第3話 恋に悲劇はお呼びじゃないわ!

① 白百合姫の相にご用心

 みなさん、ご機嫌いかが?

 露木せいらです。覚えてくれてる?

 みんなに言ってる趣味はお茶や生け花。

 だけどほんとうにハマッてるのは少女漫画と、青春十八切符の旅。

 それから歴史の勉強が大好きなあたしよ。

 今は学校からの帰り道、二人の腹心の友と一緒に、行きつけの駅前ビルの本屋さん『星降る書店』に向かって歩いているとこ。

 この栞町に引っ越してきてから、毎日が不思議と驚きと、それから物語の香りでいっぱい。

「今日の文学乙女会議は、なに話そうか」

 夢っちがそう切り出した。

 肩の上で切りそろえた茶色がかったさらさらの髪と、両サイドに一部だけ結んで垂らしてる三つ編みが、初夏の風にご機嫌に揺れる。

 相変わらずかわいいわ。

 夢っちは栞町に転校してきて最初にできたお友達。

 夢いっぱいなところがきゅんとしちゃう。

 たまにちょっとぬけてて天然だけど、そこも含めてとってもいい子よ。

 栞町駅ビルに入ってる『星降る書店』の中の少女文学の棚の裏や、『名作の部屋』が、物語の中の世界とつながってるって教えてもらったときには、ほんとびっくりしたわ。

 そこは、メルヒェンガルテンっていう世界で、本の中の登場人物がふつうに歩いてたりするの。

 そこで、物語にまつわる恋の便利グッズやカフェメニューを提供しているかわいいお店が『秘密の花園』。

 毎週金曜日、『秘密の花園』で会議するのはわたしたちの習慣になってるの。

 大部分は会議という名の恋バナなんだけどね。

 はい。わたしたち、三人とも、好きな人がいるんです……。

 わたしの好きな人?

 ……特別に、教えるわ。実はね、今度、彼と嬉しいことが……。

「そりゃ、決まってるよ。今日の議題はせいらの二週間後に迫ったデートについてでしょ」

 きゃっ。ももぽん、声が大きいわ! 

 ポニーテールに今日は、黄色い花びらがクリスタルになってる、ひまわりの髪飾りをつけたももぽんは、おしゃれで元気な、わたしのもう一人の親友。いつもわたしたちを笑わせてくれる、クラスでも人気者なの。

 ほんとうは涙もろくて女の子らしい一面は、あたしたちだけが知ってる秘密。 

「せいらさん、彼とデートの計画は進んでるんでしょうか?」

 うっ。

 ももぽんが手でマイクをつくって訊いてくる。

 そうなの。

 あたしは二週間後、好きな人とデートの約束をしているの。

 彼が、もしあたしが塾のテストで満点を獲ったら、デートしてくれるって言ったから、頑張ったのよね。

「あ、それわたしもすごく気になってたんだ。せいらちゃん、どうなの?」

 夢っちまで……。

「わかった、いいわ。『秘密の花園』についてから話すわ」

 気が付いたらもう、『星降る書店』の自動ドアの前まできていた。

 夢っちとももぽんに背中を押されて、わたしは、『秘密の花園』の入り口――少女文学の棚に向かったの。

 少女文学の棚は、わたしたちがその前に立つと、こっそりと扉のように開いてくれる。光に包まれて歩くとその先には、一件のラブリーなお店がある。ミルクティー色の壁面に、桜色の扉。窓には赤いギンガムチェックのカーテンがかかってる。扉にかかっている白い小さな看板には、こう書いてある――『The Secret Garden』。『秘密の花園』っていう意味ね。

 扉を開けて中へ入ると、優しい茶色のカウンターが奥まで伸びていて、ドライフルーツやキャンディーの入ったカラフルな瓶や、色とりどりのケーキが見えるショーケースが並んでる。その奥で、コーヒーメーカでコーヒーを淹れながら、まとめ髪に縁なし眼鏡をかけた女性店主が迎えてくれる。

「いらっしゃい。そろそろくる頃だと思ってたわ」

 彼女はモンゴメリさんことルーシー・モード・モンゴメリ。あの有名な『赤毛のアン』の作者にして、ここ『秘密の花園』の店主さんなの。今日は深緑色のワンピースドレスの上に真っ白なエプロンが映えるわ。

