ある日の道草

@sihoko

第1話

ふとしたことで、時間の流れを感じてしまう瞬間ってあると思う。散歩中、たまたま入ったコンビニで甘いガムを買おうとしたら、キシリトールガムしかなかった。子供のころはもっと砂糖とか人工甘味料とかがたくさん入っていそうな甘いガムがもっとあったような気がするのに、いつから世の中のガムはこんなに歯の健康を意識するようになったんだろう。キシリトールガムは嫌いじゃないけど、今日は歯に悪そうな、健康志向のカケラもない、ひたすら甘いガムが食べたい。バブリシャスみたいな。

 そんな私の志向を言っても、ないものはない。仕方がないので、何も買わずにコンビニを出た。

「ありがとうございましたー」

 店員さんの挨拶に、良心が痛む。ごめん、今度来たときはせめてお茶か何か買うから。そう念を送りつつ、ポケットからスマホを出して、バブリシャスと検索してみる。カラフルな波のような絵柄のパッケージ、白い包み紙に入っていた甘ったるいくらい甘いフーセンガム。……数年前に販売終了していた。道理で最近見かけないわけだ。

「あれ、フーセン作りやすかったのにな」

 往来に車は通るとはいえ、人通りは少ないのをいいことに呟いてみる。

 このまましばらく直進したら、角を曲がって大通りに出る。大通りに出たら、左に曲がって、少し回り道をするような感じで帰るのがいつもの散歩のコース。

 だけど、今日はなんだかまっすぐ帰りたくない。思い出のガムが無くなったショックのせいだろうか。とはいえ、あまり適当に角を曲がってしまったら、帰れなくなる可能性も無きにしも非ず。悲しきかな、私の方向感覚は信用ならない。

 適当な寄り道はないかな、と辺りを見回すと、車道をはさんだ向かい側に細い道がある。あちら側は歩道のギリギリまでが山のようになっていて、木が生えているのはもちろん、竹らしきものはあるわ、植物のツタが歩道に伸びてきているわで歩きにくそうだからと敬遠したのと、道が細かったのとで今日まで気づかなかったらしい。

 夜中なら絶対に入りたくない道だけど、幸い今は日中。左右を確認してから、車道を横切る。細道をのぞきこむと、曲がりくねってはいるようだけど、見える範囲は一本道だ。

「入っちゃおう」

 呟いて、細道に踏み込んでいく。大丈夫、曲がり角があっても、曲がらなければいい。そうすれば、来た道を引き返すだけで帰れる。たとえ曲がったとしても、一回や二回くらいのことなら、どちらに曲がったかくらい覚えていられるはず。

 道は山の中に入っていくように通っているから、いくらか上り坂なうえ舗装もされていなかったけれど、そこまで歩きにくい道ではなかった。定期的に車でも通るのか、道が踏み固められている感じがするし、大きな石なんかも転がっていない。

あまり道の端によると、ツタや下草に触ってしまうから道の真ん中よりを歩く。今のところ脇道はない。道自体が曲がっているから、振り返ってももうさっきの車道は見えない。時々車が通っているような音がするけれど、その音もうっすらとしか聞こえない。木が防音効果でも発揮しているのかな。そのおかげで、まだ車道からそれほど離れたわけでもないのに、森林浴をしているような気分になってくる。

「これならさっきのコンビニで、お茶とかお菓子を買ってもよかったなー」

 誰もいないのをいいことに、独り言の声がいつもより大きくなった。別に誰かに聞かせるつもりなんてなかった。むしろ、誰も聞いていないのが大前提だった。なのに、突然、ガサガサっと木々や草が揺れる音がした。

「やあやあ、お茶がご入用ですか! お菓子もご入用ですか! ご用意ありますよ、ぜひぜひ当店でお買い求めを!」

 見ると、紺色の作務衣に赤い前掛けをした、やけに小柄なお兄さん……いや、顔が大人っぽいだけで、まだ男の子なのかもしれない、が木の枝を払いながら細道へ出てくるところだった。寝不足なのか、もともとそういう顔なのか、何か事情があるのかわからないけど、このお兄さん、目の周りがうっすら黒っぽい。

 そして、何だ、その独特な誘い文句は。あと、今、脇道ですらない山の中から出てきたよね。え、まさかずっとそこでスタンバってたわけじゃないよね、どんな営業スタイルのお店よ。そして、そもそもどういうお店の人なんだ、この人は!

