③ いなくなったハイジ

 一足先にドレスデンにて。

 ここはケストナーおじさんが生まれた街。

 一度でいいから見たかったんだ~。

 駅から旧市街と言われるエリアを十五分くらい歩いて見えてきた景色にわたしは思わず立ち止まって歓声を上げる。

 これは、お城? それとも街?

 そう思ってしまうほどに広々と構えられる立派な建築物と屋根屋根。

「ドレスデン城だよ」

 となりを歩きながら星崎さんが説明してくれる。

「どこかで、見たような……あ!」

 そうだ。

 ケストナーおじさんの『わたしが子どもだったころ』という本にあった挿絵。

 あれにそっくりなんだ。

 大きな橋を渡っているそのその向こうの、無限に広がってるんじゃないかとおもうほどのお城。

 こんなところで生まれ育ったら、すてきなお話が浮かんできそう。

 しばらく歩いて、わたしたちが入ったのは、クロイツカムというカフェ。

 その二階のイートインスペースでまたため息。明るい紺色の壁に、ふんわり垂れ下がった生クリームのようなカーテン。

 窓辺には木のランプ。

 白いテーブルには黄色い花が一輪いけられていて。

 一階のショーケースには、十種類以上の目移りするケーキ。そのなかから、せいらちゃんがおすすめしていた『黒い森のケーキ』をセレクト。

 今列に並んでいる星崎さんが買って来てくれることになっている。わたしは席をとる担当だ。

 窓辺の席を選んで、きょろきょろと周りを見渡すと、わたしは勇気をふりしぼって、定員さんを呼んだ。知っているドイツ語――マーティンにこっそり機内でおしえてもらったフレーズを言ってみる。

 アーレスクラー、フロイライン。そう言って、スーツ姿の店員さんは去り際にそう言ったから、たぶん、通じた……かな?

 ふふっとひとり、服の袖を口元に押し当てて笑う。

 かしこまりました、お嬢様。日本語に訳すとちょっとおおげさ。

 しばらくすると、注文した品が、届いた――。


 星崎さんの持っているトレイに乗ったケーキは、大きなさくらんぼと生クリームがボリュームたっぷりで、とってもおいしそう。

 ケーキをもってきた星崎さんはさくらんぼのように目が丸くなっている。

 それは、目の前にビールがあるから。

「夢ちゃん、これ」

 ドイツ名物といえばこれ。

 えへ。さっき注文したの、これなんだ。

 ケーキと紅茶をわたしの前においてくれながら、困ったように笑う。

「君の前では酔わないって決めてるんだけど」

「せっかく来たんだから、飲んでください」

「そう? じゃ、一杯だけ」

 星崎さんはわたしと向かい合って座り、乾杯をした。

「ドイツ旅行に!」

「そして、夢ちゃんに」

 かちゃっと、どこか間抜けな音がして、二人して笑う。

 紅茶とビールを合わせるなんて、なんか変な感じ。


 三十分後。 

 忘れてました。

 星崎さんはお酒が入ると。

 テーブルの上にひじをついた彼に、わたしは今、手を握られてる。

「あの星崎さん。ドレスデンのみなさんが注目してます」

「かまわない」

 その瞳はすでに、すわっている。

「夢未。もしオレが、エコノミーでしか旅行させてあげられない、しがない小市民だとしても。その人生をあずけてくれるか」

 ううう。そう。

 星崎さん、酔うと、やたら王子様度に拍車がかかるんだよ~!

