第一話 時枝屋
「海堂様は、かたぶつの槍の名人だと思っていましたが、話をしてみるとお優しくて、のんびりしていらっしゃる」
小柄な飴売りの七五郎が大通りを歩きながらふと言った。海堂はすっかり浪人風に衣装、髪形を変え、のんびりと歩いていた。
「はは、そうかもしれない。槍の鍛錬は欠かさぬが、酒も遊びもやらないし、静かに書物を読んだりするのは好きだなあ。友人や同僚からはのんびりしすぎだとよく言われる」
海堂は怒るわけでもなく、くったくなく笑った。七五郎が今まで接してきた侍とは明らかになにかが違う。
「そういえば、釣りが好きだとおっしゃっていましたね」
「よく覚えておったのう。何も考えずに水面を眺めているのが好きでのう。江戸でもよい釣り場があればそのうち教えてほしいものじゃ」
「江戸はすぐそばに大川や干潟が広がり、張り巡らされた水路のあちこちに釣りの穴場がありますよ。そのうちお連れする機会もあるでしょう」
七五郎は家康が伊賀越えの際、伊賀から連れてきて、半蔵門のそばに住みついた伊賀衆のひとりであった。老中との連絡役であり、これから浪人になり済ます海堂新衛門の世話係であった。
「はい、そこの角を曲がると地図宿はすぐですよ」
二人は大通りから一本路地を入り、時枝屋という旅館へとはいって行った。中に入るとすぐ目についたのが、江戸の市中の大きな絵地図であった。ここが地図宿と呼ばれているのはこういうことらしい。
「いらっしゃいませ。まあ、七五郎さん、お久しぶり。あら後ろの方は?」
出迎えたのは、世話好きなお浪であった。器量よしで力持ち、いつでも明るいと評判の女中であった。海堂と同い年ぐらいか? 瞳が大きく、目元は愛らしいが、でもちょっと気合いがはいっていて怖そうでもある。
「やあ、お浪さん、今日はこの宿のお客様をお連れしたのさ」
「海堂新衛門と申す。いろいろ訳あって、ここでしばらく世話になり申す」
海堂はその大きな体を小さく丸めて、親しげに挨拶をした。でもそう話している間にもお浪は無駄のない動きで荷物を受け取り、そのまま座らせ、桶の水で海堂の足を拭き終わっていた。まあ、その仕事の手際のよいこと、早いこと! なかなかの女だ。だが海堂に触れ合った時、お浪はささやいた。
「あら、いい体してるわねえ」
お浪はその大きな瞳で海堂の胸元や太い腕をチラ、チラと見る。
「…、ちょっとお浪さん、時枝屋さんをお願いします」
「あら、失礼しました。はあい、旦那様―」
とにかく明るく世話好きのお浪は、さっそく奥へと駆けてゆく。
すぐ頭の切れそうな初老の男がやってくる、七五郎がさっと目で合図すると、それだけで主人はすべてを察したようで、
「海堂様ですね、お待ちしておりました。さあ、どうぞ」
「では、わたしめはここまで。明日の朝、また迎えに参ります」
飴売りの七五郎はさっと姿を消して行く。
「そのうちよい物件があれば、私どもで長屋などをお世話しますが、落ち着くまではこの宿屋でお過ごしください。宿賃はその関係からいただいておりますので、ご心配なく」
そして、時枝屋の主人は、二人の下女を呼んだ。この旅館で働いている十数人のうち、特に海堂のことを中心にやってくれるものだという。先ほどのお浪と若いお絹であった。
「飯炊き女のお浪は、朝夕のお食事のご用意をいたします。お絹はお出かけの間にお部屋の掃除や、洗濯物などを引き受けます」
「よろしくお願い申す」
お浪は笑いながら答えた。
「あら、お侍に頭下げられるなんて初めてだよ。あんたいい人だねえ。あたしは高級料亭から呉服屋、医者様の助手、居酒屋まであっちこっちの仕事を手伝いに行って、たいていのことはできますよ。なんでも言っておくれよ」
まだ若く、かわいらしい感じのお絹も海堂が優しそうなので安心したようだった。
