第二節 『呪いの予兆』
ゴツン。
ゴツンッ。
……ゴツンッ。
僕が右手を振り下ろすたびに、女の子の顔が少しずつ潰れて変形していく。
その不愉快な作業をしながら、僕は背中にオッサンの視線をひしひしと感じていた。僕が手を抜かないか、黙って見張っているようであった。
ゴツン。
ゴツンッ。
ゴツンッ。
セルロイド人形の顔は、もうすでにぐちゃぐちゃになっていた。
だがどこまで潰せば良いか分からない僕は、後ろのオッサンが良しと言うまで叩き続けることしかできない。意味が分からない上に、ひどく不愉快な作業であった。
やがて人形の顔はぐちゃぐちゃを通り越して、首から上がべっだりと平らになった。まるで濃い肌色の煎餅から、髪の毛が生えているような状態だった。
いい加減もう嫌になった僕は、振り返ってオッサンに言った。
「あのっ、いつまで叩けば良いんですかっ……って、ぇ……?」
居なかった。
そこにオッサンなど居なかった。
そこにはただ、壁に段ボールが並んでいるだけであった。
「あれ……あれ、あれ……?」
僕が必死で人形を叩いているうちに、オッサンはもうどこかに立ち去ったあとのようであった。見張られているとしか思えないあの強烈な視線も、まるで僕に気のせいであった。
「でも、あの感じは……」
背筋に感じた嫌な視線を反芻しながら、僕は呟く。
本当に、とても嫌な感覚だった。
そんなところに、オッサンは入り口からひょっこりと現れたのだった。オッサンは両手で台車を押し、台車には白い木の箱が載せられていた。どうやら僕が叩いているうちに、それを取りに行っていたらしかった。
「ん、出来たか?」
「はい、その……これで良いですか?」
「あー……いんじゃねか?」
オッサンは人形のことをろくに見もせずにそう言った。
そして、
「んじゃ、顔潰した人形はこん箱に入れろさ」
「……はい」
訊いても無駄だと悟った僕は、素直にその人形を木箱の中に入れた。首から上が平らになり無惨な轢死体になったセルロイドの人形を、木箱の底に横たえる。
僕がそれをし終えると、オッサンは無理に明るい風に言った。
「これで、いっちょあがりさ」
「……はい」
「簡単だろさ」
「…………はい」
そう、難しいことなど何一つない。
ただ不愉快で、そして意味不明なだけだ。
「このか……木箱が人形さでいっぱいになったらな。あとは蓋すりゃいいさ」
オッサンが言う通り、その箱にはピタリとペアになる木の蓋がついていた。
「蓋さしたら、こんに金釘おいとっから、蓋に釘打って開かんようにするさ」
「……木箱のフタを、クギで打ち付けて止めちゃうってことですか?」
「んさ。で、釘を打ち終わったら、オイラんとこ声かけろさ」
簡単だろさ、とオッサンはいつもに調子で言った。
そんなオッサンに、僕は当然気になることを尋ねた。
「それで、釘で蓋を止めた箱を、どうするんですか」
「あん……? お前さ、先輩から聞いとらんか?」
「え、いや、はい……」
オッサンは呆れたような顔になって言った。
「ここは火葬場や。燃やすに決まってるだろさ」
そう、僕を馬鹿にしたような様子で言った。
「なん……なんで……」
「人形供養さ。聞いたことあるだろさ」
「え、いや、でも……」
よくは知らないが……これが、人形供養なのか……?
そんなわけない。顔を潰されて、人形が供養されるわけがない。
しかし僕が疑問を口にする前に、オッサンは先手を打つように言った。
「そこん段ボール一つ開けるたんび、一万円さ」
「好きなだけ稼げんぞ」
「楽な仕事だろさ」
一箱で一万円。
その言葉の力で、僕の疑問を封じ込めたのだった。
「じゃあ、木箱が一杯になって蓋したら声かけろさ」
オッサンはそう言い残して、そそくさと部屋を後にしようとする。
ただし僕にこう念押しするのだけは忘れなかった。
「いいか」
「しゃんと、蓋に釘を打ってから呼べさ」
「絶対に蓋が開かんように、ようく釘を打ってからな」
オッサンは最後にそう、釘を刺してから行ったのだった。
● ●
意味が分からなかった。
人形の顔を潰す行為に、何一つ意義が見出せない。
「……結局、最後は燃やすのに?」
最後に燃やすなら、そのまま木箱に詰めて火葬場に放り込めば良いのだ。顔を潰すという行程に、何一つ意義が見出せないのだ。
ただただ不愉快で、意味不明な作業。
しかもアルバイトに法外な賃金を払って、それをさせているのだ。
「……なんで、わざわざアルバイトに……?」
人手が足りないようには見えなかった。日にもよるのだろうが、少なくとも今日エントランスで見渡した限りは手持ち無沙汰な印象すらあった。にも関わらず、このために高額のアルバイトをわざわざ募集している。
それが意味することはつまり……。
「……正社員にやらせたらまずい作業……?」
フランス人形の顔を黙々と殴打しながら、僕は考える。
例えば、危険な作業。
例えば、後遺症が残る。
そうした作業の可能性はないだろうか。
そう言えば、ファラオの呪いの正体はカビだと聞いたことがある。
ピラミッドから埋葬品を盗掘した墓泥棒が、何日かして熱病に倒れて死に至るというファラオの呪い。その呪いの正体は長い年月かけて埋葬室に充満したカビの胞子を吸い込むことで起きる、感染症の一種であるという話だ。
エジプト考古学者達をも苦しめたその『呪い』は、実際によく換気をするようになってからは起こらなくなったと聞いたが……例えば、このアルバイトもそういう可能性はないだろうか?