 こんにちはと彼女にご挨拶しながら、わたしたちはカウンターのとなりに三つ並んだ白いテーブルのうち、一つに腰掛ける。

 そうすると、用意のいいモンゴメリさんはいつも、おしゃれですてきなティーセットを出してくださるの。

 今日のお茶のメニューはなにかしら。

 密かに期待しながら待っていると、出てきたのはピクニックに持っていくような大きな木のかごだったの。

 その中にはレースのランチシートが敷いてあって、一口サイズのドーナッツがぎっしり入ってる。

 モンゴメリさんが持ったいちご柄のポットから、ラズベリーティーの香りが漂う。

「名付けて、ミス・ラヴェンダーのエンゲージリングよ。召し上がれ」

 わたしたちは歓声をあげた。

 さっそく、いただきます!

 甘酸っぱい味が口の中に広がる。

 ドレスの先端みたいに、ひだのあるおしゃれな形の生地に、薄紫のクリームが挟んであると思ったら、これはブルーベリーのクリームだったの。

 リスみたく頬張って、ごっくんした夢っちがモンゴメリさんに言う。

「ミス・ラヴェンダーって赤毛のアンの続編にでてくる、年をとっているけど、すごくかわいい女の人ですよね。アンがラヴェンダーさんの恋のお手伝いをするところ、わたし好きだな。自分の恋そっちのけでっていうのがなんかアンらしくて」

「ありがとう。彼女の婚約指輪の名を持つこのドーナッツは、食べると将来幸せな結婚ができると言われているの。この季節にちなんでお出ししてみたわ」

 なるほど。

 一月に栞町の学校に転校してきてはや半年。

 季節は六月を迎えようとしているわ。

 あ、そうそう、みんなにご報告ね。

 わたしたち、六年生に進級しました。

 学校ではクラス替えなくて、変わらず夢っちとももぽんと一緒なの。

 ほんと、よかった。

 ご機嫌であたしはモンゴメリさんに言う。

「六月といえば、ジューン・ブライド。花嫁さんの季節ですものね」

「十分、ぶらっと?」

 変な言い間違いをするももぽんに、きちっと訂正。

「ジューン・ブライド。ヨーロッパでは、六月に結婚式を挙げる花嫁さんは幸せになれるって言われてるの」

「例年メルヒェンガルテンでも、たくさんのすてきな花嫁さんが誕生するのよ」

 モンゴメリさんの言葉にわたしたち、うっとり。

 メルヒェンガルテンの花嫁さんと言えば、白雪姫やシンデレラみたいなお姫様とか、深窓のご令嬢とか?

 華やかでさぞすてきでしょうね~。

「今度また見にきたいなぁ」

 夢っち、わたしもそれ大賛成!

 でも、モンゴメリさんの眼鏡の奥の目がちょっと沈んだの。

「ところが、今年は盛り上がりがいまひとつなの。今期に限っては、六月にお嫁に行ったら不幸な結婚になる、とかいう妙な噂がたってしまって」

「えっ。そんな噂が?」

「不幸な結婚!? やだよそんなの」

 夢っちとももぽんが真っ先に反応。

 わたしはじっと考えてた。

 火のないところに煙を立てたがる人がいるっていうのは、こっちの世界も一緒みたいね。

「根拠のない噂っていう煙がやがてほんとの火になって炎上を起こしたりするから、ほんと困るのよね」

「せいら、何気怖いこと言わないでよ」

 ももぽんにつっこまれたけど、モンゴメリさんはわたしの言葉に頷いた。

「実はわたくしも少しだけ心配しているの。また厄介な事件が起きなければよいのだけれど」

 そうなのよね。

 メルヒェンガルテンは基本的にすてきなところだけど、物語に危機っていうのは必須なのか、今までも少なからず事件が起こってるの。本を焼いてしまう炎が現れて、夢っちたちはそれを消すのに大変だったらしいし、この間のバレンタインシーズンには、ももぽんの彼が人魚姫に出てくる魔女に捕まっちゃって、わたしたちでなんとか助けたの。

