⑫ 謎めくケストナーおじさんの想い

 ももちゃんと別れた帰り道、星降る書店のある駅ビルの前をいそぎ足で通ったとき、急に、誰かに呼ばれたような気がした。

 立ち止まって、赤いカーテンで飾られたショーウインドーを見る。

 気のせいかな。

 もう一度歩き出そうとして、止まった。

 ちょっと、寄ってこう。

 新しい本が入ってるかもしれないし。

 急にそんな気持ちになったの。


 フェアの書棚の前で忙しそうに届いた本を配架してる星崎さんには今日は声をかけないでおこうと思ってそっと通り過ぎようとしたけど、

「あ、夢ちゃん来たんだね」

 気づかれちゃった。

「クリスマスのディスプレイ、きれいですね」

 クリスマスにちなんだお話が集められていた。『賢者の贈り物』とか、『クリスマス・キャロル』、もちろん『飛ぶ教室』もある。

 一つ、深呼吸して、わたしは思いきって話し出した。

「『瓶の悪魔』、すてきでした! はらはらしたけど、恋の物語って感じも出てて」

 あははと星崎さんは笑ってくれる。

「やっぱり夢ちゃんにはすぐわかっちゃうんだね」

「ここにはほかにもすてきな本がいっぱい。わたしもたまには買ってみたいなぁ。でも」

 わたしはきれいな花畑が描かれた本をひっくり返す。

「本一冊ってこんな高いんですね」

「お父さんかお母さんに、クリスマスプレゼントにおねだりすればいいんじゃない」

 うん……。それは多分、できないかな。

 読んだとき抑えたページで本が自然に開くように、星崎さんの言葉でわたしの心の普段誰かに言わないページが開いたみたいだった。

「お母さんは、本なんてくだらないって言うんです。物語を買ってくると、すごく怒って。……今は一緒に暮らしてない、お父さんも」

 おどろいたように、星崎さんは一瞬こっちを見た。

「夢ちゃん」

 棚に手を戻しながら話す星崎さんの声はいつもより少しだけ低い。

「もしかして夢ちゃんは、本のことだけじゃない。いろんな言いたいこと、ぜんぶお父さんとお母さんに言わないで、がまんしているんじゃないかな」

「……二人ともお仕事が大変だから。わたしは黙って、いうことをきかないといけないんです」

 強い風に吹かれてページがはためくように、心の中でSOSを叫ぶ声が聞こえる。

 違うの、星崎さん。

 ほんとはそんないい子じゃないんです、わたし。

 ただお父さんが怖いの。

 怖くて、なにも言えないだけなの……!

「言いたいことを、お父さんやお母さんにさえ言えないっていうのは。それは、怖いことなんだ」

 ぎくりとした。

 心の叫びを星崎さんに聞かれたような気がした。

「ケストナーもね、自由にものを書くこと――執筆をナチスから禁じられていたんだよ」

 ナチスっていうのは知ってる。

 昔のドイツの政党なんだ。ユダヤ人っていう特定の民族の人たちをたくさん捕まえて殺したり、酷いことをしたの。ユダヤ人の女の子が、ナチスから逃れるため隠れ家で書いた『アンネの日記』に出てきた。

 ナチスって、ほかにもそんなことをしていたんだ。 

「子どもや弱いものの立場に立って考える見かたは、ナチスにとって都合が悪いからだ。

 そんなふうに、みんなが書くことや言うことを制限されていたら、そして、一つの考えを強制されていたら、どうなると思う」

「言いたいことを言えなかったら……」

 今のわたしのことを星崎さんが言ってるってことはわかった。

 お母さんが言うように本なんてくだらないって。

 そういうふうに思ってるようにふるまわなきゃならないとしたら。

 わたし、どうなっちゃうだろう。

 ももちゃんとした楽しい会話も。

 星崎さんに本を預かってもらった大事な想い出も。

 ぜんぶ、ばかばかしいものだって言われたら。

 わたしは、それでも毎日をがんばろうって思えるかな……。

 考えてみたら、アパートの片隅にぼうっと座り込んでる女の子が浮かんできた。

 その子の目にはなにも映ってない。

 考えることをやめちゃったみたい。

 周りには悲しいことばかりだから。

 仲の悪いお父さんとお母さん。

 寂しいとき慰めてくれる物語を、その子は知らない。

 本についてお話しする友達も、すてきな本をプレゼントしてくれる大好きな人もいない。

 わたしはぶるっと震える腕を抱きしめた。

 その女の子は、わたしだ。

 本を読むことが許されない世界の、わたし。

「つらい」

 想像するだけで泣いちゃいそうだった。そうだね、と星崎さんが頭をなでてくれる。

「つらいね。それだけじゃなくて、病気になってしまうことだってあるとオレは思う。

それでもケストナーはほかの国に逃げずにドイツに留まったんだ」

「どうしてですか」

 さぁ、どうしてだろうねと星崎さんは最後の一冊を棚にしまった。

「でもそういう行動をとったっていうケストナーの伝記や文章を読むとき、いつもそこに救いがあるような気がするんだ」

 救い、かぁ。

「だから夢ちゃんも、言いたいことは言わなくちゃ、ね」

 星崎さんにそう言われて、わたしはきちんとお返事できなかった。

 じっと考えこんでしまったの。

 書きたいことも書けない。誰かの考えをそのまま、自分の考えにしなきゃいけない。

 そんなひどいところに、ケストナーおじさんはどうして、居続けたんだろう?