「あまりお会いできませんが、夕方からは近くの朱雀の湯で働いております。お気が向いたら、足をお運びください」
なんでも、わけありのようで、お絹はここで世話になって旅館や風呂屋の手伝いもしているが、本業は歌舞妓(うたまいこ)なのだという。まだ海堂にはよくわからなかった。下女の二人が去ると、海堂は早速主人に訊いた。
「御主人、江戸の絵地図がありましたが…」
「ああ、そうですな。では、こちらへどうぞ」
主人に案内されて、入り口のすぐ奥の部屋に行く。旅館とは言いながら、どうも旅館以外の作業部屋のようなものがいくつもある。行った部屋には大きな棚があり、いろいろな地図が整理してある。
「こちらが一般用の主な通りや町名の地図。こちらが大名屋敷の関係に売っている見附、各大名屋敷や寺社、奉行所などの地図、こちらが商人用の市場や問屋などの地図、こちらが食べ歩き地図…ほかにもいろいろあります。どれも版木で彫ってあり、時々更新しては増し刷りをしております」
地図を見るときの時枝屋の顔は、まるでかわいい孫を見るようで目元も下がり、別人のようだ。地図にかける愛情は尋常ではないようだ。
「やなに、ここ江戸では旅のものは当然多いし、全国あちこちから商人、僧侶や芸人、参勤交代のおかげで各地からの武士も来るし、浪人者も多い。新しく江戸に来た者も多く、こういう地図が高い値で売れるんです。実はうちは地図や江戸のいろいろな情報を売り買いしていてな、そちらの収入のほうが旅館より多いのですよ。まあ、あまりくわしい地図を出すと、江戸の防衛にさし障ると幕府からお咎めがくるんでな、千代田城やその周囲は一般の地図には載せないなど、気は使っております。一応お上の許可はとってあるのでご安心を。海堂殿がうちの旅館に来たのも、まあ、そういう関係ですな」
そういうと主人は、一枚の地図を選んで海堂に渡した。
「辻相撲は三日後までありません。海堂殿も、江戸は初めてでしたのう。明日はこの地図を持って七五郎殿とまわってくるといい」
それは「時枝屋、江戸名所めぐり地図」と会った。
「ありがとうございます」
「この地図の順番で歩くと、地図には載っていない大事な場所も一緒に見て回れるというものです」
海堂はこの日は早めに旅館の湯に入り、明日に備えることにした。お浪さんに声をかけると、今ちょうど順番があいているという。
「うちの風呂は新しくいれた鉄砲風呂だから、沸かしたお湯をいれたのと違って、どんどん薪をくべるから、体が冷えないよ」
「へえ江戸ではそんな風呂があるんですねえ」
風呂でしっかり汚れと疲れを落とし、いよいよ夕飯だ。
「はあい、江戸名物の銀シャリですよ。私の漬けたヌカ漬けもおいしいよ」
「ほう、これが名物の銀シャリのご飯か?」
この時代、まだ食事は朝・夕の二回だけ、しかも地方出身の者たちは食べ慣れない、精米した銀シャリと呼ばれる白飯であった。それに味噌汁と焼き魚、漬物で、山のように盛られた銀シャリがまぶしかった。初めて食べた銀シャリのおいしいことおいしいこと。
「う、うまい。しかもこの漬物も食べたことのないおいしさだ」
精米する過程で出てくるヌカを使ったぬか漬けも、地方出身者にはまだ珍しかった。
ニコニコ笑いながら、お浪はどんどんおかわりをくれた。
「ふう、食った食った。いやあ、うまかった。ありがとう」
江戸の銀シャリのおいしさは初体験、海堂は食べ終わると早々に床に就いたのだった。
次の日は、朝から七五郎と江戸の街に出た。
寛永十七年、三代将軍家光が参勤交代を始めてから五年ほど経っていた。このころは明暦の大火の前で、いわゆる江戸文化はまだまだ育っていなかった。豪放磊落な戦国時代の気風と、京都、大阪に追いつけ追い越せという新しい気迫に満ちていた。