 うーんと深刻にうなっていると、モンゴメリさんがぱんと手を叩いた。

「ごめんなさいね。こんなことを話して。起きてもいないことをあまり用心しすぎていてもしかたがないわ。さ、遠慮なく恋の会議とやらを始めてちょうだい」

 それもそうね。

 わたしたちは、ドーナツを片手に、会議を進めた。

 当番制で、今日の議長はももぽん。

「こほん。ではさっそく文学乙女会議を始めます」

 ここで、あたしも夢っちも拍手。

「えー、本題に入る前に、まずはそれぞれの恋の近況報告から」

 これもお決まり事。

「じゃ、まず最初は……夢!」

 名指しされた夢っちはひっと声をあげた。

「わ、わたしから?」

 当然、と議長ももぽんは頷く。

「せいらから聞いたよ。マーティンを助けてメルヒェンガルテンから帰った夜、夢、マンションに帰らなかったんだって?」

 そうなの。

 ももぽんの彼を助けた夜、本の世界から帰ったあと、夢っちと別れた先でわたしが見たのは、夢っちを必死で探す星崎さんの姿だったの。

 星崎さんっていうのはわけあって夢っちと一緒に暮らしてる『星降る書店』の店主。夢っちの想い人でもあるの。

 翌朝学校で無事に会えて元気そうだったから今までなにも訊かなかったけど。

 少なからず、あたしとももぽんはそのことを心配していたのよね。

「小夏さんに言われたんだ。星崎さんと婚約したから、もう彼はわたしと一緒に住めないって」

 ももぽんが息を飲む。

 実は、わたしはそれを知ってる。

 小夏さんは星崎さんの前からの知り合いの女の人。あの夜、二人が話してるのを少しだけ見ちゃったの。

「だからわたし、お父さんのところへ帰ろうと思って、前に暮らしてた家まで行ったんだけど、やっぱり怖くて、帰れなかった」

「……夢っ」

 たまらなくなったももぽんが、夢っちを抱きしめる。

 夢っちは、お父さんに、何度も殴られたことがあるの。

 星崎さんと一緒にいるのもそのせいなの。

「近くの公園にいたら、星崎さんがきてくれて、婚約したっていうのは小夏さんの嘘だって」

 ほっとしたようにももぽんが夢っちから手を放す。

「『オレの都合なんか考えるな』って。なんかいつもの星崎さんとは、感じが違ってて、ちょっとびっくりして、嬉しかった。それで」

 それで?

「栞町に帰ってくる電車の中でもう一度言われたんだ。『五年後、待ってる』って」

 それはつまり、夢っちが結婚できる年になるまでってこと!

「「きゃーっ」」

 わたしとももぽん、同時に絶叫。

「なーんだ、超順調じゃん。心配して損した!」

 ほんとよ。もう。

「う、うん。順調……かな?」

 あ、あとね、と嬉しそうに夢っちはごそごそと手提げバッグから、一枚のショールを取り出した。

 わっ。

 かわいい!

 薄い紅色の生地に、丸い花びらの赤いバラの花模様が描かれてる。

 「最近電車に乗ったり、お店に入ったりすると、冷房がききすぎて寒いときあるでしょ。そういう話したら、これ、星崎さんが買ってきてくれたんだ……」

 愛しそうにショールを見つめる夢っち。

 萌えだわ~。

「そうだったの。このあいだも羽織ってたけどそれ、すごく似合うわ。夢っちはバラっていうより、かすみ草とかすみれのイメージだったから、意外だったけど」

 あたしの言葉にももぽんも続けて、

「さすが星崎王子。この手のデザインが実は夢にぴったりと見ぬくとは、センスが違うね」

「え。……星崎さん、わたしに似合うって思って選んでくれたのかな――」

 真っ赤なりんごになっちゃった夢っちはほっといて。

「さて、お次は議長の報告を聞こうかしら」

 ももぽんに差し向ける。

「あ、あたし、かぁ……」

 ももぽんは照れながら、スマホを取り出した。

 物語の中の男の子、マーティンくんを悪者から助けたんだものね。

 そのあとなにもなかったとは言わせないわ。

 スマホの画面に映っていたのは、水辺を背景に髪をおだんごにしてピースサインするももぽん。その隣に彼のマーティンが笑って、釣竿を垂らしてる。

「これ、このあいだのゴールデンウィークに、メルヒェンガルテンでデートしたとき。ビュールゼーっていう湖で一緒に遊んで、すごく楽しかったんだ」

 ふんふん、確かにいい感じね。

 あら。でも。これは……?

