辻相撲天の助

セイン葉山

プロローグ 千代田城の茶会

 江戸、寛永十七年…家康が幕府を開いてから三十七年、大阪夏の陣で豊臣家が滅びてから三十五年が過ぎ、幕府はその支配体制をいよいよ強め、新しい江戸の町は大きく繁栄し、幕府は強力な武断政治で諸国を押さえていた。

 江戸の千代田城(当時の江戸城)…。

 その日、江戸の鬼門を守る上野の寛永寺から大きな黒い籠がついた。大手門から籠のまま入ると、天守閣の方向ではなく、二の丸の庭園へと向きを変える。大きな石垣と高い櫓を横に見ながら新緑の萌える広い場内を籠はゆっくり進んで行った。千代田城では、去年の焼失事件の後、さらにひと回り大きくなった五重の天守閣が威容を誇っていた。石垣をいれると高さは六十メートル近くあり、その上には金の鯱鉾が輝いている。

「ほう、今度修復された天守閣は確実にあの秀吉の大阪城より大きいわい。長生きはするものじゃな」

 籠から降りたその男は天守閣を見上げて目を細めた。

「天海様、こちらへ。如庵で老中さまがお待ちでございます」

「ほう、千代田城に如庵を再現したとは聞いていたが、こりゃあ、楽しみじゃわい」

 如案(じょあん)というのは、もとは京都にある有名な茶室である。設計した織田信長の弟、織田有楽斉のクリスチャンネームにちなんでこの名前をつけたという。文化の面でも、京都、大阪に負けまいと、今の将軍家光は、肝入りで最高の庭園と茶室を作った。織田有楽斉が京都に作った有名な茶室の写しを、この千代田城の二の丸の庭園に再現したものなのだ。

「こちらでございます」

「おお、如庵そのものじゃ。だがまわりの庭園はまったく違う。しかも素晴らしい! 家光様の心意気か…」

 この千代田城には、万一を考えて湧水の井戸がいくつか掘られている。そこから湧き出るせせらぎが、新緑の庭園で静かに水音を立てている。小さな石の橋を渡ると、そこはもう別世界、如庵は木陰に佇んでいた。

「大僧正殿、お待ち申しておりました」

「おやおや、松平様ではないか? 今日は老中様直々に御亭主をお勤めなさるか。これは、これは…」

 ほの暗い庵に、有楽窓と呼ばれる篠竹を使った窓から薄日が差す。

 古い暦を使った暦張りまですべてそのままの落ち着いた佇まいである。


「…実は今日は、天守閣の修復も済んでひと段落ついたところで、街の様子や問題などがあれば識者に話を伺おうと思いましてな…。非公式に茶室を用意したので、ざっくばらんに思ったところをお話し願えればと…」

 武家にふさわしいとこの日のために用意された織部の高名な茶碗が趣をそえる。

 二畳半の庵は静寂に包まれていた。

「しかし、今更ながら、大僧正殿はお若い。いくつになられる」

 茶を勧めながら、亭主の老中が訊く。

「…ふふ、今年で百五じゃ」

「なにか秘訣でもおありか…?」

「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ。と家光様にはご進言したがな。だが、それは表向きのこと、わしはまだなすべきことをやり遂げておらん。まだまだ死ぬわけにもいくまい」

 天海は緑茶を飲みほし、少し険しい顔をした。

「ははは、大僧正殿は、十二分にやり遂げたと、だれもが思っていますよ」

「この江戸に家康公を呼んだのはわしじゃ。東に青竜の隅田川、西に白虎の東海道、南に朱雀の江戸湾、そして玄武として富士山を仰ぐこの土地がよいとな。当初は江戸城も平屋で小さく、日比谷の入り江が城のすぐそばまでくい込み、湿地帯が広がっていた小さな佇まいであった。活気があったのは、品川湊の海運だけじゃったな。そこからやれそれ五十年もこの江戸の街づくりに関わっておる。水路の整備や埋め立て工事、そして周囲四里にも及ぶわが国最大の江戸城の大工事もやっとひと段落、鬼門と裏鬼門を寛永寺と増上寺で固め、各街道の入口を平将門公を祀った神社で守り、今はあの天守閣の修復も終わった。だが…」

「まだ何か、ご心配事がおありですか?」

「だが、わしにはわかる。いまだ関東の地霊は静まらず、江戸の街は迷走しておる。わしの耳にも、無頼の者が暴れただの、盗賊まがいの者の噂が入ってくる。江戸はどうなっておるのか? 民衆の心は穏やかではない。つい先日も江戸の平和の祈祷を行い、密教の占いを行ったのだが、天地人のうち、人に火種アリと出た。このままでは死んでも死にきれん。もうひと頑張りのご奉公をせねばならぬ」

「…人に火種あり…やはり大僧正殿も、この不安がぬぐい去れない江戸の様子を危惧して居ったか…今日はその大僧正のお悩みに、一筋の明かりをさせるかもしれない…」

 老中の松平智成はそう言って、外の側用人に何かを合図した。そして、この小さな庵の突きあげの天窓を開けて、光を通した。幽玄な空間は一度に明るい解放的な佇まいへと顔を変える。そしてそこに。もう一人の客を招き入れた。