 突っ込みどころが多すぎるのと、不意打ちで声を掛けられた衝撃とで、もう何からどう話していいのかわからない。こういう状態を、フリーズしている、と人は言うのだろう。

「……あれ? えっと、すいません、すいません! その、怪しい者じゃないんです! ただ、この近くで、お茶とかお菓子とか、えーと、そう、生活用品を売ってる店の者でして、その、たまたま用事があって外に出てたら、お茶とか買ってもよかったって言ってるのが聞こえて、これはぜひ呼ばないとと思って……」

 私のフリーズ状態に、お兄さんはまずいと思ったらしい。怪しい者じゃないんですとか言われても、それを言ってしまう時点で怪しいことこの上ない。しかし、説明がしどろもどろな辺り、この人はお兄さんというより、男の子、なのかもしれない。

「えっと、怒ってます? 急に声かけちゃって……」

 しゅん、と目を伏せる様子は、叱られた犬を連想させた。警戒心がほどけていくと同時に、言葉が出るようになった。

「あ、怒ってないです。ちょっとびっくりしちゃって……あの」

 お店について、詳しく聞こうと思った言葉は、女の子の声にさえぎられた。

「ちょっと、マツ! どこまで行ってんの? 早く戻ってきてよ!」

 またもガサガサという音。道のわきから、えんじ色の作務衣に紺色の前掛け姿の中学生か高校生くらいの女の子が出てきた。マツ、と呼ばれた男の子と色違いのようだ。お店の制服だろうか。

 ひとつだけ違うのは、女の子は胸にネームプレートを付けていること。「研修中 かえで」と書かれたネームプレートはピンクや黄緑のマジックでカラフルに飾られていて、どことなく居酒屋チェーンっぽい。

「あ、かえでちゃん、ごめん、でもお客さんが……」

 マツくんがもごもごと答える。マツくんしか目に入っていなかったらしいかえでちゃんがパッと私のほうを見た。高めの位置で結ばれたツインテール、大きめなつり目。なんだかマンガに出てくるツンデレ少女みたいだ。

「ひゃっ! ……じゃなくて! いらっしゃいませ!」

 かえでちゃんがぺこりとお辞儀をしてくれたけど、お店も何もないところでいらっしゃいませと言われてもどうしようもない。

「えっと、こんにちは……」

 当たり障りのない答えを思いつかなくて、挨拶だけしておく。かえでちゃんが顔を上げる。「えっと、ええと、ようこそ、こくり商店へ……じゃない、お店へご案内いたしますので、どうぞこちらへ。……マツ、枝払ってあげて、お客さんが入れないから」

 かえでちゃんが言うと、マツくんがすぐによってきて、どうぞと言いながら、木の枝を払ってくれた。かえでちゃんが先導するように歩き出す。

「ご足労をおかけし申し訳ありません。当店は少しこの道をそれたところにございます」

 かえでちゃんは落ち着いてきたらしい。慌てていなければ、よどみなく敬語が使える子らしい。なんかもうお店に行きません、なんて言える雰囲気ではなくなってしまったな、と思いながらかえでちゃんの後をついていく。ときどきある邪魔な枝や背の高い草はマツくんが払ったりどかしたりしてくれたおかげで、多少は歩きやすい。かえでちゃんは慣れた道だからか、マツくんの助けがなくても困らないらしい。

 だけど、どこまで行くんだろう。帰れなくなったら困る。その時は、この二人に頼んで、あの道まで送ってもらえるかな……。少し不安になったとき、かえでちゃんが立ち止まって微笑んだ。

