マイ・ファースト・フレンド

成海うろ

マイ・ファースト・フレンド

 何故か、彼女は昼日中の日差しが強い中を歩いていた。


「……なんでや。」


 5月ももう末、梅雨入りを今か今かと待ち受けるような季節である。はっきり言って非常に暑い。風があるだけ救いだが。

 さて、彼女は今日、大学の1コマしかない授業が休講になった。つまり全休である。とても喜ばしい。3限の公開講座も興味はあったが、今日は地元の図書館でも行って大人しく本でも読んでるか……と思っていたのだが。


 気がつけば駅に入る筈だった足は駅をスルーし、図書館と全くの逆方向へ歩を進めていた。スニーカーにすればよかっただの、弟から自転車の鍵を借りればよかっただの、あれやこれや本を持って来なければよかっただの、考えても既に遅い。家に帰ればベッドに倒れ込んで出られない自信があったし、そうするには少しばかり気持ちが散歩に向きすぎている。

 結局彼女は、途中のパン屋でたまたま見つけた好物のサンドイッチ片手に、背中に4、5冊の本が入ったリュックを背負って、汗びっしょりになりながらも歩き始めたのである。


*****


「……うえっ、」

 飲み干したペットボトルの紅茶のあまりの温さに、彼女は顔を顰めた。これはひどい。どうせ自販機は腐るほどあるんだから、小さいものをちまちまと買い足した方が良さそうだ。コストはかかるが幸い昨日は給料日だった。

 少し水腹ぎみになった腹を抱え、彼女は蜃気楼が立ちそうな坂を登る。

(……そういやこの辺、最近全然来てなかったなあ。)

 今歩いているのは、中学までは塾やら受験やらでさんざん通い倒したものの、高校からは学校が隣県にあった関係でめっきり通らなくなった道だった。住宅街のど真ん中で、何かのついでに通る事もない。

 あてもなく足を進める。すぐ側に山が迫る、田畑と家が錯綜するような街並みに影響されてか、植物を育てている家が多い。暑さでへろへろな人間を横目に、名前もよく知らない色とりどりの花が咲き誇っている。元気なものだ、と彼女は嘆息した。


 そのとき、ふっと脳裏にある考えが閃く。そうだ、昔の家に行ってみよう。小学校に上がる直前に引っ越した家が確かこのあたりだったはずだ。もっとも引っ越した先の家も、親の転勤で半年もしないうちに引っ越したから、記憶はかなりあいまいだが。

 さっと風が吹く。どこかの家の薔薇が薫る。ああそうだ、あの家にもそれは見事な薔薇があったはず。


 肩からずれかけたリュックを背負い直し、彼女は足を踏み出す。記憶だけを頼りに、10年以上忘れ去っていた場所に。

「──うわあ。」

 ……そして、思ったよりもあっけなくその家は見つかった。

 借家なのだろう。階段を登った先の家の庭、その真下のガレージには車が入っている。居間の大きな窓も記憶のとおりだった。たまに早く目が覚めたとき、あの窓越しに出勤する父親を見送ったものだ。

 そして、

(……ああ、まだあった。)

 庭先の薔薇も記憶と寸分違わず在ってくれた。柵に覆いかぶさる緑に、鮮やかな赤。ほんの小さな頃、あれで怪我をした覚えがある、ような。


「そうだね。でも他の怪我も随分と多かったよ。よく親御さんが夜間の病院に走ってたもの。」

「え?」


 唐突に声をかけられる。顔を上げたその先に、


「やあご無沙汰。君はすっかり、ここを覚えていないものだと思っていたけど。」


 ……この暑いのに、シャツとスラックスにベストと革靴まで完備した青年が立っていた。


*****


「……あの、どなたです?」

 至極まっとうな彼女の問いに、青年は人好きのする笑みを浮かべたまま、こんな答えを返した。

「ここの薔薇です。そこに植わってる、あれの一部。」

「はあ。」

「信じるんだ」

「嘘である根拠もなさげですしね。」

 妙な所で考えなし、かつ勘のいい彼女は、目の前の青年が悪人ではなさそうだとすぐさま悟った。そして、嘘のつけなさそうな奴だとも。

 だからまあ、こいつが人外だと名乗るのならきっとそうだろう。そう思う事にする。あるいは、よくできた白日夢か。

「お兄さん、あれですか。薔薇の精みたいなサムシング?」

「そうそう、サムシングってか精霊そのもの。」

「はあ。」

「……君みたいな反応は新鮮だなあ。普通の人はもっと疑うもんだけどね。」

「暑いんで余計なことぐちゃぐちゃ考えたくないだけです。」

「やー、10年のうちにすっかり可愛げが失せたことで……。」

 苦笑しながら、青年は軽々と玄関先の階段を駆け下りる。足音はしなかったし、嫌味なほど長い脚は小さな門をすうっとすり抜けた。

「おかえり、どうぞお入りよと言いたい所だが、今は他人の家だものな。」

 ふわりと彼女の手を握り、実に自然な動作で、彼は軽々と歩き出す。

「え、あの、」

「うちに入れない代わりに懐かしい場所に連れてってあげよう。君は覚えているかな?」

 彼の肘まで捲り上げられた袖口から覗く腕には、まばらに薄い緑の棘が生えている。……が、それもすぐに引っ込んだ。とりあえず腕を引かれるまま、彼女は炎天下へと歩き出した。