「張孔先生、こちらに…」

 明るくなった庵に学者風の静かな男が入ってきた。

「おうおう、今、巷で噂の軍学・兵学の先生ですな」

「張孔先生も、今の江戸の町に危機が迫っていると言う。ぜひ、お話願えるかな」

 張孔先生と呼ばれたその学者は、お茶をいただくと、さっそく話し始めた。先頃の鎖国政策の周囲に及ぼす影響からキリシタン禁止令が出た時の外国の反応、終わったばかりの天草・島原の乱のその後、そして各地の外様大名の動向まで、明確に語った。

「…、そして江戸城の大普請工事や参勤交代で、幕府の反対勢力だった外様大名も弱体化し、宗教勢力も反対勢力も今は静まったとみてよいでしょう。ただ、結果として歴代の将軍も、天海様も予想していなかった、この江戸を揺るがす、別の大きな問題が生じてしまったのです」

「ほう、それは興味深い。ぜひくわしく訊きたいものですな」

「天海殿、あなたの風水による江戸の防衛計画は完璧だった。だがそれを揺るがすのは、身中の蟲、まさかの浪人問題です。武断政治による浪人や不満分子の予想外の増加です。ついこの間の天草・島原の乱も、重税に苦しむ農民が中心になって起こした大規模なものでしたが、その主戦力は浪人たちでした。そしてそれを抑えた幕府軍十二万のうちにも、どれだけの浪人が合流していたことか。小田原勢の残党や、夏の陣で滅びた豊臣方についていた者たち、そして度重なる改易によってとりつぶされた外様大名についていた者たち、それらが全国でざっと見積もっても五十万人はいると思われ、しかもその多くが発展途上の江戸に流れ込んできているのです。ご存じのとおり、この江戸も、当初は武士が一般の街に住むには厳しい規制があり、力で抑え込んできました。だが、最近浪人の数があまりに増えすぎたため、手続きが間に合わず、規制をゆるめたわけです。それが浪人の流入に一層の拍車をかけてしまった。今、江戸にどのような浪人がどのくらいいるのかつかめなくなってきている。喰いつめた浪人の中には、無頼の者、盗賊まがいの者まで現れ、江戸に大きな不安をもたらしております。早く手を打たねば、江戸は治安が乱れ、不安があふれ、内側から弱体化する。そして、内部が弱体化すれば…」

「風水で押さえていたものも暴れだす…? と、おっしゃりたいのですな」

「…」

 天海も、張孔先生もしばらく黙ってしまった。少しして、天海が落ち着いた顔で老中に語った。

「浪人がそこまで増えていたとは知らなんだ。いま心にすとんと落ちました。天地人の人に火種ありとはまさにそれに違いありませぬ」

「お二人の意見がこうも合致するとは考えていませんでした。でもこれで私も腹が決まったというものです」

 老中が二人を連れて庵を出ると、広い庭園に御用人によって一人の武士が連れてこられた。

「…水戸から老中さまのお仕事を手伝うように派遣されました、海堂新衛門でございます」

 そう言ってひざまづいた海堂新衛門は、背の高い、よく鍛えられた若い武士であった。

「今、幕府のお庭番が放った数多くの隠密が江戸のあちこちに潜入して居る。だが、なんでも力ずくで抑え込もうとするやつらのやり方がうまくないのか、成果が上がってこない。今までのやり方ではないこともやらなくてはならぬ。そこでわしは水戸のご家老に相談したのだ…」

 そして老中は海堂に目をやった。

 「すると水戸家は、文武両道にすぐれたるも、町人になじみ、深く潜入のできる素養のあるものを選んで送ってよこした…」

「町人に親しむ…それは大事なことですな」

 張孔先生は大きくうなずいていた。

「…しかも、この男は生まれてすぐに、槍の指南をしていた父を大阪夏の陣で亡くし、母は病気ですでにない。今は親戚の旗本の養子の身分で、まだ独り身だ。この男には、大きな後ろ盾もないが、そのかわりわずらわしいしがらみもない。万が一命を落とすようなことがあっても悲しむものはいない。それで間違いないか…」

「はい、相違ございません。いつでも覚悟はできております」

「よし、お前を今までの倍の石高で雇おう。この老中松平智成の直々の隠密として働いてもらう。深く町人たちに溶け込み、広く調べるのじゃ」

「かしこまりました。ありがたき幸せ」

 そして、老中は、天海と張孔先生に意見を聞き、海堂の行き先を決めたのだった。

「おぬしにはまだ誰も行っていない、危険なところに調べに行ってもらう。よいか」

「はい、いかような場所にでも…」

「辻相撲に潜り込め。くわしく調べて報告せよ」

 今、江戸の町では非合法的な賭け事や興業の一つとして、辻相撲が大人気で、最近は多くの民衆が集まっているという。だが大量の資金がその裏で動き、浪人集団やあやしい勢力の資金源にもなっているのだという。

「まずは敵を知り、そして策を練る。お前の働きによって御正道も大きく変わるかもしれん。頼んだぞ、海堂」

「はは」

 高くそびえる五重の天守閣の下、海堂新衛門の驚きの任務がここに幕を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る