歩み

にら

第1話

 ゆっくりと、背を丸めて、泥のように、野暮ったく、歩くのが好きでした。

 俯き、23センチに満たない自らの小さな足に目を落としながら。時折顔を上げた時の無限に広がる空と、それを隠す建築物を眺めては、足を止めるのでした。

 知人は揃って、そんな私を可愛いと形容します。それ以外にかける言葉がないのでしょう。珍しいものを見る目で、少しの蔑みが渦巻く声を聞くのが常でありました。


 信号が苦手です。歩くという行為はとても難しく、意図的にと言うよりも、どこからか溢れ出るエネルギーが勝手に私を動かしているのですが、信号はそれを堰き止めるのです。使われないエネルギーはどこか不快のかたまり、歪みとなって溜まってゆきます。出来ることなら信号のことなど一切気にせず歩きたいものですが、この国には法というものがありますでしょう。守らない訳にはいきません。戸籍もありますし。

 信号が私を堰き止めている間、そのかたまりから目を背けるため、私は思案に耽ることに決めています。先程は月のことを考えておりました。今日は雨が降っていて月は見えなかったけれど、月だって毎日見られるのは疲れてしまうだろうし、こんな日があってもいいな〜と、思って、信号が青になりました。ぐっと、何かに力が入り、私を動かすのです。


 この歩みは現代に向いていません。向いていないだけなのですが、それが大問題でした。


 私のこの歩き方は見栄えが悪いと、母親からも、少しの蔑みが渦巻く声で、度々言われたものです。それはたぶん、義務教育の間はずっと。だんまりを決め込んでいた私でしたが、大学に進学し、今までより長い距離を歩くこととなりました。ふと目に入ってしまったガラスに映り込む自らの姿は、とても醜いものでした。今も歩くスピードは変えられずに居ますが、それからは、背筋を伸ばし、腹に力を入れて歩くことにしております。

 ところが、月に一度程でしょうか。時たま、どうしてもその気が湧かないとこがあるのです。全ての力を捨て、ゆっくりと、背を丸めて、泥のように、野暮ったく、歩くことしか出来ないことが、あるのです。それが今日でした。今日は私が、醜い不快のかたまりに成り下がる日でした。いつもどのように体に力を入れているのか、分からないのです。それは私の、そのままの姿であるのです。こんなに醜い、それこそ他人から見れば私自身が不快のかたまりであるだろうと。笑ってしまいたくなりましたが、これを笑ってしまうと、何か大切なものを失ってしまうような、そんな気がしました。

 歩くのが遅く、泳ぐのも遅いだなんて、人間でなければ生き残れていないに決まっています。

 湿った空気までもが、私を押し潰していました。

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