第十一話
「だから教えてください私に全部」
長野はヤマギシが声を出して笑ったのを出会ってから初めて見た。
「聞いてどうする?」
「今度の企画会議の為に活かします。創作なら決して誰も本当には信じません。それに一応、私にも今度の結果次第によっては色々と面倒くさいことがあるんですよ」
ヤマギシは髭を詰りながら小さな声で「まいったね」と零した。
「……何から聞きたい?」
「まず最初に質問したNo.1008の患者ってなんですか?」
「正確には推定五歳の野生児で救出保護された患者のことだ」
「具体的にはどういった意味ですか?」
「そのままの意味だ」
「野生児。あの狼とか犬とかに育てられた子供ってやつですか?」
ヤマギシは黙ってうなずいてから「患者は狼に育てられた」と低い声で言った。
「それはもしかして……チハさんのことですか?」
「そうだ」
なんの躊躇いもなくヤマギシは答えた。
「本当に?」
「ああ、本当だ」
しばらく長野は黙っていた。
「でも実際そんなこと、ありえないですよね。遥か昔に存在したと言われる野生児は虚偽の可能性も極めて高い」
「どうしてそう思う?」
「世界的にみれば経済や動物環境を考慮すれば確かに存在する可能性もあると思います。でもまず日本の狼は、明治の頃だったか忘れましたが、以降その実態が確認出来ず確か記録では全滅しているはずです」
「記録では、ね。まぁいい。続けて」
「仮に狼が存在していたとして、そもそも狼の母乳は人間の体内で消化出来るのですか? それに狼の群れに人間の五歳児が四足歩行で動向するのは不可能じゃないですか? 例え成人済みの人間が、二足歩行であっても夜行性で夜に目が利いて高速で移動する狼についていけるとは思えません。人間は元々樹状生活によって手や目が発達したとも言われていますが、昼行性です。昼と夜では視力に差が出ます。何よりもチハさんは言葉も普通に喋れますし、節々の言動に人間性を感じます」
「まず一つ。狼は確かに今現在少数だが日本に存在し、何百年もの間、人に姿を見せることはしていない。狼は賢いだけじゃない。人間風に言うならば狼は、情に人一倍強い動物だ。だが狼は決して忘れていない。人間のやってきたこと。暴力性、支配性、残忍性をずっと代々子孫に受け継いでいる。それに狼も人間と同じで進化する。習性も日本ならではの変化をしていると私は予測している。
あと補足するとチハが何歳から狼と暮らしていたのかは不明だ。本人もいつからかは記憶にないと言っている。それに狼の子供は人間よりも遥かに早く育つ。よって母親の母乳が出る授乳期間は短い。仮に母乳が飲めたとして、都合よく授乳期間の間にチハがいた可能性は極めて低いと推測している。
二つ目。例え狩りについていけなくても、巣にいて面倒を見ればいい。狼も人間と同じように性格や気質は十人十色だが、母親だけではなく父親や仲間も一緒になって子を育てる。狼の巣は一定の期間で移動を繰り返すが、その時はお得意の知能を使って子を補助することは可能だ。特に労働の時代のような昔とは違い、現代日本人にとって狼の存在など日常的に頭にないのだから、夜ならば犬にも見間違える可能性は十分にあるし、夜の山奥となると気づかれる可能性はもっと低くなる。そして三つ目。チハは保護した私が人間として育てた」
「ちょっと待ってください。ヤマギシさんがチハさんを保護されたんですか?」
「なんだ、全部読んだわけではないのか?」
「殆ど読む時間なんてありませんでしたから」
「そうだったのか……私はね、とある民族の末裔の一人でね、親が珍しく狩猟採集や儀式に拘る数少ない家系だった。私は…それが嫌で都に出たが」
「えぇ、ちょっと待ってください。ヤマギシさんのことは後でちゃんと聞かせてください。とりあえず話を戻します。
