バイオグラフィノート

ナルミヤタイ

一章 始まりのノート

第1話 落下する男

落ちながら、男は考えた。


まだ、各地を巡る仕事は終えていない。




でも、自分はこのまま眠りにつく。長い眠りに。


目覚めるのは10年後、いや数十年後?




・・そんなに長い間、この仕事を中断する訳にはいかない。


自分が真面目だからとか、そういう事ではない。


いや真面目か不真面目かと言われれば、とても真面目な方だと思う。


この髭に誓っていい。




男の脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。




”ワッフルヘア”の少女。


1本で束ねている時もあれば、2本の時もある。


太陽の様なまぶしい笑顔で笑ってくれる。


”何してるの?””どこいくの?””それ私にも出来る?”


目が合えば質問攻めだ。


忙しくて答えられない事もあったが、疎ましく思った事はなかった。


むしろ最近の話しかけれた時の感情は、喜び。




男の脳裏に、少女が大事そうに抱える一冊のノートが浮かぶ。




いつだったか少女に渡した小さなノート。


自分が持っている事典を羨ましがり、欲しがったのであげた。


ノートには、大地の理を簡単に書いて置いた。


内容に意味はないが、なんだか凄い事が書かれていそうな雰囲気の文字で書いた。


”ひげのおじちゃん、ありがとう!”


少女はもちろん読めなかったが、とても喜んでいた。


相変わらずの太陽の様な笑顔と、後ろにはパシーの花が咲いていた。甘い香りがしていた。






落下という、空を切り続ける自分。皮膚が痛い。息が出来ていない気もするが、自分は人間ではないので大丈夫。三日間くらい息をするのを忘れてしまい、ハッとした事もあるくらいだ。




海面が迫って来る。


少女の事をもう少し想っていたかったが、今は時間がない。


時間は、未来にたっぷりある。


少女の思い出は、その時にじっくり味わおうじゃないか。




そうだ、あのノートを使おう。




男はひらめく。


空高くから落ちながらも、右手を強く握った。


強く握った右手は淡く光る。


その光は、遠く離れた少女が持つノートの元へ。




これでなんとかなるだろう。




男は安堵した。


ただいま落下中、眠りにつくまで、あと何分か。




男はふと自分の髭の事を心配した。


毎日かかさず、小指第一関節分の長さに整えている。


ちなみに左手だ、右手の指はなぜか少し短いのでだめなのだ。




男は、見た目こそ細身の少し外見が優れた人間ではあるが、実は人間ではない。数十年後、自分の髭がどんな状態になっているのかわからなかった。


今まで髭を整えなかった事はなかったし、長さを間違えた事もない。


あれか、おじいさんの髭の様になってしまうのか。


男はしかし気づく。


自分は人間ではない、老化しない。成長しない、すなわち髭も伸びないのかもしれない。


いや待てよ、では毎日カットしている髭とは?


気づきの連続を繰り返して、男は時間を無駄にしたと気づいた。


自分は人間ではないので、なんとでもなると思い、いきなりどうでも良くなった。




”ヒゲのおじちゃんまだー?”


ワッフルヘアの女の子。大きな犬がいつも隣にいる。


女の子の前ではかわいらしい目つきの犬なのだが、女の子がいない時に自分に向けられるあの眼力と言ったら。


旅をしていると言う自分に異様になついてくれた少女。


男は気づいてしまう。




少女が大きくなって、女性らしい姿に変貌し、子が出来て母になり、幸せと悩みを併せ持ったり、おばあちゃんになって自分の事を懐かしく語ってくれたり。


そんな光景を自分は見られないのだ。




少し胸が痛んだ。

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