瞳が恒星のようにまたたく。

 それから程なくして少し困ったような微笑みが花開いた。


「もう触ってるじゃないですか」


「……っ、ごめん!」


 慌てて引っ込めようとした手はほどけることはなかった。彼女が強く引き止めたからだ。


 長い睫毛が下を向いてる。繋がった手を見つめてる。卵を温める親鳥みたいに穏やかな顔をして。


「落ち着きますよ、こうしてると。嫌なんかじゃないはずです」


「それなら良かった。ごめん、俺はっきりしなくて。正直わからなくなっちゃったんだ」


「何がですか?」


「朝比奈さんが自分の気持ちを見つけるまで待っていたいけど、それまで俺はどうしたらいいのかって」


 観念するとポロポロと零れる言葉たちが結晶化していく。



「この気持ち、何処までなら君に伝えても許されるのかって」



 俺の迷いを目の当たりにして彼女は再び探偵になった。こんなとき、俺よりかよほど肝が据わってるんだよなと感じさせる。


 やがてちら、とこちらに視線を戻した彼女がほんのり口角を上げて提案した。



「付き合いませんか、私たち」


「えっ……」



 それは、それは……出来れば俺から言いたかったんだけど。

 でも俺たちの関係性を考えると彼女が決断するのが妥当な気もする。次第に納得が満ちてきた。もちろんまだ不安なところはあるけれど。


「いいの? 本当に」


「はい。夜野さんは信じられます」


「ありがとう。でも、なんか違うと思ったらそのときはやめてもいいからね」


「夜野さん、その言い方はちょっと……」


 彼女がちょっぴり憮然とした表情になる。やべ、俺また余計なこと言ったか。脈が速くなるのを感じていたその途中。



「夜野さんはそれでいいんですか?」



 彼女がぐっと俺に顔を近付ける。おっとり系の顔立ちなのにその瞳だけがまるでブラックホールのようなとてつもない重力を持っているように感じた。


「お、俺は……」


 喉の奥から自然と導き出されるような感覚。

 今更ながらに思う。彼女はまるで宇宙だ。



「俺はそうなったら寂しいよ、正直」


「じゃあ一緒にいられる方法を考えましょうよ! 夜野さんだけが寂しいとか悲しいとか、そんなの嫌です。それくらいは私だってわかります」



 優しいんだね、君は。そう思わずにはいられなかった。

 だけど彼女のそれは優しさだけではないとすぐに気付いていくことになった。



「夜野さんが私の心を心配して遠慮してくれているのは伝わってます。未来だってどうなるかわからない。でも私は、全部の条件が揃っていないと始められないってこともないと思うんです。まだ見えてないもの、一緒に探すのでは駄目ですか? 人との繋がりって未来というよりも今この瞬間の為にあると思うんですけど、それじゃ不安ですか?」