そう思ってみれば、このカビとサビまみれの薄汚れた部屋だ。そしていつまで経っても慣れない異臭もある。こんな部屋で延々と作業をすれば、体調を崩してしまうのも無理ないだろう。そうだ。なので例えば以前は社員がやっていたが、それで体調不良者が続出して……それでアルバイトに任せるようにしたというのはどうだろう……。
「馬鹿な。そんなわけない」
ここはピラミッドの中じゃない。そんなもの、部屋の外に段ボールごと持っていって風通しの良いところで作業すれば解決だ。
つまり、そういう理由ではないのだ。
「……もっと、こう……」
通常の工夫では解決不可能で。
事情を知る者なら、高額の報酬を出されても絶対にやりたくない。
そんな理由があるのだ。
『キモチワルイ』
受付の人の言葉が、不意に思い出される。
段ボールにも人形にも決して触れようとしないオッサンのことも。
つまりやはり何か理由があるのだ。
正規の社員ならば知る何かが。
忌避すべき理由が。
「……………っっ!」
ガンッッッ!!
僕は思考を断ち切るように、全力でダメ押しの一撃を振り下ろした。すでにひしゃげていたフランス人形の頭部はもうほとんど衝撃を吸収せず、力を入れた分だけ僕の手が痛んだだけであった。
「くそっ、知るかそんなこと」
僕は虚空に向けて毒づいた。
「どんな理由があろうと、バイト料が貰えれば上等っ」
それが唯一絶対のルール。
カネこそがこの世で最も深遠で、偉大な力なのだ。
それは揺るぎない事実である。
「だから、僕はやる」
僕はまるで、誰かに宣言するように声を出した。
そして死体人形を木箱に放り込むと、段ボールから次のを取り出す。次に出てきたのは、犬のようなぬいぐるみだった。
それを見て、先ほどオッサンが追加した説明を思い出す。
『そーいうんのはな。これ使えさ』
オッサンが工具箱から取り出したのは、大きな鉄の裁ちばさみであった。錆び付いてジャキジャキと耳障りな音がするソレを見せながら、オッサンは言った。
『こんでな。顔面をタテに割れば良いさ』
そう言ったのだった。
『ええか。後ろ頭じゃなくて、顔だんぞ、顔。顔さ、縦に割れな』
オッサンは噛んで言い含めるように、何度も頭ではなく『顔』だと念押しした。
そして、
『顔さ割ったら、あとはワタほじり出すだけさ』
『え……ワタですか?』
『ワタぐれぇ分んだろっ。顔ん割って、中んワタ全部つまみ出せばええんさ』
オッサンはイライラした様子でそう言った。
一刻も早くこの部屋から出て行きたい。そんな様子に見えた。
僕の気のせいだろうか。
そしてオッサンは、やはりまたいつものセリフを吐き捨てた。
『分かんだろ。な、簡単だろさ』
オッサンの言う通りそれは簡単で、もちろんとても不愉快な作業であった。
ジャギンッ!