「飛び石がありますので、こちらを踏んでお進みください」

「あ、はい」

 足元を見ると、白っぽい大きな石が一定間隔で並んでいる。石と石の間に草は生えていないから山道より歩きやすい。石をひとつずつ踏んでいく。横にあるはずの木の枝が体に当たることはなかった。

 石を十個ほど踏んだだろうか。次の石が見当たらなくて顔を上げると、古民家のような建物があり、戸口にはのれんがかかっている。のれんには「こくり商店」と書いてあった。

「いらっしゃいませ、こくり商店へ」

 香枝でちゃんがのれんを上げてくれる。振り返ると、マツくんもいらっしゃいませ、と言ってくれた。

「えーと、お邪魔します……」

 入ると、店内は半分が古民家風カフェ、半分が駄菓子屋のような作りになっていた。カフェと駄菓子屋の境界あたりにちょっと古いレジが置いてある。お会計は同じレジでやるらしい。

「いらっしゃい。うちの若いのが無理に連れてきてしまったようで、すまないねえ。よかったら、ゆっくり見て行っておくれ。お茶や簡単なものならこの婆さんにも出せるからねえ。そっちの駄菓子コーナーで買ったものをこっちのテーブルと椅子で食べても大丈夫だからね」

 ゆったりした声がした方を見ると、見るからに優しそうなおばあさんがレジの前に座っている。あれ? さっきまで、レジの前には誰もいなかったのに。たまたま見えなかっただけかな。あんまり見落としそうにないんだけどな。

 おばあさんに会釈をして、駄菓子コーナーを見る。さっきのコンビニで何も買わずに出ておいてなんだけど、一応入ったからには何か買わないと失礼な気がする。いや、ここまで案内してくれたマツくんとかえでちゃんに悪い。

 マツくんとかえでちゃんはお店の外に何か用事があるのか、のれんの外で何かしている。

 駄菓子コーナーを見ると、きなこあめだの、ラムネだの、着色料が入っているからと禁止されたゼリーだの、懐かしいお菓子が並んでいる。あ、水あめもある。

 そんなだいたい二桁の額で買えるお菓子に混じって、ドロップやポテトチップスなんかの子どもの頃のお駄賃ではちょっと買えなかったお菓子も並んでいる。その中で、ふと見覚えのあるパッケージが目に入った。

 アメリカンな配色の、波のような模様の入ったパッケージ。中身は、ガム。

「え……? 生産終了したんじゃ……?」

 手に取ってみると、思いっきりバブリシャスと書いてある。え、なんで? 手に取ってみると、別に中身が溶けてるとか、そんな感触はない。腐ってたらにおいそうなものだけど、顔に近づけても特に臭いはしない。強いて言うなら、香料の匂いがうっすらするかな、くらい。ひっくり返すと、賞味期限だけが印刷が滲んだようになっていて読めない。

 なにこれ、本当にあのお菓子? それとも法律ギリギリの模倣品?

 混乱していると、足音がした。

「おばあちゃん……じゃなくて、店長、表、ちょっと掃除しといたからね」

 かえでちゃんが入ってきた。

「そうかい、ありがとさん。マツは?」

「道具を片してくれてる」

「じゃあ、マツを呼んでおいで。お客さんも来てくれたし、お茶にでもしようねえ」

 それを聞くと、かえでちゃんはすぐに外に出て、店内からでも聞こえるほどの声を張り上げた。

「マツー! 片したら戻ってきてー! おばあ……店長がお茶にしてくれるって!」

 マツくんの返事らしい声も聞こえてきた。かえでちゃんはすぐに店内に戻ってきた。

「店長、マツもすぐ来るって。あたし、先に手を洗ってくるね。……あ、お客様、その、どうぞごゆっくり!」

 かえでちゃんはカフェスペースの奥の方に消えていく。たぶん、あの奥が厨房や水道のあるスペースなんだ。おばあさんも立ち上がる。さっきの会話からすると、このおばあさんがこのお店の店長らしい。