海堂と七五郎は名所巡り地図に従って、日本橋に出て、それから大通りを歩いて行った。
「いや、見事なものだ、賑わいもさることながら、建物の大きさといい、街並みといい…」
呉服屋から乾物屋、八百屋に和菓子屋など、どこも大賑わいだ。町人に交じって武士や浪人風も大勢行き来している。
水戸から出てきた海堂が驚いたのは商店の賑わいだけではなかった。その白壁の建物がどこまでも続いて行く調和のとれた街並みだった。のちには防火のため、火に強い黒壁が一般的になるが、このころは青空の下、白壁の街がまぶしかった。そしてその街並みの向こうには、江戸城本丸の堂々とした五重の天守閣がそびえている。だが、高い建物はそれだけではなかった。
「あれ? 驚いたなあ、まるで街の中に天守閣があるみたいだ。すごいねえ、江戸は」
そうなのだ、街のあちこちには、大きな三階建ての木造建築がある。
「三階櫓(さんかいやぐら)といって、最初は見張り台の役目もあったのですが、最近はあちこちでそれを真似て、富裕な商人などが、見通しの良い角地などに競って建てているのです。中には四階、五階のものもあって、江戸の名物にもなっているんです。ほら、あちらを!」
指差した先には、ひときわ瀟洒な造りの五階建ての建物がそびえていた。そこは『百瀬』という料亭で、見通しのいい五階は宴会場になっているのだという。大きな白壁のあちこちに飾り屋根や家紋などが入り、圧倒される迫力だった。近くに行って見上げる海堂。だがその時、五階の手すりにつかまって街を見下ろす、一人の女と目があった。今江戸で流行っているという、大柄で鮮やかな着物は遠目にもはっきりと目に飛び込んでくる。花菖蒲の柄が季節柄目に涼しい。そのまま長く垂らしただけの長い髪がほのかに風にそよいでいた。女は海堂を一瞬見つめると、静かにほほ笑み、やがて奥へと消えていった。
「…女歌舞伎のお浜ですね…。いい女でしょ」
海堂は首をかしげた。
「女歌舞伎は、遊女たちのいかがわしい踊りが原因で、十年ほど前に禁止になったはずだが…」
「…のはずでしたがね、人気は収まらず、もちろんおおっぴらにはやってはいません。でも、手を変え品を変え、非合法にあちこちで行われているのです。お客がいるのだからしょうがないんです。名前を変え、場所を変え、すぐにどこからか湧いて出てくる感じですね。でも、お浜の女歌舞伎は真面目で評判はいいらしいんですよ」
そして名所巡り地図では、この後、外堀の近くにある大名屋敷が純路となっている。大名屋敷のほうは確かに道幅も広く、大きな屋敷ばかりで、広さも町人の街の五倍ほどある。でも、なんで大名屋敷が江戸の名所なのか、海堂にはピンとこなかった。でも大名屋敷の通りに入っていくと、海堂のような観光目当てだと思われる物見遊山の人々が歩いている。
「…今から五年ほど前に、参勤交代が制度化されました。そして建前では将軍の家光様が年に一度大名屋敷を訪れることになっている。その時将軍様が入る御成門を別に作ることになったわけです。御成門は、日光東照宮のような派手な彫り物や色で飾られて、大名ごとに競っているのです。地方から出てきたものたちはみんな驚きますよ」
なんでも、正面から眺めたり門に近づきすぎることは失礼なことなので、斜め前からそっと仰ぎ見るというのが礼儀らしい。
「いやあ、それぞれの大名ごとに趣向をこらして見事なものだ」
木彫りや漆喰が鮮やかなもの、銘木を使ったという柱や鬼瓦、仁王像を設置したものなどさまざまだった。まさしく幕府は力で大名たちを押さえつけることに成功している。御成門が華やかなほど、それが伝わってくるようだった。