僕は黒い犬もどきの顔を、鼻先から額にかけて真っ二つに切った。
黒犬の顔がエイリアンの口のようにベロリと左右に開き、その割れ目から灰色の綿がはみ出してくる。ついでにどういう原理か、切った拍子に左右の目として縫い付けられていたボタンもポロリポロリと床に落ちてしまった。どうやら目を留めてあった糸も一緒に切ってしまったらしい。
顔面を縦に割られた黒犬は、盲目となった眼窩で僕を見上げていた。
「うぅぅ……」
それは凄まじく不快な作業であった。
もはや生温かいような気すらする湿った綿を、僕は無造作に取り出していく。顔がぺしゃんこになり、完全な首なし人形になるまでひたすら指でほじり出すのだ。
念のため(……何が念のためなのか?)首元の綿まで少しほじり出したところで、僕は黒犬もどきとワタを全部木箱の中に放り込んだ。
「……うぅ……くそぅ……」
とても『簡単』なはずの作業が、遅々として進まない。陰鬱な地下室で黙々と作業する孤独感が、鉛のように重くのしかかってくる。『不愉快』なだけの単純作業が、ここまで精神と体力を磨耗する物だとは思ってもいなかった。
さらにその上、あの視線のような気配が最悪だった。後ろに積まれた段ボールの方から、まるで他の人形達に背中をジッと見られているようなあの嫌な感覚。
もちろん自分の罪悪感から来る気のせいなのは分かっていても、とても耐えられなかった。そう、つまり……とにかく薄気味悪いのだ。
我慢が出来なかった僕は、とうとう勝手に作業台の位置を変えてしまった。段ボールの方を正面に見ながら作業出来るようにして、ようやく何とか落ち着いてこなせるようになったところであった。
しかし、先はだいぶ長いようであった。
午前ももう終わろうと言うのに、やっと二つ目の段ボールが終わるところであった。なるほど、他にも何人かバイトを呼ぶはずであったのも納得の作業量だ。
そして段ボール二つ開けて、ちょうど木箱の方はほぼ満杯になったところであった。区切りが良いので、木箱の方もそこでフタを打ち付けることにする。
「しかし……これ……」
そのやや横長の白い木箱は、火葬場ということもあってまるで棺桶のようであった。幸いにして棺桶というには小さすぎるので助かったが、これがもう二回りほど大きければどう見ても棺としか思えない形で………。
「あ………………」
余計なことに気づいてしまった。
僕は思わず呟く。
「……子供用か」
● ●
一つ目の棺桶を火葬したところで、昼休みをとることにした。
ちなみに言うまでもなく、人形達の棺桶を運ぶのも、棺桶を火葬場に入れるのも、火葬場の点火スイッチを押すのも全部僕がやらされた。まあ、それもバイト料込みということなのだろう。
「……そう言えば、刑務所の死刑執行のボタンは三つあるって話ホントかな」
装置を作動させるボタンは三つのうち一つのみだが、刑務官が三人同時にボタンを押すことで誰が実際に作動させたか分からないようにしているとか。
「死刑を執行したのは、自分じゃないかもしれない……その『かもしれない』可能性に救われるということか。人間そういうものなのかね……」
まあ、少なくとも本日の点火スイッチを入れたのは僕なわけだが。
その後味の悪さを抱えながら、昼食を食べることなった。せめて風通しの良いところでと思い、裏庭の片隅にあったベンチに腰掛け、家から持ってきたおにぎりをもちもちと齧る。
そう言えば、もう一つずっと気になっていることがあった。
このバイトのメンバーのことである。このままのペースでは、とても今日中にあのダンボール箱を片付けることなんか出来そうもない。いったい本来だったら、何人でするはずの作業だったのか。そして僕以外は全員来られなくなるなんて、そんな偶然本当にあるのだろうか。ひょっとして、他のの人はこの業務内容を知って来るのをやめたのではないだろうか……そんな事を考えていて、ふと気づく。
「……いや『僕以外は全員来なかった』ではないのか……」
結局のところ、僕はN先輩が来られなくなった代理である。
つまり本来の初期のメンバーは、誰一人来れていないのだ。
ゾクリ、と背筋に嫌な感覚が走った。
そんな偶然、あるのだろうか。
そう言えば、先輩はなぜ来られなくなったのか。理由を聞いていなかった事を思い出す。あの時先輩は、何か言葉を濁す風であった気がしたけれど……。
ちょうどそう思っていた時に、僕のスマホが震えた。表示を見ると、偶然にも例のN先輩からの着信であった。
『よう。無事にやってるか?』
偶然にもというより、どうやら紹介した責任もあり確認の電話をかけてきたようであった。意外とそういうところマメで信頼出来る先輩なのだ。
「……まあ、大変ですがなんとか……」
『やっぱ忙しいか。まあ、時給1万のバイトだもんなぁ』
やはり先輩は、ここの業務内容を知らないようであった。そう言えば先輩自身も、友人の友人から紹介されたと言っていた気がする。
そしてついで僕は、気になっていた事項を確認することにする。
「……ところで先輩。今日は先輩はなぜ来れなくなったんですか」
『……ん、ああ、それか』
僕がそれを聞いた途端に、先輩の声がトーンダウンしたのが分かった。
『……まあ、完全に身内の理由なんだけどな』
「はい」
『妹が手術を受けることになって入院中でな。それでこの週末は、あんまり病院から離れたくないんだよな』
「にゅ、入院中……それは……」
全く予想もしなかった理由に、僕は戸惑う。
しかもこの雰囲気は、結構重症なのではないだろうか。
「すみません。先輩の妹さんがご病気だったなんて、知らなくて」
『いや、知らなくて当然だ。妹は病気じゃなくて、最近ちょっと大きめの怪我をしてな。それで入院中なんだ』
「け、怪我ですか? それは大変でしたね」
『そうなんだよ。自転車に乗ってたら、赤信号なのに曲がり角で車が突っ込んで来たらしくてさ……少しでも励ましてやりたいんだよ……女の子なのに、本当に可哀想でな……手術で治ると良いけど……』
そして先輩は言った。
『でかいガラス片が刺さったらしくてさ』
『顔が真ん中から縦に、ぱっくり割れちまったんだよ』
そう言ったのだった。
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