 あたしは一つ写真の妙な点に気が付いたの。

 夢っちも同じことを思ったみたい。

「ももちゃんが着てる服、なんか男の子のみたいだけど」

 ももぽんはあっさり言った。

「そう。マーティンに借りたんだ。ちょっと大きかったけどね」

 え?

 服を借りたって。

「まさか、彼のところにもうお泊りしたの!?」

 夢っちと一緒にびっくり。だけど、ももぽんは平然。

「いいでしょ、それくらい」

 な、なんなのこの子。

 夢っちもぼーぜん。

 あたしたちが沈黙していると、ぺろっとももぽんは舌を出した。

「うそうそ。湖ではしゃぎすぎて水の中に落っこちちゃって、それでマーティンが着替えを貸してくれたの」

 な、なんだ……。

 ももぽんはちっちっと指を振りながら、

「二人とも、この時期、水遊びでの羽目の外し過ぎには要注意ね」

 って、あんたが言うな。

 つっこんでいると、カウンターからモンゴメリさんが顔を出した。

「そうね。活動的な夏はトラブルも多いわ。念のため調べておきましょうか。」

 調べる?

 モンゴメリさんはさっとエプロンのポケットから金の縁の眼鏡を取り出して、いつもの縁なし眼鏡と取り換えた。きっといつもの不思議な便利グッズね。

 その目でわたしたち三人をじっと見る。

 しばらくそうして、眼鏡をもとのものに戻してから、モンゴメリさんは一言。

「せいら。気を付けて。ほっぺたに白いユリのマークが見えたわ」

 へっ?

 あたし?

「それ、どういうことでしょうか?」

「『白百合姫の相』と言ってね」

 ここでいつものごとく、文学に詳しい夢っちが手を挙げた。

「わかった。赤毛のアンが、白百合姫ごっこをしてボートに横になるあの場面ですね」

「あ、あたしもそれなら知ってる」

 ももぽんが続ける。

「アンの乗ったボートには穴が開いていて、大きな川に沈んじゃうんだよね」

 ……。

 ぞ~っ。

「そうなの。平たく言うとこれは水難の相でね」

 モンゴメリさん、それを早く言ってちょうだい。

「水辺にはあまり近寄らない方がいいわね」

 そ、そんなぁ……。

 きっと今、あたしは悲劇の白百合姫のように蒼白に違いないわ。

 ふらふらしながら、ぽつり呟く。

「今度の彼とのデート場所、海なの……」

「え、マジ!?」

「おぼれちゃったりしたら大変!」

 ももぽんと夢っちが言って、ぶるぶる。

「あ、でも」

 夢っちがなにかに思いついた顔をする。

「柱に飛び移ったアンを、ボートで通りかかったギルバートが、助けてくれるんだよね。もしかして『白百合姫の相』って、そういうラッキー運も含んでたり」

 ……なんですって。

 モンゴメリさんがどこか悔しそうに微笑んだ。

「ばれてしまったのなら仕方ないわね。ほんとうは、せいらが体験してからのお楽しみにしようと思っていたのに」

 いいえ、モンゴメリさん!

 そんな予告、願ってもないわ!

 ただでさえ、デートで緊張してなんかやらかすんじゃないかって気が気じゃないんだもの……。

 わたしはラズベリーの香りに包まれて、一人想像を膨らませる。

 おぼれて息の止まったわたしを、彼ならどうするかしら?

 きっと、助けてくれるわ。

 ――口から、息を拭きこんで……。

「あたし、やっぱり海に行くわ! なんとしてでも行くのよ!」

 ガタンとたちあがったあたしを、夢っちとモンゴメリさんが驚いて見てる。

「せいら、妄想しすぎ」

 今度は逆に、ももぽんにつっこまれてしまったわ。

 「あら。七度三分。今日は海に行くお約束、お断りした方がいいかもね」

 ベッドの外で、体温計を見ながら母さんが言う。

 今日は彼とデート当日。

 なのに、風邪って……!

