夜道の幻影

なつもち

夜道の幻影

「そういえば、最近出るらしいぜ。幽霊」


食後の一服を楽しんでいるときに、突然田川がニヤニヤとした笑みを浮かべながら突然切り出してきた。ソファにもたれかかっていた航は、気だるそうに体を起こし、机を挟んで目の前に座る男をゆっくりと眺めた。


「こんな住宅街で?」


その日はいよいよ今年も残す所あと僅かということで、田川とともに鍋を肴に酒を楽しんでいた。


「ああ、なんでも暗い夜道を一人で歩いていると現れるらしい。ふと気がつくと、コツコツと足音がするんだけど、振り返ると誰もいない。気のせいかと思って歩き続けるとやはり音がする。気になってもう一度振り向いた時、白いお面をかぶった黒い影が立っていて、目があうと、どこまでも追いかけてくるらしい。そして捕まったら最後、檻の中に閉じ込められて一生出れないらしいぞ…」


「…今は冬だぞ。怪談なら夏にやってくれ」


「なんだよ面白くないな。もうちょっと怖がってもいいのに」


「それと作り話ならもう少しうまくやれ」


「あれ?バレてたか。一郎とかなら簡単に騙されてくれるのに」

 やれやれとでも言いつつ田川は肩をすくめた。航は吸い殻を灰皿に押し付けて外套を手に取った。


「さて、そろそろ帰らせていただく。鍋うまかったぞ。ごちそうさま」


「え、もう帰るの?終電はまだ先だぜ?」


「ちょっと長戸の家に用事があってな」


「あーそういうことね。どうする?さっき使わなかった酒いくつか持ってくか?」


「いやいいよ。あいつの家にも腐るほどあるだろうし。何より歩いて持っていくのは骨が折れるからな」


「そかそか。てか、まだ自転車直してなかったのかよ」


「最近金欠でね」


「なるほどね。貸してやりたいけど。俺は自転車持ってないからなぁ」


「お前の場合、すぐそこに大学があるもんな」


「ま、気をつけてな。くれぐれも幽霊に襲われないように」


 意地悪そうな顔をして田川がからかってきた。はいはい、と適当に相槌をして航は田川の家を後にした。


 辺りは既に真っ暗になっていた。

 ほんのりと温かみを帯びていた頬に真冬の冷たい外気が突き刺さる。雪こそは降っていないものの、この冬一番の寒波が街を襲っており、普通の防寒具ではとてもじゃないが耐えられなかった。先ほどまで暖房の効いた部屋で温まっていた体はもう既に冷め始めている。


「もうちょっと着込んでくればよかったな」


 自然とそんな言葉が漏れていた。航は腕をさすり、カチカチと震える歯を必死に抑えつつゆっくりと歩き出した。吐く息は白く染まり、指先や鼻先はあっという間に真っ赤になった。体が冷えるのに比例して酔いも段々とさめていく。


「早く行かないと凍え死んじまう」


 そのとき、ズボンのポケットが震えていることに気がついた。誰だよと愚痴を吐きながら画面を見ると、長戸からだった。今日行くことは事前に伝えておいたはずなんだけど…。

 嫌な予感がする。やめておこうかと思ったが後々面倒なことになる可能性の方が高いので、出ることにした。歩きながら通話開始のボタンをタップする。


「もしもし、今向かってくところなんだけど」


「お、やっと繋がった。申し訳ないんだけどさ、ちょっとお金かしてくれない?今日パチンコで擦っちゃってさ」


 案の定だった。やけに上機嫌な声が耳に響く。


「ふざけるな。俺だってそんなに持ってるわけじゃないんだ。大体この前貸したばかりだろ?」


「と言っても相手には今度会うときにお金をまとめて渡すって言っちゃってるしさ。頼むよ。こういうのは信用が大事だからさ、今回の支払いが遅れたらもう貰えないかもしれないし。そうなったらお前も困るだろ?」


