第18話 カトラ地方の洪水3
グージィが街の局止めで受け取ったタッタ領主からの手紙には、「カトラ地方の洪水は国難であるため、解決の目処があり、その上で何か入り用であれば国からの支援が受けられるだろう。内々に済ませたければ、首都のこれこれの者宛てに指示を出すと良い」との旨が書かれていた。そこでシェルウは首都に宛て手紙を出した。
「一日だけ、あるいは午前か午後のどちらかだけでも、カトラ地方山間部の雨を晴らせて欲しい」と。
一人の祈祷師では無理でも、集団ならどうだろうか。特に、秘儀に通じる神官が複数であたる時、神の大きな影響力を降ろせる。
決行の日、山の一箇所に作られた小さな聖域に、竜によって神官たちと補助の者たちが集まった。寺院から三つ離れた山の頂で待機するシェルウは、光の神、風の神と、静寂の神々が顕現する奇跡を空に見た。
「では行ってくるよ。成功したのなら、この快晴が続くだろう。再び雨模様になれば失敗だ。キリ、その時は一人で戻って、各所へ報告してくれ」
「いつまでもお待ちしています。お気をつけて」
神々の濃い気配を感じながら、シェルウは寺院の手前に降りた。わらわらと湧いて出てきたしもべたちは、シェルウを認識するより前に、原始の神の祝福を忘れて倒れる。寺院内部の巨大な気配は身じろぎもしない。
主へ祈りを捧げ、シェルウは自分に目隠しを当てた。この際、寺院内にしもべや巫師が残っていようと些事だ。原始の神の影響を少しでも減らすことが優先される。キリとグージィを思い、協力してくれた人々を思う。シェルウははじめて死を恐れた。寺院の中にいるものは、主リエムメネムに並ぶほど強い。
シェルウは暗闇の中、杖を頼りに寺院を歩いた。何か柔らかいものを踏む。突き当たり、手探りで祭壇への扉を開いた。
原始の神の息遣いがする。
「リエムメネムの使いか」原始の神は、冥府のことばでシェルウの神の名を語った。
「原始の神、"混乱を司るフューズクラウド"にお帰り頂きたく参じた」
「我が名を知っている?」
「原始の神のことは、忘却の図書館の本に事細かに記されてあった。しかし今、わたしがあなたを知っているのはそれが故ではない。冥府生まれなもので。リエムメネムの二柱の姉も、その陪神についてもよく聞かされて育った。冥府の主の三姉妹が長女、偉大なる"狂気と衰弱の神"が陪神、泡頭のしもべたちをたずさえるフューズクラウド」
「…なるほど?神と対話を試みるだけの作法はあると。我が祝福を本格的に授ける前に、おまえの話を聞こう」
シェルウは心が泡立ち、自分が複数になることを感じる。元々、人の心は複数なのだ。強力な神は、それだけ強力な道理を持っている。亜神相手のような、威圧のことばもここでは意味をなさない。シェルウは、"ことば"と"道理"において神を退けることを試みた。
「冥神の愛でる美は"絶対"だ。そして人の世における絶対とは、死において他にない。あなたが曖昧に人の世を乱すこと、生きる人々に冥神の力を振るうことはタルクスの御心に沿わない」
祝福を授け、その信者を増やさずとも、多くの人々が自然と冥府へ導かれる。よって、タルクスはその美学において一切干渉しないことを選んだ、というのがシェルウの意見だ。
「それはおまえの見解だ。我と我が主の愛でる美はその過程、混沌にある。タルクスの"絶対"とは、やがて訪れる死が絶対なのだろう。地上に人外がいくら増えようとも、いずれは死ぬのだ。過程は関係あるまい」
タルクスのあり方については、フューズクラウドを放置している点で、それを良しとしているものとも取れる。
「いいや。こと地上においては地上に生きる者の法が正しい。ここは神の居座る場所ではない」相手の神格を認めた上で、帰ってくれということだ。暗に亜神や、位の低い陪神をほのめかしている。
