裏路地の小料理屋
旦開野
#1
会社の飲み会からの帰り道。男はうちへ帰ろうと夜の街を歩いていた。飲み過ぎたせいか、その足はふらついていた。いつもは賑やかな大通りだが、夜も深く、人通りはまばらだった。
どん、と男は何かにぶつかった。揺れる視界の中で、ぶつかったものを確認すると、それはものではなく老婆だった。白髪の頭は短く整えられ、黒のマントで体を覆っていた。
「悪りぃ、婆さん。怪我してないか?こんな夜更けに何してるんだ?迷子?」
男は呂律の回らない口で老婆に言った。老婆は男の質問には答えず、ただじっと男の顔を見ていた。
「…ん?どうした?婆さん。」
「…お主、今日はまっすぐうちに帰った方がいいぞ。でなければ命を落とす。」
老婆は男の目を真っ直ぐに睨みつけて言い放った。男は、何を言ってるんだと思ったが、少し考えて、あぁ、きっとこの婆さんはぼけているんだなと思うことにした。
「婆さんおうちはわかるか?俺が送ってやるぜ。」
「ワシはぼけてはおらん。人のことより自分のことを心配しろ。お前はとっととうちへ帰れ。」
老婆の物言いに男はイラッとした。
「もう勝手にしろ婆さん。あとで助けてって言われたって助けてやらないんだからな。」
男はその場を立ち去ろうとしたが、
「おい。」
老婆はその後ろ姿を引き留めた。男は思わず振り返ってしまった。
「これを持っておけ。いざとなった時に役に立つ。」
老婆は男に向かって何かを投げた。奇跡的にもうまくキャッチできたそれを、男は確認する。手の中には銀色の十字架が入っていた。男は何もかもを一方的に押し付けてくる老婆に腹が立ち、その十字架を投げつけてやろうと手元から老婆のいた場所へと目線を運んだが、老婆の姿はもうなかった。今までのやりとりを含め、何が起こったのか男にはよくわからなかったが、何せ彼は今、酔っ払っている。もう頭の回らない状態である彼は、考えることを放棄した。男はもらった十字架をスーツのポケットにしまった。
男はうちへ向かってトボトボと歩いていた。うちへ向かっているはずだったのだが、男はそのうち、自分が人気のない裏道に迷い込んでいることに気がづいた。今日は本当に飲みすぎたらしい。この街へ来て数年経つが、こんなところに来るのは初めてだった。スマホは電源が切れ、人に道を訪ねようにも、男の周りには人一人いない。どうしたものか、と途方に暮れていると、道の突き当たりに光が見えた。光があるということは、きっと人がいるはずだ。そう思って男は光のある方へと歩いた。
目指した先にあったのは、小料理屋らしかった。最近できたらしく、きれいな門構えで、明らかにこの薄暗い裏路地の中では浮いていた。こんな深夜だというのに暖簾がかかっている。まだ営業しているのだろうか。とにかく人がいるようだし、男は格子戸に手をかけた。
「いらっしゃいませ。」
鈴のように心地良くて、控えめな声が聞こえた。カウンターを見ると、藍色の着物の上から割烹着を身につけ、長くて綺麗な黒髪を鬼灯のかんざしでまとめた女将が、こちらを見て微笑んでいる。その美しさに男はしばしの間、見惚れてしまっていた。
「どうかなさいましたか?よろしければこちらにお座りください。」
女将の一言で我に帰った男は急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にした。男は本来の道を聞くという目的を忘れ、カウンター席についた。店には女将の他に誰もいなかった。だいぶ夜も深いし、こんな人通りのない裏路地のお店なんてなかなか人が寄り付かないのだろう。
酔いのせいなのか、目の前に立つ、あまりにも美しすぎる女将のせいなのか、男は生きた心地がせずにふわふわした気持ちで椅子に座っていた。女将は男の様子など気にする様子もなく、お通しとしてポテトサラダを出した。男はぼーっとしたまま、そのポテトサラダを口に運んだ。その瞬間、今までのふわふわした気持ちも、酔いも全て吹き飛んだ。そのくらい、このポテトサラダが美味しかったのだ。いものほくほくした絶妙な食感、マヨネーズだけではないだろう、味付けによって出されるまろやかさ。厚切りベーコンの塩気がいい具合に味を整えてくれていた。人生で何度かポテトサラダというものを食べてきたが、ここまで美味しいと思ったものは初めてだった。
「…すごく美味しいです。」
「ありがとうございます。」
女将は優しい微笑みを男に向けながら言った。男の顔はまた赤くなった。
「こちら、お品書きです。」
目の前に差し出されたお品書きを男は受け取った。まだ酔いが残っているのであまりお酒は飲めないな、などと考えながら、男はページをめくった。カウンターに座っておきながら何も注文しないのも気がひけるので、男はレモンサワーと締めのつもりでしらすチャーハンを注文した。
女将はなれた手つきでレモンサワーを作り、男の目の前においた。そして置かれている炊飯器から茶碗1杯分のご飯をよそい、冷蔵庫からしらす、卵、小松菜を取り出して、調理の準備を始めた。
