第八話
食事を終えたらチハとヤマギシは外に出てしばらく帰ってこなかった。長野は出来るだけ安静にしておくため寝転んでいた。
虫の鳴く音と梟の地鳴きが静かに聞こえてくる。長野は今こうして自分が不思議な体験をしているのが不思議でならなかった。生きていてこんなにも不思議なことは、今までに一度だってない。
山に出掛けて一日歩き続け、銃声を聞いて、猟銃を拾って、食い殺されたような動物が死んでいて、熊に追いかけられて急斜面から落ちて気絶して、起きたら知らない少女と老人がいて、怪我もして荷物を全部紛失した。更に山奥の誰も知らない秘密の場所みたいな家に連れてきてもらって、ご飯を振る舞ってもらった。
人生を語るには浅すぎるかもしれない約三十年の人生。それなりに色々な経験をしてきたつもりだったが、この短い時間での濃いい体験に比べれば、どうやら些細なものだったようにも思えた。
「締め切りまでどうしよう」
ふと現実に引き戻された長野は横目で窓際の机や椅子を見た。鉛筆や紙もありそうなので、あの二人が何に使っているのかは不明だが、いざとなったらそれで書かせてもらうのもありか、と一人納得した。
いつの間にか眠ってしまった長野は、鳥の囀る声と共に目を覚ました。掛け布がかけられていたのと、囲炉裏と家の造りのお陰か、底冷えすることもなく快眠できた。
ヤマギシは壁の方を向いて眠っていたが、チハの姿がどこにもなかった。
長野はゆっくりと立ち上がって表に出た。たくさん寝たからか、元からの自然治癒力の高さのお陰か、自分でも驚くほどに怪我の痛みが和らいでいた。
外はまだ朝日が夜の空に滲み出す手前で薄暗かった。
「さむっ」
山の朝は流石に寒かった。呼吸する度に息は白く、肺に澄んだ空気が入ってくるような、自然の冷たさだった。
辺りを見渡しながら少し歩いてみた。竹が辺りにたくさん伸びていて、ちょうど裏庭に回ったところでは田んぼがあった。近くには高床式倉庫のようなものも見受けられた。
「へぇ……なんかすごい」と漏らしたら「何がすごいんだ」と泥だらけになったチハがどこからか出てきた。
「っ、びっくりした! チハさん? 顔中泥だらけですよ?」
「ああ、田んぼの一部を耕していたんだ。もうすぐ稲を植えるからな」
チハは手に持ったクワを右肩にかかえながら家に帰っていった。クワをよく見ると刃が昨日ヤマギシが持っていた鹿の角の形状に似ていた。
この日は失くしたスマートグラスやリュックサックを探しに出掛けた。昨晩長野の話を聞いたチハは「多分それはワタシが熊と遭遇した時に落とした銃だと思う」と言っていたのでチハも一緒に同行することになり、ついでに川まで案内してもらった。
二人の紛失物は思いの外すんなりと見つかったが、スマートグラスの方は故障していて使い物にならなかった。
「ナガノはもう街に帰るのか?」
お昼過ぎに、チハが川で手掴みしたアユを焼いて食べている頃だった。長野は挑戦したが全く成果は上がらなかった。
「そうですね……」
チハに言われて、何だか自分でもよく分からないがまだ帰りたくなかった。それは少しチハが寂しそうに見えたからか、それとも自分がこんなにも無条件に良くしてもらって申し訳無い気持ちがあったのかは分からなかった。だから「まだお邪魔していてもいいのでしょうか」などと曖昧な返事を言ってしまう。
「働けよ」
「え」
それは長野にとって人生ではじめて言われた言葉だった。
「自分の食べたいものは自分たちでとるのが山での生活だ。それが出来るのならヤマギシもきっと認めてくれる」
「あ、はい。いつまでいられるか分かりませんが、私、山にいる間は頑張って働いてみます」
「そうか。じゃあもう一回アユを獲ってこい」
「あれはチハさんの反射神経がないと獲れませんよ」
「はっ、これだから街のか弱い女は」
「すいません」
「いいかナガノ。もう一回ワタシがアユを獲ってやる。それちゃんと真似して覚えるんだぞ」
川に向かうチハはどこか嬉しそうだった。
「ナガノ、起きてるか?」と呼んだチハは、玄関の方でひょっこりと顔を伸ばしていた。
「はい、まだ起きてますけど」
「動けるか?」
「え、あ、まぁゆっくりなら」
「分かった。じゃあ脱げ」
「はい?」
「脱げ」
「え、脱ぐって」
「裸になったら外にこい」とだけ言い残してチハはいなくなった。
「は、裸? 全裸ってこと?」
とりあえず様子がおかしいので、痛む足に負担をかけないようにゆっくりと立ちあがって、表に出た。
「おーい、こっちだ!」と驚いたことにチハがすっぽんぽんになって手をふっている。春先といえどまだ雪の降る日もある夜にだ。
「チ、チハさん⁉ 寒くないんですか?」
「ナガノ! 裸になれって言っただろ!」
「こんな寒いのに、風邪ひきますよ!」
「いいから脱げ!」
「嫌ですよ!」
ちょうどチハの背後からヤマギシが出てきて、家の方に向かってきた。
「長野さん。風呂だ」
「風呂?」
「そう、池の近く。チハと一緒に入ってくるといい」
長野はとりあえず服を着たままの状態で言われた場所に行ってみた。近くに池があったが、チハの姿は確認できなかった。
「あれ……チハさん! どこにいるんですかー?」
「おーい、こっちだナガノ」と竹藪の方からチハの元気な声が聞こえてきた。
恐る恐る声のする方角へ歩いてゆくと、これまた驚いたことに、大人が余裕で四人分は入れそうな窪んだ穴があって、そこから湯気が湧いていた。
チハはもう穴に入っていて、長野がまだ服のままなのを怒っていた。
「すごい……なに、これって源泉なの?」
「いいから早く服を脱げって言っているだろうが、バカモノ」
長野は草陰に入って服を脱いだ。寒いので早歩きで穴に足を入れた。
「ううううう、熱い、でも、気持ち、いい」
あちこちに出来た傷が痛んだが、それ以上に山奥で風呂に(しかも天然の)入れると思っていなかったので少し興奮気味の長野。チハは長野の身体を不思議なものでも見つけたかのようにジロジロと眺めていた。長野は熱烈な視線を感じて、肩まで浸かった。足元には木の板が敷かれていた。
「ここって本当にすごいですね。温泉もあるなんて」
「ナガノはいつから毛が生えてきたんだ?」
「は?」
「ワタシはまだ毛が生えていないんだ。街の人たちはみんなそんな風に毛が生えているのか? ヤマギシも叢みたいに生い茂っていた」
「はあ。まあチハさんも大人になれば自然と生えてきますよ」
「そ、そうなのか? 毛が生えてきたら街では大人になるのか?」
「いや違いますよ」
ふとさっきも遠くからでも自分の居場所を見つけたチハの夜目の良さに、長野は改めて驚いていた。
ここら一帯はほぼ暗闇だった。ここに長野が到着するまでも竹林から覗く月明かりを頼りにやってきた。
実際に長野は目が慣れてくるまで、チハの身体さえ詳細には見えていなかった。
「出たら寒いだろうなあ」
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