「パチンコで擦ったのはどこのどいつだよ…」


思わず顔をしかめる。そして航は相手にもわかるように大きくため息をついた。


「わかった。今日は多く持ってるし今回だけだ。今回だけなんとかしよう」


「お、わかってるねぇ。さんきゅー」


「と言うかお前、一人で始めてるのか?」


「お、やっぱわかるぅ?今日ちょうどアイスもらったとこでさ。ちょっと我慢できなかったんだよね。いやーなかなか爽快だよ」


「俺の分も残しとけよ」


「はいはい。それじゃ、家で待っとくな」

 さて、急がないとな。早めに行かないと全部あいつに取られてしまう。


「あ、そういえばさ」


「ん?」

 心なしか、先ほどまでとは打って変わって、長門の口調が真面目なものに変わったような気がする。


「最近出るらしいから気をつけろよ」

 なんだ?こいつまで幽霊か?みんな物好きだな。


「あー、はいはい。気をつけるよ」


「いや、俺は真面目に───」


 電話を切る瞬間、長戸が何か言いかけていたようだった。何か差し迫った気色があったような気もしたが、まあいいか、どうせあとで会うし。航は気を取り直した。しかし幽霊なんて迷信を信じるなんてみんな子供だなぁ。


 ゆっくりと歩いているとやがて普段通う大学の通学路へと差し掛かった。昼間は人通りが多いが、さすがにこの時間になると人の姿は一切見えない。いやもとからあまり人はいなかったかなと周囲を眺めながら思う。道に面して並ぶ建物は茶色く汚れており、食堂らしき建物の扉は固く閉ざされていた。


 ガサッという物音がしたのはそのときだった。しかし、振り返ってみると誰もいない。今まで歩いてきた暗い道が延々と続いているだけだ。無計画に整備されたせいで凸凹になった薄汚いアスファルトが仄かに光る街灯に照らされており、航の目に寂しく映るだけだった。


「まさかな」


 ふっと軽く息を吐く。酒はもう抜けている。さっき吸ったばかりで調子はいいはずなのに。具合でも悪いのかしら。航は再び歩き始めた。こつこつと足音が暗い夜道に響き渡る。先ほどまでと同じ道を同じ調子で歩いているはずなのに、やけに耳についた。


 やがてT字路に差し掛かった。頭上で光る街灯に照らされて、白いペンキで書かれたTの字がはっきりと航の目に映る。周囲は黒く染まっているので、殊更に明るく見えた。


 ふと左のほうに注意を向けた。視線の先からは明るい光が煌々とさしており、はっきりとは見えないが、その中でちらちらと人影がうごめいている。じっとそちらの方を見ていると、時折聞こえるはずのない人々の活力に満ちた声が聞こえてくるような気がした。

 反対に右のほうに目を向けると、暗い一本道がひたすらに続いており、その果てに線路がある。ガタンゴトンという無機質な音が微かに聞こえるだけで、他の存在は認められない。ただ、その線路の下を潜るように作られた通路が地獄の口のようにぽっかりと空いているだけだ。


 通学の際はいつも右の道を通っており、馴れ親しんだ道であるはずなのだが、なぜかそのときはなかなか右へ行く気にはならなかった。かすかに手が震えている。寒さのせいだ。そう、そうに決まっている。航は自分にそう言い聞かせて、右へと足を踏み出した。


 少し歩いただけで辺りはより一層暗くなっていく。前方で光る線路下の通路しか見えない。周囲の民家は寝静まっており、かといって車が通る気配もない。航だけが一人で暗闇の中を歩いていた。


 気晴らしに一服でもしようかと思い、ポケットを探った。しかし、ゴミの処理が手間だなと思い直し、仕方なしに気持ち早足で歩き続けた。すると後ろから早足で歩く音が聞こえてきた。瞬間体がこわばる。

 早足で歩いたせいか心臓のドクドクという音が耳のあたりまで響いてきた。

ゴクリと唾を飲み込む。少し早足で歩いたせいか体が熱い。吐く息はより一層白くなっていた。首筋をうっすらと汗が伝うのを感じる。ゆっくり慎重に一歩一歩足を運んだ。後方の音は不思議なことに航が歩くのと同じペースで鳴り響く。心臓の鼓動が早くなってゆく。