男は料理をする女将の後ろ姿を眺めながら、ちびちびとレモンサワーを飲んだ。女将はこちらが相当酔っぱらっているのを見抜いているのか、焼酎は控えめに作られていた。爽やかな炭酸とレモンの香りが喉を通る。普段の彼だったら、このアルコールの薄さでは不満だったが、今はこのくらいがちょうどよかった。
女将はコンロの前に立った。着物から少し見える手首は卵以上の重さのものを持ったら折れてしまうのではないかというくらい細かったが、中華鍋を振る姿は様になっていた。
途中、女将は足元のつぼの蓋を開けた。男は一体何が入っているのか気になり少し身を乗り出してつぼの中を除いた。そこには黒い小さな粒がぎっしり入っていた。見た感じ黒胡椒のようだった。女将はその胡椒らしき粒をひとつまみしてチャーハンの中に入れた。
「お待たせしました。」
お皿に盛り付けられたしらすチャーハンはとても美味しそうだった。男はお皿と一緒に置かれたスプーンをもち、チャーハンを救い上げ、口へと運んだ。
口の中に含んだチャーハンはパラパラとしていて、卵もふわふわしていた。小松菜もシャキシャキとした食感が残り、しらすの味を殺さない、むしろ活かされた味付けは絶品だった。男は口の中に幸せを感じながら咀嚼していると、何かが、ガリっという音を立てた。大きさからするに、どうやらあの壺に入っていた胡椒らしきもののようだった。味は確かに胡椒のようなのだけれども、胡椒にしては少々、いやかなり刺激が強い。口の中に静電気でも発生しているかのようだった。刺激はどんどんと強まり、なんだか口の中が麻痺してきているようにも思えた。そんなことを考えていると男は全身の力が急に抜けてしまい、ガタンと音を立てて椅子から転げ落ちてしまった。男は意識が遠のく中、女将がカウンターを出て、こちらに向かってくるのを感じた。
「…今月で4人目。血ばっかり吸っていて、味覚なんてろくにないけど、私って料理の才能があるみたい。」
さっきまでの鈴のような可憐な声とは打って変わり、女将の声は薔薇のトゲのように鋭いものになっていた。彼女はうつ伏せに倒れた男の背後に立った。
「酔っ払いって本当に引っ掛けやすいわ。」
男の耳元で女将がささやいた。女将のか細い両手が、男の両肩に優しく触れた。男はそこから意識を失った。
男が意識を取り戻すと、清々しいほどに晴れ渡った青空が目に飛び込んてきた。相変わらず、どこなのかわからない裏路地で男は大の字になって寝ていた。身を起こすとまだ少しふらふらした。辺りを見渡したが、昨日の綺麗な小料理屋は見当たらない。昨日のあれは一体なんだったのか?酔い潰れて、ここまで来て寝てしまって、夢でも見ていたのだろうか。
「夢なんかじゃない、愚か者が。」
「あれ…昨日の婆さん…?」
声のする方を向くと、昨日ぶつかり、男に警告と十字架を渡した老婆がそこには立っていた。
「婆さん、一体これはどういうことなんだ…?」
頭の整理がまるで追いついていない男が老婆に問うた。
「昨日お主が出会ったのは吸血鬼じゃ。お前は吸血鬼の餌になるところだったんじゃよ。」
男は老婆の口から放たれる言葉の意味をすぐには理解することができなかった。吸血鬼といえばアニメとか、ゲームとか、御伽噺なんかに出てくる、いわゆる架空の生物だ。そんな生物のことをこの老婆は真面目に語っている。やはりこの婆さんはボケているのだろうか、と男は思った。
「信じられぬ…という顔をしているな。まぁ良い。お主には今後、関わることもないだろうし、関わって欲しくない世界だからな。」
そういうと老婆はその場を立ち去ろうとした。
「いや、待ってくれよ、婆さんの話が本当だとして、俺はどうして助かったんだ?俺は噛み殺されててもおかしくないだろう?」
「お主を麻痺させたのはおそらく奴らがよく使っている麻酔薬みたいなものだ。黒い粒で胡椒みたいな見た目をしておる。お主が噛まれずに済んだのはわしが渡した銀の十字架のおかげじゃ。あれは吸血鬼の弱点で、わしの呪いもかけてある。吸血鬼がそれを持っている人間の体に触れようとすると、火で焼けるような痛みが身体中を駆け巡る。お主はそいつのおかげで噛まれずに済んだんじゃよ。」
二日酔いで、その上目覚めたばかりでこんな話をされても全てを信じることはできないが、なんとなく、話の筋が通っているように思えたので、男はとりあえずその場は老婆の話を信じることにした。
「昨日は生意気言ってすみませんでした。助けてくださりありがとうございます。」
男は早口で老婆に言った。
「あと、聞きたいのですが…あなたは何者なんですか?」
老婆はため息をつき、男の顔を真っ直ぐに見た。
「わしはヴァンパイヤハンター。長い間ずっと奴らを追っている者よ。」
老婆は男を残し、その場を去った。
裏路地の小料理屋 旦開野 @asaakeno73
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