もちろん天守閣のような三階櫓も江戸の大名屋敷の御成門も、大火などでやがて消えてゆく…。大名広路を抜けて今度は寺社をいくつか回る。寺社は大きな土地を持ち、問題の辻相撲も、よくこのあたりで行われるらしい。
大木が茂り、脇に清らかな水路のある神社を通った時、七五郎が行った。
「明後日に迫った辻相撲は、ここでやります」
海堂は慎重に歩いて見て回った。まだ何も用意されていないが、明後日はどうなっていることだろう。
そして、いくつかの神社を回った後で共通の人物が祀られていることを知り、海堂は疑問に思った。
「乱を起こし、たたりがあると恐れられる平将門をいくつもの神社で祀っているんですね。おかしくありませんか?」
「この土地の強い地霊を使って魔を寄せつけない、天海大僧正の風水の考えです」
「なるほど…。強力なもので魔を寄せつけないわけか…」
そしてそのあと、二人は一度船に乗って水路をゆっくり行くことにした。
「この辺もよく釣れると評判なんです。名所巡り地図にはないけれど、お約束を果たさないとね」
岸辺の柳がゆれる静かな水路を船は船頭の竿一本で滑るように進んでいく。張り巡らされた水路の多さに感心する海堂、そして約束通り、あちこちの釣りの穴場を教えてもらい、御満悦だった。
「おや、向こうの神社の境内に人だかりがあるぞ。縁日でもなさそうだし、いったい何だい?」
「ああ、河原者のやっている見世物小屋ですよ。今日は動物の曲芸とシナ人の皿回しらしいですよ。さらに言うと能・狂言や若衆歌舞伎は、ますます大人気でもっと大きな会場や町中の芝居小屋でやっています」
そして、街の中の船着き場で上陸だ。
「あちらへしばらく行くと、青果市場、ここは屋台通りと呼ばれています。今もいくつか出てますが、夕方になると、そばややおでん屋、おかゆ屋、まんじゅう屋、飲み屋、今の季節なら初ガツオをからしで食べさせてくれる店まで、いろいろな屋台がずらっと並びますよ」
「そうだよな。おれみたいに一人身で江戸に来ている者も多そうだしなあ」
実にいい匂いがしてくる。七五郎は遠慮したが、海堂は試しにソバ屋によってみる。
「おやじ、一杯くれ」
「へい、おまち!」
このころのそばは小麦粉が混ぜられていないので、切れやすかったので、太い平麺をせいろで蒸して出したのだ。そば汁ではなく塩をふりかけて食べるおつなものだった。
「う、うまい。たまらんなあ」
そして二人は屋台通りは通り過ぎ、いよいよ核心部へと迫っていく。
「おや、こっちは長屋ばかりかと思うと、いくつも同じような看板が並んでいる…」
「手習い通りですよ。急激に増えた浪人が、生きていくために江戸のそこらじゅうに手習い塾を開いているんです。ここは特に有名な塾が集まっているんですよ。習字、算盤、漢文、絵や生け花などがありますよ。でも浪人が多すぎて、生徒の取り合いをしている有様ですね、この辺は。まあ教えたがっている浪人が数え切れないから、このままだと江戸から読み書きのできない人は、いなくなりそうですね」
手習い通りも通り過ぎ、ちょっと街の様子も変わってきた。竹刀や木刀を持った若い男たちがどかどかと歩いている。どこからか気合いのはいった大声が聞こえてくる。
「ここを町人たちは、剣法横丁って言ってますよ。浪人たちが始めた町道場がいくつもあります。腕自慢の浪人たちがたくさん集まってきてます。特に辰巳道場は門下生だけでも数百人いる大きな町道場で、この辺から、隣の飲み屋街にかけてが、一番事件の多いところです」
「事件が多い?」
「噂に聞いたこともあるでしょう。歌舞伎者と呼ばれる、派手な衣装の無頼者がよく出没するのがこのあたりです。歌舞伎者の中には立派なサムライもいるのですが、このあたりをうろつく大半は血の気の多いやつらばかりですよ。まあ、槍の名手の海堂様なら問題ないとは思いますが、ここは初めて、しばらくは私に従ってください」
