Step 3 Cacao…adding sugar?
「発表会? じゃあ試験後も忙しいんだな」
「うん、今日もこのあと練習する」
勉強が終わって夕飯にすると、自然と他愛もない近況報告になった。とはいえ匠は質問に答えるくらいで自分からは口を開かず、響子が話しているのが大半だったが。
「今回は課題曲の他に編曲も弾くんだよ。『ヘンゼルとグレーテル』」
「ああ、オペラだろ」
「そうフンパーディンクの。よく知ってるね」
「研修中に観た。専門に合うから楽しめるかなって」
御馳走様、と匠は食器を手に立ち、そのまま響子の脇をキッチンの方へ抜ける。ふと思い出し、響子はすれ違いざまに問いかけた。
「専門って、たくちゃん何にするの?」
「製菓」
「えっ」
てっきり響子は父親と同じ西洋料理専門という返答を予想していた。だが記憶をざっと辿ると、匠の家で食事をした時には食後に匠の作った菓子が出てくることも多かったように思う。
「そっかぁ。やっぱりホテルとか、おじさんちのデセール担当かな。和菓子もあるよね」
姿勢を戻した響子の背中で、蛇口から水が流れる音がする。
「たくちゃん、お菓子もうまかったもんね。なんか久しぶりにたくちゃんのお菓子食べたいなぁ……なーんて」
「いいよ」
「えっ?」
頼むのは図々しいかと遠慮の一言を加えたはずが、意外な答えに響子は正直驚いた。座ったまま振り返ると、匠が洗い物の手を止めずに続けた。
「ちょうど講評会用の考えてたから。試作になるけど、響子が練習してる間に材料持ってきて作ってやるよ」
だからさっさと練習しろ、と急かされ、大急ぎで残りのおかずをかきこんだ響子は、半ば追い出される形でダイニングを後にした。リビングのピアノの前に座って楽譜を開いても、全然頭が切り替わらない。
——たくちゃんとお菓子……
ピアノをサイレント・モードにし、鍵盤に指を滑らせる。『ヘンゼルとグレーテル』の第三幕、ジンジャーブレッドの子供達が歌う合唱。
——お菓子売ってるたくちゃんとか想像つかないなぁ。
無表情の匠と菓子屋の接客が響子にはどうも結びつかない。玉葱に一点集中する姿ならありありと想像できるのに。
いつもならピアノの音を管弦楽に近づけようと指の感覚を研ぎ澄ませるが、今は優しい旋律がヘッドホンから聞こえてもタッチに神経が向かない。
——そういえばたくちゃんがお菓子作ってるとこ、見たことないかも。
そう思うと気になって仕方なく、響子は気もそぞろに一通り指を慣らすと、そっと廊下に出た。
ダイニングの扉は半開きになっていて、はみ出た光が廊下の床に筋を作る。扉の向こうからは、カシャカシャと規則正しいリズムや、コンっと調理器具がステンレスに当たる音が漏れてくる。
靴下を滑らせて扉に近づいた響子は、息を潜めたまま中を覗き見た。
——え……
どく、と胸が大きく動く。
——たくちゃん、あんな顔するんだ……
作業台の前でボールを抱えた匠は、穏やかな笑みを湛えてホイッパーを動かしていた。それを置いたら身を翻して林檎と包丁を取り上げる。そして子供が特別なことを思いついたみたいに、瞳を輝かせて器用に飾り切りをしていった。
こんなに楽しそうで優しい匠の顔を、響子は知らない。
それを見た瞬間、響子の目は瞬きを忘れた。
——たくちゃんなのに、たくちゃんじゃないみたい……
響子の身体ごと全てが、匠に捕まったみたいに動かない。
ピー、というオーブンの音に匠が体の向きを変え、扉の隙間の響子と目が合った。それにびくっとしたのを合図に響子の体は解放され、バランスを崩して「うきゃっ」とキッチンの中に転び入る。
「響子、練習終わったのか」
もう匠はいつもの顔に戻っている。たったいま見たのは幻覚だったのか。
「う、うん」
「すぐ出来るから座ってろよ」
「んと……見てていい?」
匠は首肯し、オーブンから出したココットの上から金色の粒を散らす。そしてココットの表面にバーナーの先を向け、カチリとトリガーを引いた。
固まった茶色の生地の上に、青い炎が細長く伸びる。その中心がしばしば朱に色を変え、表面に
「これ、ブリュレ?」
「カカオのね」
全ての粒が色を変えたところで、再びカチリという音とともに炎が消える。
「完成?」
「まだあと五分くらい。
そう言って匠はココットを皿の上にそっと置く。その手は筋張ってがっしりしており、響子のよりもずっと大きい。オクターヴ和音も軽々届きそうだ。
「熱くないの?」
「末端冷え症だから平気」
言いながらも匠は手を休めない。響子は淀みなく動く匠の指がココットの周りを果物で
ちら、と斜めに見上げると、匠の顔も記憶にあるより遠い。
でもそれより、またさっきと同じ匠の瞳に出会ってしまって、響子は慌てて視線を皿の方に落とした。
ヘンゼルとグレーテルじゃないけれど、お菓子の魔法にかけられたみたいだ。
鼓動がどんどん早くなる。
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