「その地上の人間がわざわざ我を呼んだ。我はその働きに祝福を授けているだけだ」
「では今この場でお帰りいただくというわたしの意向も汲んではくれまいか」
「断る。混沌を駆るものであっても、神としての理はある。そして貴様にその理はない」
シェルウは冥府の主タルクスの法と、地上の法に照らしてフューズクラウドを責めたが、それは聞き入られなかった。体の分裂を感じる。忘却の祝福で堪えてはいるものの、シェルウの半分は人間である。高い格を持つ神に勝てるだろうか。そもそも戦うこと自体が、今ここでシェルウが語った法にもとる。ことばの力が自らに帰ってきては、元も子もない。
ここでシェルウは切り札を出した。
「ではフューズクラウドよ。外を見てみよ。あなたのもたらす混沌とやらを、地上の支持を得た神々が払った。人々が望み、神々もまたそう望まれたからだ。そして未だ留まり、あなたの制動を見守っておいでだ。まだ続けるつもりであれば、やがてあなたの主、"狂気と衰弱の神"にも累が及ぶ。それとも神々の戦いが、あなたの望む混沌だろうか?」
シェルウに神々の御心はわからない。空はすでに雲に覆われ、雨が降り始めているかも知れない。これは賭けである。
神々よ、まだそこに在わすのか。
しかし、混乱の神フューズクラウドは沈黙した。その目で空を見ているのだろうか。あるいはその主を巻き込む戦いを秤にかけているか。戦には戦の法があり、混沌とは言えない。これはシェルウの考えというよりは、むしろ願望であった。
「…なるほど、ここは帰る流れだと言いたいわけか。混乱を司るものとしてあえて拒否するのもいいが、安い動きは神格を損ねる。土着神虐めはつまらん。おまえの口車に乗ってやろう、リエムメネムの使徒。おまえの主によくいっておけ」
そう言って、混乱の神はシェルウの覆いを外し、目を開かせた。シェルウは混乱の神の姿を見てしまった。
混乱の神が失せると、シェルウの全身から汗が吹き出た。全力疾走したあとでも、これほど心臓が早く脈打ったことはない。異形化とその抵抗のため、体のあちこちから出血している。シェルウは主リエムメネムと、上空の神々へ感謝の祈りを捧げた。
祭壇の中央に黒く光を吸い込む依り代が落ちている。冥府の主タルクスの"とげ"、そのかけらだ。周りにフューズクラウドを呼び出した異形の巫師たちが息絶えていた。混乱の神に比べれば、まるで砂つぶのような小物だ。シェルウは"とげ"のかけらを布に包んでしまい、勝利を確信して気を失った。
その後の顛末としては、まずキリがシェルウを回収し、中継地へ避難した。それからグージィが神を降ろした神官へ、生き残った山の民の回収を指示したという。実力のある神官であれば、説明せずとも寺院で何が起こったのか察しはついたことだろう。
「神官の中にはパド司祭の弟子がいたそうです。おかげで、グージィでも話が通りやすかった」
「なるほど、今回はまさに根回しによる勝利だった。…わたしひとりでは到底敵う相手ではなかった。方々に感謝の手紙を書かなくてはならない」
シェルウが数日眠っている間に、増水した支川は落ち着きを取り戻したという。平野の水が引くにはもうしばらく時間がかかるだろう。その後は居着いた人外の駆り出しもある。人々はまた忙しくなる。
「それからキリ、きみの手配による情報がなければ…とにかくありがとう」
キリの顔には珍しく疲れの色が浮かんでいた。涙の跡も見て取れる。シェルウが目を覚まさない間に、彼女はどれだけの不安に駆られていたことだろう。
「…キリ、心配をかけてすまなかった」
「…はい。とにかく、今はゆっくりお休みになってください。あなた様は成し遂げたのですから」
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