まずチハさんは、少なくとも授乳期間の間は人間といて、それ以降に遺棄されたとでもいうのですか? 確かにチハさんは夜に異常なほど目が利きますし、嗅覚も非常に研ぎ澄まされていると思います。ですが自然界に長く身を置いている、と仮定すれば多少の納得は出来ます。けれど実際問題、狼や動物に人間を育て、生活を共にするなんてことはあり得るのですか?」
「育てると、ただ生活を共にするだけ、というのにはまずそれぞれ意味合いが違ってくる。それでも犬や豹、猿や鶏などその他の動物たちと人間が野生的な生活をしていたのは事実だ。その原因や過程は誘拐や遺棄、虐待による逃走などの多岐にわたる。現在も認知観測されていない、若しくは一度保護されたが、施設から逃亡し山に帰ったままの野生児は存在する」
「それって世界各地で起きている事例ですよね? でもここは日本ですよ?」
「日本だからないとでも? どうしてそう思う?」
「現に今まで日本では野生児が保護されたケースはないですよね? ちゃんと調べてないので、ちゃんと調べなおさなければ正確な情報としては言えませんけど」
「君は何か、日本だけは神聖で特別な国だとでも思っているのかな?」
「いやそんなことは」
「思っているのさ。日本だけは海外の野蛮的で目も向けられないような事実は存在しない。安全で清潔で平和で遺棄や誘拐なんて残忍なことをする者は他人事のようにでも思っている」
「いやそこまでは」
「まあそれは如何にも日本式教育方だから仕方ない。実際にこれまでに日本で野生児が発見保護され、公にされたケースは一度としてない」
「なんだ。じゃあやっぱり」
「イチマルマルハチ」
ほんの少し、会話が止まった。
「No.1008。世界で千八番目の野生児患者。通称チハ」
「え……千八って、ちょっと待ってください。チハさんのチハって」
「チハが日本で発見された初めての野生児だ。まだこれは正式ではないが」
「チハさんが……」
「ああ、チハは少なくとも公にさらせばそうなる。だがチハは日本で一人目ではない、と私は……そう思っている。山に捨て置かれた幼児また子供が生存出来る可能性は極めて低い。単純に飢えて死ぬか、動物の餌となって食い殺されるのが自然界の摂理だ」
「でも、そんな」
「今この国が世界とギリギリ渡り合えているのは、歴史的ブランドのお陰だ。労働の時代にあった戦争の名残なんてもう敗北の二文字でしか残っていない。
私の先代たちは嘗て文化的差別を受け貧困層に陥った。朝起きると言葉も暮らしも場所も否定され奪われた。残された末裔たちには二つの選択肢を迫られた。民族出身を名乗り気高く生き明日死ぬか、略奪した側の世界に溶け込んで末永く生きるか。最初は抵抗を見せる者達もいたが、結果ほぼ九割以上が名と国を捨て後者になった。時が経ち、民族の名すら知らないで生きる世代が大半になった頃、政治経済が危うくなってきた国は、嘗ての民俗の暮らしを保護し日本の宝だと謳い法も整えはじめた。自分たちで否定し駆逐した文化をね。これが本当の平等社会への第一歩だと信じて。そんなものは一ミリだって存在しない虚構を、国民の大半は信じた。それが労働の時代の原動力でもあったんだよ」
ヤマギシは燃える火のゆらめきを見つめ続けていたが、とっさに我に返り「すまない、話が逸れた」と言って長野に向きなおった。
「彼女は恐らく生活給付金目当てに生まれてきて、山に遺棄された可能性が高い世界でもよくある典型的な例の野生児だ」
「それだと親は給付金を受ける為に出生届けを出しているんですよね?」
「ああ、多分な」
「多分? でもそれじゃあすぐに警察に届けを出して……」とまで言って長野は喋るのをやめた。
「あの、もう一度この資料をちゃんと読んでもいいですか?」
長野は静かに文面を読んでいく。
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