約束
虚無な眼付きを、霧に埋もれた森に向けていた。
腰を降ろした石床は風化して崩れ、蔦が好き放題に這っている。雨水が滴り落ち、風は抜け、ボロボロの天井は今にも落ちてきそうだ。
元々エリーとの合流地点だった古塔は荒れ果てていた。
しかしこんな時にはちょうどいい場所だった。
どこでもいい。一人になりたかった。
「みんな……死んだ……」
現実を受け止めることは出来なかった。
ほんの数日前まで生きていた日常が自分の知らないところで壊されていたなんて、信じられないし信じたくもない。
ただ、仰木は向けられたエリーの顔が脳裏に張り付いて剥がれなかった。
自分を憐れむその表情に、嘘は無いと感じてしまった。
「……俺は……どうすりゃ……」
言いようのない無力感が襲った、その時だった。
降りしきる雨の音を縫って、どこからか声が漏れた。
「……放者……」
仰木はゆっくりと横に顔を向けた。
そこに立っていたのは、呼び戻しに来たエリーでも、励ましに来たキサラギやギルドの三人でもない。
「…お前……王女の……エルレか……?」
そこに立っていたのは、彼が決闘で負かした王女エルレだった。
しかし今の彼女から王女の影は一切見られなかった。
服は裂けて汚れ、乱れた赤髪は右半分が短く千切られている。顔含め全身に殴打跡が痛々しく残り、歯は欠けてしまっていた。
明らかに仰木との決闘以降に付けられた傷である。
「……やっと……見つけた……」
見るに堪えないほど痛々しい身体を振り、足を引きずりながらにじり寄る。
しかしそんな彼女の身体を見ても、仰木の心は動かなかった。
「……なんの用だよ。お前とはもうなにも無いはずだぜ、さっさと消え――」
その時、仰木に寄り添うようにしてエルレは倒れ込んだ。
「おい、なんだよお前――」
振り払おうとして肩を掴んだ彼だったが、エルレの顔面を見た瞬間、凍り付いた。
片目が潰れていたのだ。
そして残ったもう一方の眼に浮かんでいたものはもっと強烈だった。
それは絶望。
涙などすでに流し切った、死んだ人間の瞳がそこには埋め込まれていた。
「……助けて……ほしい……」
今にも消えてしまいそうな枯れた声で言うエルレ。
残った真紅の瞳はしっかりと仰木に向いている。
「……ダージルや……お父様……みんなを……助けて……」
声を震わせて彼女は囁いた。
「お願い……解放者……」
「王国は……あの解放者……黒辻の手に落ちたわ……。お父様やみんなは監禁されて囚われてる……だから……お願い……」
ぐったりと倒れ掛かったエルレの身体からは一切の力を感じない。きっとここに辿り付くまでまともに食料どころか水も取っていなかったのだろう。
風が吹けば倒れてしまいそうな身体を支えて、仰木が問いかける。
「……人の心配なんてしてる場合かよ……! お前、死にそうじゃねぇか……!」
「私はいいの……! だからお願い……みんなとダージルを……お願い……」
「わ、わかった……! 分かったからもう動くな!」
立ち上がろうとして崩れたエルレの頭を、仰木は膝の上に乗せる。
近くで見れば傷のえぐさがより増して感じられる。
「……誰にやられたんだ、この傷……あの黒辻って解放者か?」
「……うんん。王族や……街の人。捕らえられてみんなパニックになって……こうなったのもあたしが負けたからだって……」
「てきとうなこと……」と舌打ちした仰木は、羽織を脱ぎ裾をビリビリと破ってエルレの潰れた目に当てた。
「頭を持ち上げるから、動くなよ」
「……なに?」
「潰れた眼を覆うんだ。あとで治療してもらうからそれまで付けとけ。あんま見られたいもんじゃねぇだろ」
ぼうっと見上げていたエルレの表情がほんの僅かに緩んだ。
少しだけ感じた他愛無い優しさが、心に響く。
「……ありがとう」
微かに囁かれたお礼の言葉は確かに仰木へ届いた。
縛り終えた仰木は「いいって」と返し、エルレの身体に眼を走らせた。
破れた服やスカートの間から下着や肌が見え隠れしてしまっている。傷跡も相まって晒し続けるのは辱めとなってしまうだろう。
「女にこんな仕打ちしやがって……まぁ、俺が言えた口じゃねぇか……」
そう言って脱いだ羽織をエルレに掛けてあげた。
エルレは両手で羽織を掴むと、顔を埋めるようにして中に籠る。
「……あったかい。解放者は寒くない?」
「人の心配ばっかしてんなって。あと、仰木でいいよ」
「……うん。ありがとう、オーギ」
彼女の顔にようやく笑顔が浮かんだ。少しだけだが、先程までとは顔付が変わった様な気がする。
仰木は小さく溜息を付くと、エルレの髪を整えながら問いかけた。
「……さっき、救いたいって言ってたよな? こんなことした奴らだろ? なんでそんなこと思うんだよ?」
顔半分を羽織りに埋め、少し黙ったエルレはゆっくりと答えた。
「……大切な人達だから」
「殴った奴らが……か?」
「……うん」
見つめた瞳に揺るぎはない。
王女としての思いか、はたまた別の何かか。全てを失って初めて浮かんだ本心には確かな一筋の強さが宿っていた。
「なんだそりゃ」と鼻を鳴らした仰木。
丁寧に頭を撫でる。
「……強いんだな、お前は」
「……オーギは? なんでそんな暗い眼をしてるの?」
ピクリと身体を震わせた彼は、反射で目元を隠した。
ボコボコに甚振られ、片方だけになった瞳にも見透かされていた感情。
その本心を黙っているのは不公平だと感じた。
「……あの解放者……黒辻に家族を殺されたんだよ……俺が暢気に寝ている間に……!」
目元を押さえ付け、また嗚咽した。
情けないのは分かっている。
でもどうしようもなかった。
そんな仰木をじっと見ていたエルレは、指先を伸ばし頬に触れる。
そして慰めるように優しく言った。
「……そっか。じゃああたしと一緒だね」
「……え?」
「あたしも……あの解放者にお母様を殺されたから……」
息を呑み、涙に濡れた顔を眼下に向ける。
そこには残酷な事実を口にしながらも微笑むエルレがいた。
ただ愕然としている仰木に、エルレはもう片手を頬へと伸ばして、少しだけ頭を寄せた。
「……辛いよね。でも大丈夫、一人じゃないから……」
「泣いていいよ。あたしも一緒に泣いてあげる――」
残った片目から、一筋の涙が流れていた。
その涙、その笑顔、その優しさが仰木の凍り付いた心を溶かしてゆく。
母のぬくもりの様な暖かさが彼を覆い、抱きしめてゆく。
どんなに絶望的な状況に陥っても、孤独ではない。
一人ではないと、暖かい吐息の中で感じることができた。
強く生きよう。
守るべきものを守ろう。
涙は流さない。
この古塔を出てからの約束だ。
だから今だけはその全てに背を向けて、ただ思いのままに。
雨
思い切り、二人で泣いた。
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