「お母様」

 がばっと起き上がって、あたしは母さんの前にひざまづいた!

「あらあら。だめよ、せいら。今日はゆっくり寝ていなくちゃ」

「お願いです! せいらの後生のお願いですから、今日だけは行かせてくださいまし!」

 母さんは困ったようにほっぺたに手を当てた。

「でもねぇ。途中で具合が悪くなってしまったら夢っちさんにもご迷惑でしょうし」

 母さんには、彼と会うこと、夢っちと遊びに行くって言ってあるの。

 昨日『秘密の花園』で、そういうことにしてくれって頼んで、本人は了承済みよ。よい子の見本のような夢っちと出かけるって言いさえすれば、母さんすぐ納得してくれるの。

『ねぇせいら。なんであたしには頼まないの?』

 って、ももぽんが多少不服そうだったけど、これには目をつぶってもらうしかないわね。

『神谷先生とのデートをわたしと出かけることに? どうして?』

 一方、夢っちは始め、不思議そうに訊いてきた。

『塾の先生がデート相手なんて、そんなのいけませんって、お母さんに言われちゃうんだ』

 ももぽんがずばり言うけど、残念ながらはずれ。

 真実はその反対なの。

 もし、あたしのデート相手のこと、母さんに知れたら……。

『まぁぁ。せいらが塾の先生を。母様は応援しますよ。それで、結婚の申し込みはしたの? こういうのは早い方がいいのよ。なんなら、母様が交渉してあげましょうか。せいらは持参金って知っている?』

 知ってるわよ……。

 あたしは想像の中で大興奮する母さんに答えた。

 花嫁さんがお嫁に行く先に持っていくお金のことでしょ?

『あなたに持たせられる金額を提示すれば、きっとどんな方もいやとは言えないはずよ。せいら、なんとしてでも、想う人の愛を勝ち得るのよ!』

 やめて、お母様。そんなの、だめよっ。

 あたしは頭の中の母さんに、叫んだ。

 あたしは、あたしのお金じゃなくて、あたしのことをかみやんに好きになってもらいたいの。

 お願い、余計なことしないでっ。

 叫ぶあたし。ジ・エンド。

 わかってくれたかしら?

 てなわけで、恋のことは絶対母さんには秘密なの。

『そっか……なんか、大変だね。わかった。いいよ。当日はわたし、せいらちゃんと遊んでることにする!』

 って、せっかく夢っちも協力してくれたのに、それを無碍にするわけにはいかないわ!

 あたしは、母さんの手を握った。

「もし今日行かせていただけるのなら、わたし、六畳(ろくじょうの)御息所(みやすどころ)の生霊に取りつかれてもかわいませんわ」

 六畳(ろくじょうの)御息所(みやすどころ)っていうのは『源氏物語』に出てくる女の人。モテ男の光源氏が好きすぎて、彼に愛されてる他の女性に生霊になってとりついて、殺しちゃうの。

「体調が悪くなったら、すぐに帰ってくることを、お母様のくだすったこの小公女の名にかけて誓います。だからお願い……!」

 あ、そうそう、あたしのせいらっていう名前は、『小公女セーラ』っていう有名な本からきていて、結構気に入ってるの。補足説明。

 母さんはしばらく、結い上げた髪を傾げて考えて、とうとう、

「そうねぇ……せいらがこんなに言い張るなんて、珍しいことだしね。そこまで言うのなら」

 いってらっしゃいな、と言う母さんの顔が、阿弥陀如来に見えるわ……(仏様のことね。補足説明その二)。

「あぁお母様。せいらは、お母様の娘で幸せでございます!」 

 あたしは母さんに抱き着く。

 この言葉は嘘じゃないわ。

 ちょっとおせっかいすぎるところもあるけど、結局あたしのこと想ってくれてるんだもの。

「まぁまぁなんですか。小さい子みたいに」

 ぽんぽんとあたしの背中をたたいて、母さんは言った。

「でもほんとうに、辛くなったらすぐに帰るのよ」

 は~い!

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