 やがて通路まであと少しというところまで来た。通路から漏れる光で辺りは照らされていてすぐ近くにあるカーブミラーがピカピカに輝いている。

 白いお面、黒い影。そんなことを思い出す。勘違いかもしれない。思い違いかもしれない。そう信じ込み、しかしどうしても気になってしまったので、ゆっくりと後ろを振り向いた。

 特に何の変哲も無い景色だった。普段と変わらない見慣れた道。先ほどまで歩いてきた道。


「なんだよ、はは。ビビらせやがって」


 胸の内に安堵感が広がってゆくのを感じた。やけに額がベタベタする気がして、顔を拭うと汗でびっしょりだった。ほっと一息つき、先へ進もうと振り返ったとき、偶然、そう偶然隣に立っていたカーブミラーの中を覗いてしまった。


 思わず叫んでいた。否それは心の中だけの話であり、実際には声を出すことすらできなかった。体は震え上がり、悪寒が全身を駆け巡る。呼吸は乱れていき、瞳孔は開ききっていた。電柱の裏に白い仮面をかぶった黒い影がいた。それは航が振り返っても見えない位置に巧妙に隠れて、こちらの様子を伺っていた。


 蛇に睨まれたカエルのようにどうすることもできず、ただガタガタと身体を震わせていると、それは微かに動いてこちらに近づいてきた。瞬間、互いの視線が交差する。

 それで我に返った航は走り出した。やばい。まさか本当に存在したなんて。

 前のめりの姿勢で通路に飛び込んだ。タッタッタッという音を通路のなかに響かせながら走っていると、似たような音が別のリズムを刻んでこちらに近づいてくる。


 悲鳴に近い奇声を発しながら一心不乱に走った。通路を抜けると、人が走りづらい裏道を通り、小道を抜け、路地をかけまわった。突然走り出したので肺は大きく拡張し、喉の奥でほんのりと血の香りが漂う。肉体は限界に近づきつつあり、休憩をしたくなったが、振り返ると影はまだ追いかけてきている。


 悲鳴をあげる体に鞭打って、航はがむしゃらに走り続けた。影はどこまで執拗に追いかけてくる。

 だいぶ走り回ったせいか、航は冷静さを取り戻しつつあった。そしてハッとなり一つの考えにたどり着く。


「まさか」


 確信を得て航は走る方向を変えた。もしかして。もしかしてこれは。ちらりと後ろを見ると影は未だに後を追ってきている。疲労からか足はもつれてきており、思うように走れなくなってきている。周囲の風景が歪んでいくような気がした。


「はぁはぁはぁはぁはぁ」


 肺がはちきれそうになるのを我慢しつつ走り続けた。口の中が血の味でいっぱいになるが気にする余裕はない。先ほどまでとは違い、小道などは通らず、一直線に目的の場所へと向かった。

 すると前方にいかにも安そうなボロボロのアパートが見えてきた。急いで階段を登り、ドアをドンドンと叩く。長戸はのっそりと出てきてた。チェーンのかかったドアの隙間から見える顔はあからさまに不機嫌だった。その瞳には非難の色合いが濃く映っている。


「なんだ、航か。ビックリした。て、お前汗びっしょりじゃないか。どうしたどうした?そんなに待ちきれなかったのか?」


「長戸、頼む。早くアイスをくれ。もう限界なんだ。幻影だって見えてる!」


「この前あげた分はどうしたんだよ。かなりの量があったはずなんだけど」


「全部使っちゃったよ。それよりも早く!」


「仕方ないな」


 チェーンを外して長戸が扉を大きく開けると、航は転げるように中に入り込んだ。


「早く!」


「まあ待てよ。薬ならここにあるから」


 ニヤニヤする長戸が机の引き出しに手をかけ、中から粉末の入った袋を取り出した。その瞬間、ガタンッとドアが勢いよく開かれた。


「警察だ。薬物取締法違反の疑いで君たちを逮捕する」


 令状を突き出す幻影、否、顔が色白の覆面の警官たちは航たちにそう言い放った。

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