第5話 忘却の神の祝福
「わたしに対して畏まった物言いは不要です。改めて、"地上の案内"を努めさせていただきます」
もしシェルウが闇の陪神バルベターチェコリとの取引で支払いを渋ったのなら、相応のものをよこしたのだろう。地図であるとか、なにか導きの呪文だけであったかもしれない。確かにシェルウは闇の陪神にとって、差し出したものに応じたものを受け取っていたのだ。
「やはりシェルウ様は良い取引をしたと思いますよ。例えば、あなた様が竜を留める場所を探して街の上を飛んだとしましょう。それだけで、衛兵の銃口が向けられる理由になります。竜の預かり場は街のはずれにあります」
地上には地上の法がある。よそ者が法を知らずに踏み荒らすようなことは避けなければならないし、それをたった今思い知らされた。シェルウにとって地上の案内人は必要不可欠だ。
「わたしは森での暮らしより街に出る方が好きです。チェコリ様は取引の際、シェルウ様が地上に明るくないことを加味しておられたのです」
「なるほど、全くその通りだ。バルベターチェコリに改めて感謝しなければならない。それから、わたしの考えの至らなさできみを怒らせてすまなかった。キリ、改めてよろしく頼むよ」「ええ。何なりとお任せください」
シェルウとキリは竜に乗って、南方にある街を目指している。彼らの現在地は、人の地図では北の果ての未開地にあたる。
「日が傾いてきました。あの山を越えればいくらか人里も見えるはずです。そこで宿を探しましょう」
「いや。あそこの廃墟に降りてくれ」
「竜は夜は飛べません。彼らにも彼らの戒律があるのです。野営となれば、獣や亡者に襲われる危険がございます」
「その亡者に用があるんだ。獣には、わたしから離れる時だけ注意してくれればいい」
この地方では、近年の戦争によって大きな被害が出たという。流通が滞り、獣や賊の襲撃を受けた集落もある。そのうちのひとつの跡地へ降りた。
人がその家族を失ったとき、裏切られたとき、あまりにも激しい恨み悲しみに飲み込まれると、他の正しいことまで塗りつぶされてしまう。死後にその主へ向かう道、また主を持たないものが自然と向かう冥府への道さえ塞がれ、地上を彷徨う霊となる。
シェルウは忘却の神リエムメネムに仕える者の務めとして、人々の無念を回収しなければならない。忘却の祝福を与え、恨みを忘れさせる。そして彼らがあるべき場所へ向かう手助けをする。望めば冥府へと送る。冥府の荒野で迷わないよう、進み方を教えたうえで。
日が落ちると、人のかたちを辛うじて保った異形の者たちが這い寄ってきた。亡者である。生前にいずれの神にも祝福を得られず、また死後にも祝福を得られなかったものの成れの果て。神から堕ちた亜神やさまざまな悪しきものたちの影響によって異形となった、生きた者たちを傷つけ食らう人外である。しかしシェルウは霊と同様に、彼らが受けた悪しき影響をたやすく取り除き、自然のありかたに帰していった。
その晩シェルウは四十一体の亡者を弔った。これがもし都市の近くであれば、高位の神官を含む中隊規模の兵による狩り出しが必要な数だという。しかし兵士が当たれば激しい戦いになる大型の亡者でも、シェルウにとっては関係がない。ただ彼らの話を聞き、その記憶を預かるだけでよい。戦いは同じ格でしか生じない。それこそ亜神格でもない限り、シェルウが直に戦うということはないだろう。
埋葬に際してキリが尋ねた。「シェルウ様。彼らの装飾品は剥ぎ取ってよろしいですか?路銀の足しになります」
こういった抜け目のなさは、冥府育ちのシェルウが全く持ち合わせていないものだった。シェルウは、金銭というものをよく分かっており、実際に扱うことができるキリに任せた。
「彼らがこれからどこへ行くにせよ、そこへは持っていけないものだから」
「ここからさらに南のムレーネという街に、万神殿がございます。死や闇を司る神々は、離れのあばら家に祀られておりますが」
冥府の"とげ"を盗んだ男と、遺灰の返却について、まずは情報を集めなければならない。
「他にもひとつ大事な用事がございますよ」キリは得意げに言った。
「何だろう。我が地上の師よ、ご教授いただけないだろうか」
「身分証明です。身の証を立てるということは街で暮らす上では必須です。本来なら家族やら仕事の証明やら色々と手続きが要りますが、シェルウ様の場合は高位の神官に取り次いでもらえばすぐでしょうね」
シェルウにはその重要性が今ひとつわからなかったが、キリにとっては非常に喜ばしいことのようだった。
旅路を共にする以上、シェルウの禁忌についてはキリにも共有しておかなければならない。「敵を作るな」という禁忌を破れば、シェルウは命を落とす可能性がある。
「ムレーネはこの地方における流通の要所で、物も人もたくさんあります。人種、職業、信仰も様々です。当然スリや詐欺師、暴漢のような輩もいます」
「シェルウ様にお尋ねします。道端でスリがシェルウ様の財布を奪ったとしましょう。あなた様はスリを追いかけたとします。そこで焦ったスリはとっさにナイフを取り出し、あなた様へ切り掛かってきた。飢えた獣と同じ様に、スリも即座に命を落とす」
「この場合、"敵を作るな"というシェルウ様の禁忌に触れるのでしょうか?」
「ああ、まず咎められるだろう。追いかけることが争いのきっかけになっている。それに金銭を理由に発生した争いでは、我が主のご理解は得られない」
人と神は異なる価値観を持つ。人にとって貴重な金品は神々の捧げ物として選ばれがちであるが、それを好むか否かはその神による。リエムメネムは無用な争いの種となる金銭を嫌っている節さえ感じられる。その戒律でも過剰な金銭のやりとりや所有、贈与が諌められているのだ。
「であれば、シェルウ様のお財布はわたしがお預かりした方がよろしいかと思います。失礼ながら、はっきり申し上げますと、シェルウ様は隙だらけですので、輩にとってはいいカモですから」
「なるほど…わかった。そうしよう」彼女の話には一切反論の余地がなかった。キリは微笑んで言った。
「街という場所には、獣より愚かで、獣より狡猾な者たちが大勢います」
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