「こころえた」
やがて一番大きいという辰巳道場に近づいてきた。
暑いのか戸が大きく開いていて、練習の様子がよく見える。木刀を使ったかなり実践的な立ち合いが行われていた。道場の奥ではいかめしい顔をした浪人らしき男たちがそれをじっと見ている。しばらく中をのぞいていると、後ろから誰かが声をかけてきた。
「どなたかな、門下生希望か、それとも浪士砦の希望か?」
振り返ると、師範代の桑原という浪人がそこにいた。
「いやあ、水戸から訳あって出てきたばかりなので、江戸を物見遊山で見て回っているだけで…」
「本当か、その鍛え方は長槍じゃな。まあよい、何かあったら力になるぞ。では」
離れながら海堂は小声で七五郎に訊いた。
「浪士砦とはいったいなんだ?」
「辰巳道場に出入りしているたくさんの浪人が作った無頼の集団ですよ。近く行われる辻相撲にも関係してます」
「辻相撲にも?」
そこで道場から離れて角を曲がろうとした時、それは起こった。
「いててて、てめえ何をしやがるんだ」
出会いがしらに大柄の男がぶつかってきたのだ。
「当たり屋です。関わるとろくなことが起きないので、無視してください」
二人は視線を合わせないようにして、速足で歩きだした。だが横から、さっと二人の男が飛び出してきて、道をふさいだ。一人は銀色の髪に鋭い目つきの銀蔵、もう一人は奇抜で派手な衣装の鋼丸だった。でも、これが歌舞伎者というのだろうか? 特に鋼丸は目にも鮮やかな波しぶきの柄の着物や真っ赤な下駄、鷹の羽で作った不思議な羽飾りで着飾っている。
「天下の往来で人にぶつかっておきながら、しゃあしゃあと知らぬふりして逃げ出すたあ、いい度胸だ。お天とさまが見逃したって、この鋼丸様は許さねえ。少しでも良心ってものがあるなら、さっさと金を出しやがれ」
なんとも大げさな若者だ。後ろからあのどでかい男、岩鉄も追い付いてくる。海堂がすばやくささやいた。
「どうする、七五郎?」
さすがの海堂も、さっと身構え万が一に備えた。
「海堂様は、手を出さないでください。ちょっと懲らしめてやります」
その時、派手な飴売りの恰好をした七五郎の左右の袖の中から、チャチャと金属の擦れるような音がした。手裏剣か? 七五郎は伊賀者、本気を出したらどうなるのかわからない。だがその時もう一人の人影が近づいてきた。
「こら、鋼丸、いったい何をしているのだ」
すると鋼丸は焦って浮足立った。
「なんでこんなところに…! 陣内さまが来たんじゃしょうがねえ。おい、銀蔵、岩鉄、引き上げるぞ」
三人の歌舞伎者はさっと逃げ出した。陣内という中年の武士が、海堂たちに頭を下げる。
「これは大変失礼しました。あの鋼丸とは、以前、改易された同じ殿につかえていました間柄で…」
陣内は、お詫びにお茶でもと二人を誘った。浪人の中にもこんな立派な人がいるんだなと、海堂も興味を持ってついて行った。陣内は大店の呉服屋に二人を連れて入って行った。若い番頭がさっそく声をかける。
「あれ、陣内先生、今日もお早いですね。ちょうどよかった、帳簿のことで御相談が…」
「はいはい、すぐ見させていただきます。今、お客をお連れしたのでお茶をお願いいたします」
「はい、すぐにまいります」
二人は店の脇の小部屋に通された。この男、陣内はこの店で何をやっているのだろう? 海堂は江戸が初めての浪人に徹し、七五郎は偶然知りあった飴売りと言うことですっかりおとなしくしていた。
「わたしは以前城内で勤めていた仕事を生かし、仕法(しほう)という仕事に就いております。江戸はまだ新しい街で、初めて商売を始めた者や、どんどん店を大きくするもの、中には読み書きそろばんの得意でないものも多いのです。それを代わりに引き受けたり、教えたりするのが仕事でね」
