第2話 シェイプ・オブ・ユー
あー、これ、夢じゃないよな。
七條さんが、おれの部屋に、居る。
部屋っつうかおれのベッドに、きれいな上半身をさらして、今おれの下にいる。べっ甲のボスリントンをはずすとこんな幼い感じの顔になるんだ。
大丈夫。夢じゃないよな。
だって、壁に留めておいたエド・シーランのフライヤーが今朝見た時と同じまま右上の角だけ三角に折れてる。
「なに? 余計なこと考えてる顔してる」
あぁ、七條さん。カフェオレみたいな色した肌がしっとりと濡れてる。あなたはこんな時、そんなふうに、そんなことを言うんだね。いつもみたいな話し方じゃない、荒い息を吐きながら。
あぁ。神様。
四月の頃のおれなら、こんな事態まったく予想できなかった。
大学生になったら、構内の図書館でバイトしようと思っていた。十人いたら九人までが「いかにもチャラそう」って言うに決まってる見た目――わざとそうしてるんだけど――からは想像つかないらしいけど、本を読むのは好きで。それもまぁ計算の一つというか、ギャップがあったほうが釣れる確率は格段に跳ね上がるでしょ。男でも女でも。
ショーペンハウエルの分厚いやつも実家に置いてきちゃったし、蔵書の整理なんてしながら未知の扉を開けるように背表紙を眺める幸せ……を考えただけで裸の背筋をスーッと指の先で撫で上げられるみたいな快感が走る。
けどその計画もあっけなく瓦解した。うちの大学はアウトソーシングに力を入れてるらしく、学生のバイトは今年度からは採用しないときた。
残念ながら当ては外れたけど、それも帳消しにできるぐらい、図書館に行く別の楽しみができた。カウンターにいる黒髪にメガネの彼。絵に描いたように真面目な見た目の男性スタッフ。健康的な肌の色に、いつもだいたい白とかブルーとか淡い色のシャツを着て、七分袖ぐらいのあたりまで袖をめくり上げていて。ほんと、男でも女でも愛せる性的指向に産んでくれた両親には感謝しかない。
「全部で四冊ですね。貸出は二週間後まで。……遅れ、ないように」
両手で本を持ち上げこちらに渡そうとする彼の手に、わざと触れるように本を受け取る。いつものように。
ありがとうございます、と言いながら目を逸らさないままでいると、たまりかねたように彼が視線をそむける。べっ甲のボスリントンがちょこんと乗っかった頬に、サッと赤みがさす。それもいつも通り。
入学したての頃に彼を見つけて、それから通い詰めて、週に二回は確実にカウンターにいる事が分かった。学生証を忘れたことにして仮のカードを作ってもらったり、閉架書庫の見学をしたいとお願いしたり。とはいえ、そんなことばかりしていて彼の気を引けるわけじゃない。入り口のドアを開け、カウンターにいる彼と目が合っても、そのまま一番奥の扉が閉まった自習スペースへ向かい、閉館まで出てこない。なんてこともたまにして。押したり引いたり。
最初の頃は四角四面な感じの対応だったのが、いつの頃からか、淡い笑みを浮かべたり、落ち着いた中にも柔らかいトーンの声で話してくれるようになった。風邪なのか花粉症なのかマスクをしていた時なんて、ただでさえ大きくない声がいつもより聞き取れなくて、「え? え?」と顔を近づけたら、あからさまに頬を染めうつむかれてしまった。
たぶん、脈はある。
すっごくおとなしそうな人だけど、ベッドではどんな感じなんだろう。トップ? それともボトム? あ、それはおれの場合であって異性愛者か同性愛者か、おれみたいにどっちもイケる人なのか、それがわからない。わからないからもういっそ試してみようよ。
そう思っていた矢先、たまたま入った図書館の向かい側にあるカフェで彼を見かけた。近づくと、本のページを繰りながらテーブルに置いた小さな弁当箱に蓋をしていた。そう、気づいてたんだよ。左手の薬指に指環してんの。まぁでもそんなのどうってことないけどね。
びっくりした顔でこっちを見上げてる彼の向かい側のイスを引き、「こんにちは」と声をかけた。「夜は、何時までですか?」
閉館までいる事は知っていたけど、前置きもなく聞いた。こっちを見る彼の目は何か言いたげだけど、言葉が出てこない。
「よかったら飲みに行きませんか?」
浪人しててよかった。じゃなかったら今頃はまだ十代で飲みになんて誘えない。そんなことを知らない彼は「えっ……?」って不思議そう。おれが一年だということは認識してくれてるわけだ。
「おれ、浪人しててもうハタチなんです。帰り、図書館の外のベンチで待ってます」
そう言い残して席を立った。
衣服に覆われていない白い肌がふんわりと桜色に染まる。たった一杯、それも手に収まるぐらいのグラスを空けただけでそんなふうになってしまうとは、こちらの期待値をはるかに上回る。
若く見えるけど三十はとっくに過ぎていて、図書館に来ていない日は実は全く違う仕事をしていて、とか。そんな話をしているうちに彼の声にはいつもの落ち着きなんてなくなって、鼻声からちょっと甘えたような感じに変わっていった。トイレから戻った時、頬杖をついたまま目を閉じている彼の肩に手をかけ、「おれのアパート、ここから近いから酔いを醒ましていきます?」
アパートまで歩く間、彼のスマートな腰に手を回していた。ごめんなさい、こんな……とか申し訳なさそうに言うのを、いえいえこっちが誘ったんですから、と返して。
そう。誘ったのはこっち。なんだけど。
ねぇ、エド・シーランの「シェイプ・オブ・ユー」って曲知ってる?
僕はきみの身体に惚れたんだ──、……そんな歌詞があるんだよ。
おれが七條さんに惹かれたのはあくまでも見た目だけど、あなたは今、おれの身体に溺れる寸前。違う?
もしかして左手の指環の相手、おれと同じ男だったりする? そうしていつもあなたはそんな顔を見せてるんじゃないの? 指環の相手に。
もしも。もしも、明日の朝になって目が覚めた時に、もう七條さんがこの部屋にいなかったとしても、ベッドのシーツからはあなたの匂いがするんだろうな。
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