斑雪の虚構

文鷹 散宝

第一話

 降りしきる雨はやがて真っ新な雪に塗られている。大勢の内の一粒であった柔らかい雪は、微風に揺られ子鹿の鼻に静かに舞い降りた。

 フスッと鼻から白い息を溢した子鹿は、少し前を歩く母親の後に小さな足跡を残して歩く。足跡を残した土は泥濘んでいて、底から水が湧き上がってきた。湧き上がり、ゆっくりと嵩を増した水の膜は、鹿の親子を美しく映す。

 空気が震えた。水の溜まり。鏡像は波紋した。波が引いた時には、母親の姿は見えず、子鹿が遠くを見つめていた。

 つぶらな瞳に映る無機質な灰色の空が、薄く薄く伸びていて、まつ毛に小粒の雪が触れていた。子鹿はしばらく瞬きをしなかった。

 ようやくして、何かを悟った子鹿は噛み締めるように瞼を瞑った。

 瞑った先にある景色には穂が緩やかに揺れていた。羽を広げた小鳥たちの音楽に合わせた花たちが陽気に踊り、溶けかけた雪たちが太陽をたくさん浴びながらぽかぽかと気持ちよさそうにお昼寝をしていた。

 目尻には悲しみの涙が溢れて、ついに瞳を開くことはなかった。

 雪が吹いて、道が開ける。煙は影になる。震える呼吸は、浅く、白い。暖かさ。寄り添うように触れた母親の温もりのお陰で、子鹿は目尻から涙を流すことができた。甘えた声を洩らして、溢れ出した涙は、大地に還る。

 親子は春の芽生えを想い静かに、眠った。


 長野は浮かび上がる原稿を呆然と見つめてため息をついた。

 このままではダメだ。では何がダメなのか。それが全く分からないから、もう一度ため息をついて席を立った。浮かび上がっていた原稿とキーボードは自動消滅した。

 長野は学食に出向こうとして、やっぱり面倒だと感じてまた座った。生体システムに反応して瞬時にホーム画面が自動展開された。

 毎日のように見飽きた大学のホーム画面の背景には、校章が中央に誇示されていた。同僚の殆どは、そのシンプルなデザインに嫌気がさして自分のお気に入り背景に変えているらしいが、長野は特に何も感じなかった。なぜ同僚がホーム画面に嫌気を感じ、変化を加えるのかを特に考えたことはなかった。

 いつものように「食事。たぬきうどん。緑茶」と独り言を告げた。

 シンプルなホーム画面が動き出して、到着までの残り時間五分二十七秒と知らせ、カウントダウン表示を始めた。

 長野は逆になぜこのたぬきうどんがいつも残り時間五分二十七秒から始まるのか、それを疑問に感じていた。でもその理由を長野は正確に知ろうとはしなかった。きっと食堂の職員か大学のシステム管理者にでも聞けば幾らでも正確な理由が知れるはずだろうけど、長野はそれを聞いてしまっては、もうたぬきうどんを今後頼むことはないだろうという確信があった。

 だから待っている間、彼女はたぬきうどんが出来上がって、この三畳間の個室に届くまで推測に推測を重ねていた。

 料理人がたぬきうどんを作るまでの時間とお箸と緑茶をおぼんに入れて(若しくは最初からコップ一杯分の用意されたやつがあって)コンベアに置いて流れてくる間の時間を計算したり、しなかったりもした。冷凍うどんか手打ちか、出汁は市販か、引いているのか、注文時には既に温めてあるのかなども気になった。この推測行為に恐ろしいほどの意味は感じなかったけれど、長野はこれも小説と同じだと感じていた。

 たぬきうどんが到着したので、まずスマートグラスを外した。良い香りと湯気を立てる器を持ち上げた。少しだけ出汁を飲んだあとにいつもの味だと安心してからうどんを啜るのが長野の癖だ。

 三啜いしてから次にたぬきの角を四センチほど齧る。甘い汁が溢れて出汁に溶けていくのも計算に入れていた。いや計算なんてものではなく、単純な経験からくる日常作業なのかもしれないと思って、はっとした。

「このたぬきって動物の狸?」

 とりあえずズルズルと音を立てて啜った。少しだけ出汁を飲んで、自分がどれだけ無知であるか、痛感した。最低でも週三回は顔を合わせて、齧ったり咀嚼したり、食道に入れている「たぬき」の存在を全然意識したことがないことを恥じた。

 いつも残り時間の理由ばかりを考えて(お腹が空いているからか貧乏ゆすりを繰り返し)肝心のたぬきのことを考えていないのは盲点だった。

 このままではダメだと思っていた理由はここにあったのかもしれない、と思ってとりあえずたぬきを齧った。何かしらの行動をおこして、体験、実践、経験の必要があると感じていた。いつもはこのような行為は然程重要視していなかった。知識は本を読めば得られるし、もっと手軽に知りたければ検索すればいい。最後は想像で創作は成り立つと思っていた。

 それも間違いではないし、今の彼女にとっては行動を起こす必要があったのかもしれない。

 普段はゆっくりと食事をする長野であったが、今日の彼女はうどんを勢いよく啜ったから出汁がおぼんや机によく飛び散っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る