 そして、飛行機のクラスのこと、まだ根に持ってたんだ……。

「星崎さん、わたし、ファーストクラスなんていりません。次はむしろエコノミーのほうが、星崎さんと近くにすわれていいなーって」

 感じ入ったように、彼はうつむいて。

「くっ、こんなみじめなオレに、かわいいことを。さくらんぼのケーキくらいいくらでも頼みなさい。なんならバームクーヘンとザッハトルテも追加しよう」

「わわ、星崎さん、旅行のお金は限られてるので、そのへんでっ!」

「そうか、ならせめて紅茶くらい、追加注文してきてあげるからね」

 あ、行っちゃった……。

 だいじょうぶかな。

 その背中を視線で追っていると、別のお客さんが視界を横切った。

 テーブルとテーブルのあいだをきょろきょろしている、ひげをはやしたおじいさんだ。

 おしゃれなカフェにきている人にしては珍しく、シンプルなセーターとズボンをはいている。

 ぽんとわたしは椅子を降りていた。

「あの」

 テーブルのしたまで見ているおじいさんに声をかける。

「どうかしましたか? 落とし物ですか?」

 そこまで言って、はっと口をつぐむ。

 そっか。ここドイツだった。

 日本語は通じないんだ。どうしよう~。

 ところが。

「おお、お嬢さん。このあたりで、女の子を見かけなかったかね? ちょうど年はきみより三つか四つほど下くらいで、赤い服にスカートといういで立ちなんじゃが」

 おじいさんは、流ちょうな日本語で言ったの。

 よかった。日本語話せるみたい。

「さぁ。見なかったと思います」

「そうか。いったいどこへ行ってしまったんじゃろう。……どうか、無事でいてくれ」

 額のところで手と手を組み合わせて、神様に祈るしぐさをする。

 困ったな。力になってあげたいけど。

「やはり、アルムの山にもどってみるべきかの。ハイジはあそこがどこよりも大好きだからな」

 アルムの山。

 ハイジ……!?

 その言葉が、わたしの頭の中にある線に触れた。

「おじいさん、もしかして、アルムおんじ、さんって呼ばれてる人ですか」

おじいさんは、はっはっはと、おおらかに笑う。

「さんはいらんよ。ふむ、わしのことを知っておるのかな、お嬢さん。いくらわしが、かつて有名ながんこじじいだとしても、ミュンヘンの街まで名がとどろくことはあるまいて」

「あ、はい、まぁ……」

 あいまいに答える。

 どうしよう。

 アルムおんじさん『アルプスの少女ハイジ』の本から出てきた人だ。

 あの主人公、ハイジがいなくなっちゃった。

 きっと、時間さかさま組織のしわざだ。

「うむ。どうしたものか。ふだんは心配かけるような子ではないんじゃが」

 アルムおんじさんの太い眉が下がる。

 その心から心配そうな姿に、胸がつぶれそうだ。

「おじいさん、おうちに戻っていてください。きっとハイジを戻して見せますから」

 そのために、わたしたち、文学乙女がはるばるドイツまで来たんだもんね!

「いや。もう少しさがしてみることにするよ。あんたも、見つけたら知らせておくれ。わしはすぐそばの宿におる。あの子のおかげでわしは神様と仲直りできたのじゃから」

 最後にそうつぶやくと、アルムおんじさんはお店を後にした。


 次はフラウエン教会に立ち寄った。

 オレとしたことが軽く酔ってしまったと額を抑えながら、星崎さんは外のベンチで休んでるからさきに見ておいでって言われたんだ。

 丸天井真っ白い石壁に、金の装飾や神様の絵が描かれている。

 そこに描かれる、天上界の絵――。

 あまりに壮大できれいな世界に、言葉が追いつかない。

 あれがきっとイエス様、そして、マリア様……。

 頭の上に広がる絵画を一つ一つ見えていくと、耳の奥で声がした。

 夢未。神様は、いつも見ていてくださるんだよ。

 誰かに優しくした人に、優しさが返ってくるように、お空の上からいつも気をくばっておられる。

 それは神様自身の優しさが報われずに死んでしまったから。

 もう二度とこんな悲しみを人々に与えたくないと。

 神様はそういう優しいお方なんだ。

 その声に、わたしは心で応える。

 ねぇ、お父さん。

 お父さんも、そうなの?

 お父さんは優しすぎたから、それが報われなくて。

 だから、お父さんの優しいところは、死んでしまったの――?

 誰かの泣き声がした。

 出して、ここから出して。おじいさんーー。

 おじいさん……?

 目の前のパイプオルガンからだ。

 わたしは隅の通路を通って、そっと祭壇近くのオルガンに忍び寄った。

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