 一緒に探す。

 この瞬間の為。


 自分では決して思いつかなかったであろう言葉が数多あまたの煌めきとなってこの身に降り注ぐ。


 敵わないなと感じる。

 幸せが訪れると共にそれが壊れるところまでセットで考えてしまうような俺には到底敵わないと。


 岸さんは彼女の闇を振り払えるのが俺だと言ったけど、俺の闇を振り払えるのだって彼女だ。



「うん、俺もそうやって朝比奈さんと過ごしてみたい。その……これから宜しくね」


「こちらこそ宜しくお願いします。じゃあそういう訳ですし“おそろい”にしません?」


「おそろい?」


「私たちの名前です」



 ふふ、と含み笑いをする彼女。試すような探るような、そんな上目遣い。小悪魔が降りてきた瞬間だ。


「夜野さんの名前って“響”ですよね。私の名前は覚えてます?」


「……奏、でしょ?」


「そうですそうです! 良かった〜、覚えててくれて」


 心底嬉しそうな彼女が続けて教えてくれた。謎かけの種明かし。



「私たちって苗字だと“朝”と“夜”で真逆ですけど、名前だと同じ“音”なんですよ」


「あっ……そういえば」


「だからこっちの方がおそろいって感じがしません?」



 ちょっと姿勢を正し、背伸びをしてこちらを見上げる。頬の赤みが増したのは体調のせいか、それとも……


「じゃ、じゃあ……奏」


「なぁに、響」


 経験したこともないくすぐったさに身悶えしそう。とりあえず彼女の視線の意味、その解釈は間違ってなかったことにホッとする。



 彼女は切り替えが早い。俺を恋人と認識してくれてから言葉遣いもどんどん砕けたものになっていく。

 そうやって相手も素直にさせていけるのは天性の才能なんじゃないかとさえ思う。


 お互い別れるのが惜しくなってしまったのか、玄関先でしばらく雑談をした。やっと連絡先も交換できた。



「あのさ、奏。またお見舞いに来てもいいかな。熱が下がるまで何か力になりたいんだ」


「うん、ありがとう。響ならいつでも大丈夫。でも無理はしないでね」


「わかった、それじゃあ」



 玄関のドアを開けようとした。

 そのとき、きゅっと服の裾を掴まれて振り向いた。


「あのね、響の方こそもし私のことが……」


 語尾が消えかかる。彼女の顔は陰になっていて見えなかった。

 でも何故だろう。不思議と言わんとしていることがわかった気がしたんだ。



「話したくなったらでいいよ。どんな君でも受け止めたいと思ってる」



 もし覚悟が崩れたら何度でも立て直す。君の為なら。その気持ちにはもう迷いはなかった。




 バイトがある日は夕方から行っても迷惑じゃないかな。遠慮はまだ居座ってる。

 だけど俺も少しずつ変わり始めた。自信がないときはそれとなく聞いてみる。連絡手段が出来て良かったと思った。


 朝比奈さん……ううん、奏は断ることはなかった。

 岸さんとはよく連絡取り合ってるらしいけどお見舞いには来てないらしい。俺に任せてくれてる、のかな。


 何度か彼女の部屋に足を運ぶようになってもうすぐ一週間が経とうとしてる。

 彼女は少しずつ熱が下がって自力で出来ることも増えていった。



 ある日、ベッドのふちに座って、赤みを帯びていく夕方の窓を眺めていた彼女が俺に訊いた。


「ねぇ、そういえば響はどうしてバイト始めたの?」


 ベッドの足元に座ってペットボトルの麦茶を飲んでいた俺はあまり深く考えずに答えた。


「母さんが転職しなくちゃいけなくなって。うちの親、高校の頃に離婚したからさ、その上年子の妹までいるし、仕送りするのも本当は大変なんだ。それで母さんにばかり頼ってられないなって」


「そう、だったの」


 単に日陰にいるだけだと思ってたけど気のせいじゃない、空気は確かに重くなったと気付いた。

 そっか。俺にとってはもう淡々と話せるくらいの事実になっていたとしても聞く方は違うよな。

 俺は素早く彼女の方を見上げた。少し笑いながら。


「ごめんな、こんな重い話。あまり気にしないでくれ」


「ううん、大丈夫。響が謝ることじゃないよ」


 振り向いた彼女は。

 逆光になっているはずの彼女の瞳には確かに揺らぎがあるように見えた。優しくて、だけど何処か哀しい色。


「奏……?」


 そっと瞼を伏せた彼女の視線を追っていくと手がわずかに震えていた。

 俺は思わずそこへ自分の手を重ねる。いつか彼女がしてくれたことの真似でしかないけど。


 大丈夫。いつでもいいんだよ。

 そう伝える為に。


 やがて彼女が小さく口を開いた。



「私も昔は“朝比奈”じゃなかったの。ママのお姉さんと旦那さんが幼い頃の私を保護して養子にしてくれたんだって」


「保護って……」



 底なし沼に足を飲まれるような感覚だった。  

 自分がたった今繰り返した二文字。辞書に載っている意味以上のものを孕んでいるのがわかって息が苦しくなってくる。


 だけど握った手は絶対離さないと決めていた。


「昔の記憶は曖昧なの。断片的に覚えてはいるんだけどそれが自分の身に起こったことだとは未だに思えない。伯母さんから少し話は聞いてるからそれが事実なのも知ってる。見つかったときは身体中痣だらけで痩せ細ってて、感情表現もまともにできなくなっていたって」


 はらりと涙が伝っても、胸が痛くても、だからこそこれを事実として受け止めよう。



「……ごめんね、これが私なの」



 彼女が宇宙なら俺はきっと水鏡。


 もし、自分の身に現れたこの現象こそが彼女の本当の気持ちならば。

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