仕法というのは現在で言う経営コンサルタントである。藤田陣内は、もともと読み書きそろばん、財政問題に堪能で、江戸に出てからは、江戸の商売のことも勉強し、今は三つの商店を掛け持ちで面倒を見ているそうだ。仕法家のなかでも力のある者は小さな藩や旗本等をいくつもかけもち、豊かな暮らしをしている者もいるという。
「え、海堂殿は時枝屋さんにいらっしゃる? それは奇遇だ。江戸の裏の情報をいろいろ教えてくれたのは、あの御主人ですよ。ハハハ…。あ、ちょっと待ってください」
陣内は持ち込まれた帳簿をさっと見て、わかりやすく番頭に説明した。
「ありがとうございました。よくわかりました」
専門知識もすごいし、教え方も丁寧だ。陣内はなかなかの男らしい。
「陣内殿、私も訳あって水戸から出てきたばかりで、江戸の事は初めてのことばかりなのですが、浪人という身分は、ここでどのように暮らしているのですか…?」
「海堂殿も訳ありですな。ご安心ください、ここ江戸では、浪人となれば過去を詳しく聞かないことになっております。そうですねえ、浪人が日々の糧としているのは、一つは自分の技能を人に教えること、道場の師範や手習い塾、これが一番多いですかね。次に多いのが用心棒、領地が入り組んでいて争いが多い農村や、大店で雇っているところも多いですね。腕に覚えのある者がけっこう出かけていっています。後は医術や芸術などの技能を生かしている者もいます。でも先ほどのような決まった職もなく、街をうろつく不届きな輩もいて、皆様にご迷惑をかけているのも事実です」
陣内は浪人の評判を落とすことのないように、浪人仲間と協力し、あちこちを走り回っているのだという。
だが、それを他人事のように落ち着いて聞いてくる海堂に、藤田陣内は、違和感を感じていた。しかもあの時、この飴売りの男も少しもおびえず、臨戦体制であった。この飴売りは只者ではない。もしかするとこの男…。
「海堂殿も、鍛えられたよい体をしている。いろいろ理由はおありでしょうが、困ったことがあれば、いつでもこの陣内に言ってください。なあに、時枝屋の主人にお聞きになれば、いつでも所在が分かりますよ」
どうもあの主人は、なかなかの大物らしい。海堂は、真面目に頑張っている浪人も多いことを学び、引き上げることにした。帰り道、七五郎がふと面白いことを言い出した。
「…先ほど歌舞伎者に囲まれたとき、正直言って驚きました。のんびりゆったりしていた海堂様が、瞬間で切り替わった。敵をまったくおそれず、向かっていく気迫がみなぎっていました。思い出したのは海堂様が好きだという釣りですね。静かな水面をゆっくり眺めて、いざという時は、あわてず素早く竿を合わせる…。なかなかの胆力の持ち主なんですね」
「ほめてもなにも出んぞ。ハハハ…」
「では、明後日辻相撲がありますので、またその朝に参ります。明日はごゆっくりお過ごしください」
七五郎はそう言って、姿を消した。
明るいうちに時枝屋に着くと、お浪がニコニコして出迎えた。
「あら、ちょうどよかった。今お風呂の湯が沸いたところですよ。まだ入る人もいないし、いかがですか」
「ああ、ありがたい。さっそくいたくよ。」
「なんなら私がお背中をお流ししましょうか?」
海堂はちょっと照れて遠慮して、一人で一番風呂に入らせてもらった。
風呂からでて部屋に行く。部屋はすっかり隅々まで掃除され、洗い物がきちんとたたまれて置いてあった。
「こっちはお絹さんかな。ありがとう」
海堂は心の中で礼を言い、文机に向き直ると今日の報告書をしたため始めた…。
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