「ちょっとお茶をいれてくるから、どうぞごゆっくり選んでねえ」

 そう言うと、おばあさんもカフェスペースの奥に行ってしまった。店内にバブリシャスなのかそのパチモンなのかよくわからないお菓子を握った私だけが残されてしまった。

「……とりあえず、これを買うかは保留しよ……」

 呟いて、他のお菓子も物色する。せっかく来たんだし、懐かしいお菓子を堪能しよう。水あめは買っていこうかな……。あとはスナックかおせんべいか、何かしょっぱいお菓子も欲しいな。

 そんなことを考えつつも、お菓子に完全に集中はできていなかったようで、外から近づいてくる足音が聞こえる。マツくんかな。

「店長、かえでちゃん、片付けおわっ……」

 マツくんの言葉が終わらないうちに、ガッという音がして、その直後、ずしゃっという音がした。そのあと、さらにマツくんのうめき声。さすがにお菓子を見ている場合じゃない。

「えっと、マツくん? 大丈夫……?」

「あ、お客様、すみません、大丈夫です……」

 そういって顔をあげたマツくん。その顔は、目の周りからほっぺたまでが真っ黒。いや、絶対大丈夫じゃないでしょ。

「ちょっと、目の周りとかほっぺとか真っ黒だよ! ぶつけた? ちょっと見せて!」

「あ、え……ええ?」

 汚れが付いただけならいいけど、ケガなら大変だ。でも、一瞬で皮膚が真っ黒になるなんて、どんなケガだろう? そう思いながらマツくんの顔を見ると、妙なことに気がついた。

「この黒いのって、これ、毛……?」

 黒く見えた部分に、びっしり毛が生えている。そこの部分だけ、毛皮のある動物みたいだ。最初に会ったときは、こんな毛はなかったのに。え、なにこれ? どういうこと? 体質?そんな体質、あるの?

「えっと、これは、その……」

 口の中でごにょごにょ言いながら固まるマツくん。たぶん、事態が飲みこめないせいで、驚愕の表情で固まっているであろう私。

「マツー、戻ってきた?」

 そこへ、店長さんではなく、かえでちゃんが先に戻ってきてしまった。かえでちゃんが息をのむ気配。直後響く、今日一番のかえでちゃんの絶叫。

「おばあちゃあああああん!」

 普段は、店長じゃなくておばあちゃんって呼んでるんだろうな、そんな気はしてた。そんなことはどうでもいい。この事態を治められそうなのは、もう店長のおばあさんだけだ。

「はいよ、かえで、どうしたの。お客さんの前でそんな声を出すもんじゃ……あれま」

 奥から戻ってきてくれたおばあさんは、一瞬で状況を把握したらしい。

「マツ、いったん手を洗っておいで。箒とか、外のもん触っただろう? ……ほれ」

 おばあさんに促されて、マツくんがふらふらとお店の奥に入っていく。

「かえで、マツを見てやっておくれ。……どうしようもなかったら、一番楽な格好でいいと言ってやって」

「わかった、おばあちゃん」

 かえでちゃんも、マツくんを追いかけていった。

「さて、すまないねえ、お客さん。ちょっと長い話になるけど、聞いていってくれるかい?」

「あ、はい……」

 考えるより先にはい、と言ってしまった。それに、一人でここを出て、もとに道に戻れるか、正直自信がない。おばあさんは、じゃあお茶でも飲みながら、といって私に席を勧めてからお店の奥に引っ込むと、お盆に急須と湯吞を載せてすぐに戻ってきてくれた。

 茶碗にお茶が注がれると、独特のいい匂いがする。……あ、たぶんこれほうじ茶だな。

「さてと、じゃあまず、マツの顔のことよりさきに、うちの店についてはなそうかねえ。……となると、見せた方が早いかねえ。お客さん、驚かせてしまうと思うけど、心臓は丈夫かい?」