*****


 それから半時間ほど、小さい時によく通った場所を連れ回され、2人が腰を落ち着けたのは地元でそこそこ有名な蕎麦屋だった。時計を見ればもう八つ時である。


「ざる蕎麦小盛ひとつ。」

「……そこは蕎麦アイスとか頼もうよ」

「いやー蕎麦本体が食いたかったんで」

「靴に蛙が入ってただけで悲鳴あげてた女の子がこうなるとはねえ……」

「いらんこと覚えてますね」

「そりゃもう、君の記憶にないぐらい小さな頃から、僕はあの家にいたんだし。君が玄関の階段の隅っこにできた蟻の巣を飽きもせず凝視していたのもよーく覚えてるさ」

「残念、凝視してたのはアリのエサになりかかってたダンゴムシです。」

「君もよく覚えてるねえ……」

 などとくだらない事を喋っていたら、注文の品が届いた。箸をぱん、と割って早速食べ始める。

「うーん、さすがに旨い」

「そりゃ小盛で500円もするんだもの」

「普通で950円でしたっけ。たっかいなー。」

 最後の蕎麦湯まできっちり飲み干し、一息ついた彼女に、青年は微笑んで問う。

「で、どうだった? 君が覚えていたであろう場所を、一頻り巡ってみたわけだけど。」

「……思ったより、懐かしいとは感じなかったです。」

 と言うより、すっかり色褪せたパズルを、そうとは知らずに解いていたような感じがした。

 あれほど巨大に感じていた家の階段や近所のトンネルは高さだけ言えばむしろ低いほうだったし、広いと感じていた道路は車2台が道を譲りあってすれ違うのがやっとのもの。近所のパン屋に行く道の途中にあった鳥小屋の中に、いると信じて疑わなかった怪物の正体は、鶏と一緒に何故か飼育されていた孔雀だった。尤も、そいつがいきなり羽を広げて威嚇してきたので驚きはしたけれど。

「そりゃそうだよ、10年も間が空いてるんだもの。いや、それ以上かな?」

「14年です。引っ越しが年長のときで、私が今年20歳だから。」

「そんなに経つのか! 月日の流れは速いねえ。……ああでも、君はこうして会いに来てくれた。実に幸運なことだ。まだ僕のことを、覚えていてくれた。」

「たまたま思い出しただけですよ。」

「それでも嬉しいものさ。なんせ僕は、君のために植えられたんだから。」

「へ?」

 素っ頓狂な声を上げた彼女に、席が隅のほうで幸いだったと思いながら、青年は続ける。

「覚えてないかい? 覚えてるわけないか。なんせ君の弟が生まれる前の話だ。君に、1人っ子だった時の記憶はきっとないだろう。」

「あ、そりゃ、そうですけど。」

 弟とは2つ違い、実質1歳半しか違わない。記憶なんて残っているはずもなかった。

「僕は君の誕生日に、あの家にやってきたんだよ。君のご両親は僕にとてもよくしてくれたし、君も僕を見て笑ってくれた。短かったが、きょうだい同然に育った君がどうしているのか、非常に気にかけていたのも事実さ。」

「そう……なんですか。」

 うん、と彼は頷き、

「だから、今日は会えて本当によかった。まさか君にもう一度会えるなんて、思ってもなかったからさ。

 それじゃさようなら。どうか元気で暮らしてくれ」

「え、」

 ざあっと、目の前で瞬時に掻き消えた。


「え……?」


 ばちん、と耳元で何かが弾け飛ぶ。じとりと湿気を孕んだ空気は肌に張り付き、急に辺りが騒がしくなった。


「お兄さん……?」


 向かいの席には、枯れかけの薔薇が一輪、ぽつんと置かれていた。


*****


 あれから慌ててあの家に走れば、柵に咲き誇っていた筈の薔薇は一本もなく、それどころか人が住んでいる様子もなく。ひどく見晴らしの良くなった庭と、シャッターで鎧われた窓たちを見上げて、彼女はただ呆然としていた。

 ……が、ここは住宅街である。少しすればあっという間に小学生と思しき声が押し寄せてきて、すぐに帰らざるを得なくなった。


 その家から現在の自宅は歩いて半時間もない距離で、狐につままれたようなぽかんとした表情のまま、迷わずに帰宅した彼女は玄関のドアを開けた。適当なグラスに水を入れて、ずっとずっと握りしめていた薔薇を差してやる。赤いくせに、妙に目に優しい薔薇だった。

 けれど、その薔薇の寿命は短かった。水が合わなかったのか、一週間もしないうちに完全に枯れてしまった花を、捨てるのも嫌だったので野菜のプランターが居並ぶ庭の隅に埋めてやった。


 ふと、あの青年の、自分のいちばん最初の友人の、儚い笑顔が浮かんで、何だか無性に泣きたくなってきた。


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