⑤ 痛みと優しさと時間切れ

 ギムナジウムの一室で、眠ってるカレ、ジョニーを見つめている。

 優しくて紳士で。

 でもちょっと大胆で。

 あたしの自慢のカレシだ。

 今日も最高にロマンチックなデートをして。

 でも、なんでだろう。

 どこか心にぽっかり穴があいて。

 隙間風が吹く気がする。

 満たされてるはずの今、たまらなく寂しい気がするのは。

 なんで?

 ふいに、ラインの着信音がなる。

 メッセージは一文。

 “部屋の外で待ってる”

 ジョニーのものとはだいぶちがう、飾り気も素っ気もない事務的な文章。

 ただの、知っている子からの、メッセージが、どこか懐かしくて。

 焦がれるような痛みすら感じて。

 気が付いたらヘッドから立ち上がって、部屋を出ていた。

 メッセージの主は会うなり、紫のバラのヘアピンを差し出した。

「忘れ物だ。このあいだギムナジウムにきたときの」

 うけとって笑顔を返す。

「探してたの! ありがと、マーティン」

「カレシにもらったものなら、もうなくしたりするな」

 受け取るとき――その言葉にふと違和感がよぎる。

 そう、これは、カレシにもらったものだ。

 ジョニーに、どういう場所で、もらったんだっけ……?

 また、心に冷たい風がふいた。

 やだ。

 大事な想い出を忘れるなんて。

 あたしって最低だ。

「どうかしたか?」

「ううん」

 思考を現実に戻さなくちゃ。

「それより、マーティン、夏休みは実家に帰るんじゃなかったの?」

 なんでもないように、彼は言った。

「汽車を一本遅らせることくらい、わけない」

 でも、その目が、泳いでる。

 相変わらず、嘘に慣れてない。

「ううん。家族思いのマーティンのことだもん。一刻も早く帰りたいはず。ヘアピンを返してくれるのだけが目的だったら、ジョニーに託したっていい」

 まっすぐに、あたしはカレの目を見た。

「なにか、あたしに用事があるんじゃないの?」

 かんねんしたように、マーティンはあたしを見た。

「もも叶の言う通りだ。たしかに、用があって来た。……でも、もういいんだ」

「なにそれ。話があるそぶりを見せて寸止めとかやめて。優柔不断な男子ってイチバンモテないの知ってる?」

 ぴくりとマーティンの頬がひくついた。

「きみと違って考え深くて悪かったな。熟考を重ねた結果、話を持ち出さないという選択が最善だという結論に至ったんだ。時間をかけて考える能力は算数や国語にも基本だ。もも叶も今から身に着けたほうがいいと思う」

 すらすらと言われる言葉がちょっとむかつく。

 なんでそこで算数国語がでてくるの?!

「悪ござんしたね。たしかに算数はからきしだけど、こないだの読解はまぁまぁだったんだから!」

「だから、そうやってすぐ怒る短絡的なところが――!」

「怒ってるのは、マーティンもいっしょでしょ!」

 たたみかけるような会話のあと、きっとにらみあって。

「――ぷっ」

「あはは」

 どちらからともなく、笑い出した。

 ヘンなの。

 腹が立つのに、楽しい。

 何度もしたような気がするの。

 こういうやりとりを。

「僕もだ。きみのことは、ずっと前から知ってる気がして」

 それからこの優しくて、まっすぐなしゃべり方も。

「ジョニーとつきあってることは知ってても、それでも。僕は」

 どきり。

 心臓が、懐かしい音を立てる。

 これは、ジョニーとのデートでも聞いたことのない音。

 続きを聴きたくて、甘い電撃を浴びたように、全身がしびれてる。

 それなのに、彼はふっと自嘲して、

「なんでもない。――伝えないことを、選んだんだった」

 くるりと向けられた背中までもが、やっぱり見覚えがあって。

「もう僕たちは、会わないほうがいい。きみの幸せを、祈ってる」

 待って。

「待って!」

 まるで、引力の強い星にそうされるように、あたしはカレの手をつかんでいた。

「いかないで……」

 ひきよせられるようにその背中にもたれる。

「マーティン、苦しそうだよ。そんな顔のまま、いったり、しないで」

 肩に置いた手に、カレの手が、重なる――。

「苦しんだら、いい」

 その声に、全身のちからが抜けて、振り返る。

 蒼白な顔をしたジョニーが立っていた。

「僕の今までの痛みを、少しは知ってくれても、バチは当たらないと思う」

 その言葉は刃物のようにあたしの心を突き刺した。

「ジョニー。どうしちゃったの。優しいジョニーが、そんなこと」

 マーティンがなだめるように言う。

「もも叶。いいんだ。隠れてきみを呼び出した、悪いのは僕だ」

「よくない!」

「きみもだよ、もも叶ちゃん」

 やっぱりぞっとするほど冷たい声に、彼を見上げる。

 目の前にいるのはほんとうにジョニーなの?

「意地悪だと言われても振り向かせたい。そんな子に、優しくていい人だと言われ続ける苦しみが、きみにはわかるかい?」

 その顔は、泣いているようだった。

「ただ、きみに笑ってほしいだけなのに。心から笑わせられるのは僕じゃないんだと、何度も何度も、ひっかき傷をなぞられる痛みが」

 あたしが、ジョニーを傷つけてる……?

 かすかにわかる事実に胸は痛むけど、それでも、でてくる言葉は一つだった。

「こんなの、ジョニーじゃない。自分の苦しみを人には味わわせたくない。ジョニーはそういう人だよ」

 はっとしたように、ジョニーが顔をあげた。

「ごめん。傷つくって言われても、あたしは、ジョニーのことを誰より優しいって想うのは変えられない」

 彼の手を、そっと握る。

「だからお願い。そんなひどいこと言わないで。マーティンを悪く言われると、すごく悲しくなるの」

「まいったな」

 その身体ごと、抱きしめられる。

「結局いつもこうだ。手ひどくふられてもどうしても嫌いになれない」

 ジョニーがあたしの首筋を、そっとハンカチでぬぐうのがわかる。

 そういえば、そこにけがをしてた気がする。

 やわらかな布につつまれる、優しい感覚。

 彼らしい、紳士的なしぐさ。

「アリス。残念ながら、お目覚めの時間のようだ」

 その心地よさに、そっと、瞳を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る