 ……心臓が止まるほどびっくりさせるつもりですか。私の心臓、人並みなんですけど。

「たぶん、人並みなんで、特別強いとかじゃないと思います……」

「うーん、そうかい。若いから大丈夫だとは思うけど、先に言うと、私は人間じゃないのさ。お客さんたちの言うところの、動物でねえ」

 いきなり何を言い出すんだろう、この人。実はめちゃくちゃ危ない店に入り込んでしまったのだろうか。

「おや、信じていない顔だね。じゃあ、本性ってやつを見せるから、心の準備をしておくれ。……ほら、さん、にい、いち」

 おばあさんのカウントダウンが終わるとともに、ボフッと煙がおばあさんの足元から立ち込めた。アニメで見たことのあるような演出だけど、現実でされるとびっくりする。

 煙が薄れていくと、そこにおばあさんの姿はない。いすには、中型犬よりもひとまわり大きいくらいの狸がおすわりしていた。

 見間違いじゃないかと、試しに瞬きをしてみる。が、何度目を開けても、いるのは狸。

 びっくりすると、体が動かなくなるのか、手の感覚が鈍い。夢じゃないことを確認したくても、うまく動きそうにない。なんとか、自分の手の爪を、服越しに腿に突き立ててみる。……感覚がある、というか普通に痛い。だめだ、これは見間違いでも夢でもない、現実だ。

つまり、私は、さっきまで何も知らずに狸と会話していた、と。

「……えーと、大丈夫かい……?」

 狸がしゃべった。見間違いとかじゃない、狸の口と連動して言葉が聞こえた。今回ばかりは大丈夫です、とは言えない。

「えっと、大丈夫じゃないです、正直ちょっとわけわかんないです」

 思ったことを正直に答えた。狸は困ったような顔した、気がした。

「まあ、江戸時代じゃあるまいし、そりゃ困るよねえ……。とりあえず、お客さんを取って食おうってわけじゃないか、そこは安心しておくれ。帰り道も、誰か案内するから。車の通ってるところまで、送ったげるから、帰れないかもしれないなんて心配はいらないからね」

「あ、はい、ありがとうございます……」

 親切にしてくれるようなので、お礼は言っておく。狸は目を細めると、器用に前足で自分の前の湯吞を取ると、ずずっとお茶をすすった。せっかくなので、私もお茶をいただこう。

まだ熱い茶碗の中身は、やっぱりほうじ茶だった。

 ほう、とため息をつくと、まだわからないことだらけだけど、気持ちは少し落ち着いてきた。そういえば、マツくんとかえでちゃんはまだ戻ってこない。あの二人も狸なんだろうか。

「ちょっと落ち着いたみたいだね、よかった」

狸、もとい店長さんが笑ったように見えた。

「あ、ありがとうございます、美味しいです。……あの、マツくんとかえでちゃんは?」

「ああ、マツが人間に化けてたのが戻りかけてたからねえ。とりあえず、ああいうときは落ち着かせてやらないといけないから……お察しの通り、マツもタヌキでねえ……おや、かえで? 戻ってきたのかい?」

 そう言われて、お店の奥を見ると、かえでちゃんが気まずそうな顔で立っていた。

「マツはどうだい?」

「一応、落ち着きはした……。でも、めちゃくちゃ落ち込んでるの」

「はあ、ちょっと様子を見てこようかねえ……。お客さん、少し、失礼しても?」

「あ、どうぞ……」

 そう答えると、店長さんはぺこりと頭を下げると椅子から飛び降りて、お店の奥へ入っていった。……狸の格好のまま。

 そして、椅子に座ったままの私と、かえでちゃんが残された。かえでちゃんが深刻な顔でこちらに向かってくる。なんだか、思いつめたような顔だ。と、かえでちゃんが深々と頭を下げた。

「あの、お客様、この度は大変申し訳ありませんでした」

「えっと、その、大丈夫だから、頭を上げて……?」

 たぶん、かえでちゃんが謝っているのは、マツくんのことだろう。マツくんが来れないから、かえでちゃんが代わりに謝っているのかもしれない。でも、マツくんのことでかえでちゃんは何も悪いことをしていないし、そもそもあれの発端はマツくんが転んだことだったはずだから、事故みたいなもの。それなのにかえでちゃんにあんな辛そうな顔で謝られると、私もいたたまれない。

