Step 2 Cacao 50%
翌々日の夕方、母が出かけたのとほぼ入れ替わりでインターホンが鳴った。響子はぱたぱたと玄関へ走り、勢いよく扉を開けた。すると濃紺のジャンパーを羽織った匠が、特に驚いた風もなく、よ、と片手を上げる。
「いらっしゃい! ごめんね、帰ってきたとこ突然」
「別にいいよ。そこでおばさんに会った」
「あ、学校から帰ったばっかり? ほら上がって上がって。これ寒いからスリッパ」
匠とちゃんと話すのが久しぶりなせいか、声が心なしか上ずる。しかし匠は気にした風もない。
「サンキュ。はい、これお
匠の方へ一歩踏み出したところで明るい灰色の紙袋を突き出され、響子は顔面にぶつかるすれすれでそれを受け止めた。袋の端々に変な窪みができている。
「スーツケース入れたから、ちょっと汚れたけど」
「わ、ありがとー! ね、開けていい?」
「落とすなよ」
我が家の如くダイニングに向かう匠の後ろについていきながら、響子は「何かな」と袋に手を突っ込んだ。中身を引っ張り出すと、メタリックな長方形の箱が出てくる。銀無地の箱の表面には幾何学的なマークが一点あるだけで、他には何も書いていない。片手で持っても軽く、歩く振動と一緒に中でカタカタと音がする。
「なぁにこれ」
「ショコラ。パリの」
「え、初めて見る」
それは日本の百貨店で二月に開催されるバレンタインの催事でも、両親に連れられてパリに行ったときにも見た覚えがなかった。店名を探して袋を見ると、確かに持ち手の内側に「fondeur en chocolat」 と書いてある。
「ほんとだ。パリの、三区?」
「そう」
印字を読みながらダイニングの椅子に座る響子に倣って、匠も椅子を引いた。机の上に置かれていた響子の母のメモを取りつつ、言葉を続ける。
「学校の先生の師匠の店ってことで連れてかれたんだ。ついてるサロンでデセールも食べに」
「へぇー。食べてみていい?」
「どうぞ」
蓋を開けると丸みを帯びた正方形のチョコレートが九つ。どれにもチョコレートに映えるカラフルな線でラフに模様が描かれていた。
口の中で外側のビターショコラとガナッシュのハニーミントが溶け合う。
「う、わぁ……なにこれ……すごい……うぅっ」
「すごいよな」
「はぁぁ幸せになる〜。こんなショコラティエのサロンなんて……いいなぁたくちゃん」
「うん」
言いながら匠は表情も変えずにメモを読み続けている。その反応に響子は「たくちゃんらしいなぁ」と、呆れにも似た気分になった。やや興を削がれてつい口を尖らせる。
「こんなすごいの食べたら興奮しきっちゃうのに、たくちゃん冷めてるね」
「そうでもないよ。かなり勉強になった」
「えぇ、見えない」
「ほんとだって。それより響子、試験だろ。おばさん夕飯作ってくれてるから準備も楽だし、勉強してろよ。俺も課題やるし」
淡々とした態度に響子は膨れっ面をしてみせたが、匠はそれにも気づかないようでさっさと鞄からファイルを取り出していた。仕方なく、響子も銀の蓋を閉じて椅子から立つ。
——たくちゃん相変わらず、クールだなぁ。
ダイニングの扉を出るときにちらりと見ると、匠はもうプリントの上でペンを動かしていた。自分だけが久しぶりだと浮かれた態度をしたみたいで、響子は気恥ずかしくなる。
もともと匠は表情があまり動かない。感情が表に出にくいらしく、小さい頃からの付き合いでも、大笑いしたり激怒するところなど見た記憶がない。優しい顔もするにはするが、笑顔と言えば愛想程度の顔ばかりが思い浮かぶ。けして不機嫌なわけではないのは知っているし、冷たいのでもない。それが硬派でいい、と女子にはその無表情っぷりに割と人気があったし、一時期は彼女がいた。久方ぶりの匠も、これまで響子が知る通りの匠である。
しかし今日の響子にはなぜか、匠の態度が胸にすとんと落ちてこない。
無意識に自分が緊張しているのを自覚したら、しばらくまともに話してなかった幼馴染の響子にくらい……と、どこか期待したのかもしれない。
ちょっと、つまらない。
——たくちゃんて、誰に対してもあんな感じなのかな。
チョコレートの小箱を胸に当て、響子は自室の方へ足を踏み出した。
——彼女さんとかにも、あんななのかしら。
頭にそんな言葉が浮かぶ。そのことに響子は、ん? と首を傾げた。
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