「その、あれは事故みたいなものだったと思います。店長さんから少しお話は聞いたし、その、かえでちゃん、は何も悪くないので……」

 そう言うと、かえでちゃんは顔を上げた。さっきよりは表情が柔らかい。

「あ、ありがとうございます」

 さて、でもこのまま沈黙になっても気まずい。何か話題はないかな、と思いながらテーブルを見ると、バブリシャスが置いてあった。さっき駄菓子コーナーから無意識に持ってきてしまったらしい。

「あ、そういえば、このガム、何年か前に生産終了になったって聞いたけど、まだ売ってるんだね」

 すると、かえでちゃんはああ、という顔をした。

「お客様、たぶん店長から、私たちが人間じゃないってことは聞いてますよね? ……うちのお店は、仕入れをしてる先も、私たちみたいな感じなんです。そのせいか、ときどき、仕入れたものにもう作られてないものとか、実際は売られてないものとかが紛れ込むことがあるみたいです。……あ、駄菓子コーナーのお菓子は、私たちもたまに食べますけど、おなか壊したりはしませんから! ご安心ください!」

 ここのお店だけでなく、仕入れ先も。ということは、私が今まで知らなかっただけで、店長さんやかえでちゃんたちみたいな人、は結構いるのだろうか。

「その、かえでちゃんたちみたいな人……って言ったらいいのかな、は、結構たくさんいるの?」

 聞いてみると、かえでちゃんはちょっと考えながら答えてくれた。

「数はわからないですけど、仕入れ先はいくつかありますし、うちみたいなお店も、他にいくつかあるって聞いてます。昔……店長が言うには、江戸時代くらいには、私たちの仲間も今よりずっと多かったみたいです。最近は、少子化と後継者不足で困ってるお店もあるみたいです」

 少子化と後継者不足、と聞くと一気に話が現実味を帯びてきた。日本経済と一部の業界の事情とそんなに変わらない気がする。

「そっか、どこの業界も今は大変なんだね……」

「みたいです。私も、早く一人前になりたいんですけど、上手にやれなくて……」

 かえでちゃんがしゅん、としおれてしまった。

「そんなことない、と思う。ちゃんと頑張ってるよ」

 マツくんのことだってお世話をしてあげてたし、さっきだって、マツくんのことなのにとても丁寧に謝ってくれたし。そのことを伝えると、かえでちゃんのほっぺたが、少し赤くなった。はにかんだようにありがとうございます、と言うかえでちゃんはなんだか応援したくなる。

 かえでちゃんは、お店やかえでちゃんたちの世界についても聞けば説明してくれた。

 かえでちゃんたちは、いわゆる妖怪みたいな存在らしい。普通の動物より長く生きた動物が力を持つようになって、しゃべったり、自由に姿を変えたりできるようになった存在なんだとか。ちなみに、店長さんとマツくんは狸だけど、かえでちゃんは狐らしい。

「他にも、犬とか猫とか、長生きして力を持てれば、特に私たちみたいになれない動物はいないみたいです。……店長はそのうち、ヌートリアとかアライグマの同業ができるかもしれない、なんて言ってました」

 そう言って、かえでちゃんはくすっと笑った。

「おや? 盛り上がってるねえ」

 そうしているうちに、店長さんが戻ってきた。見た目は狸のままだ。その店長さんの後ろから、店長さんより少し小さい狸が歩いてくる。

「あの、お客様、先ほどは失礼しました……」

 マツくんらしい。

「あ、大丈夫なので、その、気にしないでね」

 どことなくビクビクした様子なので、なるべく優しく声をかけてあげたかったけれど、あまりうまい言葉が浮かばなかった。それでも、マツくんの頭がぺこりと動いて、ありがとうございます、と小さな声が聞こえた。

「お客さん、この子たちも一緒にお茶をいただいてもいいかい?」

 店長さんにそう尋ねられたので、どうぞ、と答えた。かえでちゃんとマツくんの前に湯吞が置かれた。二人とも、いただきます、と言ってから飲む。女の子の姿をしているかえでちゃんは両手で湯吞を持っていたけれど、狸の姿のマツくんは、テーブルに湯吞を置いたまま、ペロペロと中身を舐めていた。店長さんは前足で湯吞を持っていたけれど、マツくんにはまだそれはできないらしい。

 しげしげとマツくんを見ていたのに気づいたのだろうか、かえでちゃんが小さな声でマツくんを呼ぶのが聞こえた。マツくんがびくっと湯吞から顔を離す。

「えっと、気にしないから、マツくんの飲みやすいように飲んでね……」

 そう言うと、マツくんはまたぺこりと頭を下げた。ただ、さっきから、マツくんはあまりしゃべらない。何かないかな、とテーブルの周りを見ると、さっきから置きっぱなしのバブリシャスが目に入った。

「……あ、そうだ、このガム、買いたいんです」

 マツくんに向けて言ってみる。マツくんがパッと顔を上げた。

「マツ、お会計を」

 店長さんが言う。

「はい、ええと、百円、いただきます」

 百円玉を出して、マツくんの手、というか肉球にそっと置く。マツくんは両手で百円玉を挟むようにして持つと、レジに向かっていき、何やら操作をすると、紙を持って戻ってきた。「こちら、レシートです。お買い上げ、ありがとうございます!」

 元気が戻ってきたみたいだ。会釈をしながらレシートをもらった。

 さて、お買い物もさせてもらったし、そろそろおいとましようかと思っていると、外からぼんやり鐘のような音が聞こえた。

「おやおや、もうすぐ夕方みたいだね。お客さん、足元が暗くなる前に帰った方がいいだろう。かえで、マツ、車が通ってる道のあたりまで、お見送りを。……車には気を付けるんだよ」

「お茶、ごちそうさまでした」

 店長さんに挨拶をすると、店長さんは穏やかに、またのお越しを、と言って笑った。かえでちゃんがマツくんとごぞごぞと何かしてから、私に向き直った。

「帰りは、マツがご案内いたします。進むお手伝いは私が。」

「こちらを目印に、ついてきてください。通りまでご案内します」

 マツくんの首には、真っ白な布がスカーフのように巻いてあった。さっきかえでちゃんと何かしていたのは、これを結んでいたのか。

「ありがとう、お願いします」

 店長さんにもう一度お礼を言ってから、お店を出た。

 来る時と同じように飛び石を踏んで、山道を進んでいく。マツくんの白い布が、時々止まりながら進んでいく。

「お客様、今日は、ありがとうございました」

 枝や草を払いながら、かえでちゃんが言った。

「え? いえ、こちらこそ……」

「その、私たちのこと、信じてくれない人や、受け入れてくれない人もいますし、それは時代だとは思うんです。でも、お店に来てくれて、お買い物をしてくれて、私、うれしかったんです」

 確かに、私も最初は夢かと思ったし、今日の話を誰かにしても信じてもらうのは難しそうだ。そもそも、最初にマツくんと出会った時点で、ついていかない人もいるだろうし。

 かえでちゃんに、かける言葉が見つからないまま、車の明かりが見えてきた。

「あ、この道まで出れば、車も通ってますし、迷わないと思います」

 マツくんとかえでちゃんが立ち止まる。これで車道に出たら、この二人とはお別れだ。

「二人とも、ありがとう。……その、また、お散歩ついでに寄ってもいいかな?」

 マツくんとかえでちゃんが顔を見合わせてから、今日一番の顔で笑った。

「はい! お待ちしてます!」

「私も、マツも、もっと修行しておきますね! 是非またご来店を!」

 そう答える二人に手を振って、車道に向かった。

 空を見るともう、夕暮れ時になっていた。思ったよりも長くなってしまったけど、いい散歩だった。

 あのお店、こくり商店で買ったガムを取り出して、ひとつ口に入れた。懐かしい、強めの甘い味。風船を作りながら、家に帰った。

 翌朝目を覚ましても、ガムは木の葉になったりはしていなかった。

                                  終わり

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