 星崎さんと別れて、『名作の部屋』に行った。本棚を眺めていて目の止まったのは、『ふたりのロッテ』。

 ケストナーおじさんの本の中でも、もともと大好きな物語だけど、また読み返したくなって、手に取ってみたんだ。

 たまたま開いたのは最後のほうのシーン。ロッテが高熱で寝込んでるところ。

 お母さんと離婚したお父さんを、仲直りさせようとがんばってきたロッテだったけど、なんとお父さんは、別の女の人と結婚しそうなんだ。

 どうしようって悩んだロッテはとうとう病気になってしまうの。

 その部分を読んだわたしは、まるで自分まで病気にかかってるみたいに気分が悪くなってきちゃった。

 暑い……。お店の暖房と照明のせいかな。

 変だな。

 ここにいてこんなふうに感じたことなかったのに。

 今日はもう帰ろうかな。

 わたしはくるっと向きを変えた。

「純真な女の子には随分な試練だろう。それを与えるのは心苦しくてね。それでも、僕のロッテちゃんは、勉強しなければならなかったんだ。自分の気持ちを表現することは、生きていくうえで大切なことだってね」

 すぐ後ろに、ケストナーおじさんが立っていた。

「ケストナーおじさん。いいの、こんなところにいて。正体がばれちゃったら大変じゃ」

 ははは、とケストナーおじさんは笑った。

「こう見えて群衆に紛れるのは得意でね。これまでもときどき、自分の書いた物語の世界を旅してきたことがあるが、そこで出会った登場人物たちに作家本人と気づかれたことはないんだよ」

「そういえば……」

 ケストナーおじさんの本を読んでいて、確かに、ケストナーって人が出てきたことがあるけど、そのとおりなの。ケストナーおじさんはうまく、物語世界に溶けこんじゃってたっけ。たとえば、お金を盗まれて困ってる男の子の電車代をスマートに支払ったり、作家志望の男の子に物語を書くアドバイスをしたり。

 そう言うと、ケストナーおじさんは照れたように頭を掻いた。

「一生懸命な主人公が危機に見舞われると、作者としてもつい助けたくなってしまってね」

「ってことは、今も、誰かを助けに伝記から出てきたの?」

 さぁ、それはどうかな、とケストナーおじさんは笑った。

「ただ、ブーフシュテルンが騒ぎ出してね。いつもはゆったりと輝いているのに、近頃ちかちかと、切羽詰ったように光っているんだ。まるで、本好きな誰かの危機を報せるように」

 大変。

 だったら助けなきゃ。

 本好きな誰か?

 それ誰だろう。

 ケストナーおじさんは、わたしの肩を軽くたたいた。

「彼、心配していたよ。君のことを」

 え……。

 斜め上から、ケストナーおじさんはウインクする。

「なかなか見どころのある青年に恋したね、君」

「星崎さんと話したの?」

 まぁちょっとね、とケストナーおじさんは目を細めて、

「お客のふりをして、『ドイツの偉大な作家の本のありか』を尋ねたら、すぐに友達になれた。僕のことをすばらしい作家だって。文学がわかるようだ」

 そう。

 星崎さんも、ケストナーおじさんのファンだもんね。

 『ファビアン』とか、大人向けの本も読んだんだって。

 今はむずかしいけど、わたしもいつか大人になったら、読んでみたいなって思ったの。

「僕も、夢ちゃんっていう女の子のお友達なんだって君のことを話題に出したら、寂しそうにしてた。『あの子は、大変なことや傷ついたことをなかなか話してくれない。気を遣っていつも楽しそうにばかりしてる』って」

 星崎さんが、そんなこと。

 楽しそうに、って、このあいだのことかな。

「わたしこの前は、ほんとうに楽しかっただけで」

「そうかもしれないね。でも、彼の言うことも一理あると思わないかい」

 うーん。

 気を遣ってる、とかそんなつもりはないけど……。

「さっきだって、つい星崎さんにつらいこと、お話ししちゃったし」

 ケストナーおじさんは大きな目がほとんどなくなるくらい細めて笑った。

「普段心をせき止めているからなおさら、好きな人の優しさを逃さず掴みとってしまったんじゃないのかな」

 わたしは考えてみた。

 確かに、欲しいものとか、自分がほんとうに言いたいこととか、あんまり言わないかもしれない。

 それを言うと、お母さんが困ったり、友達がいやな気持ちになっちゃうんじゃないかとか、怖くて、それならがまんしたほうがいいやって思うことが多いかも。

 ちらとわたしは首にかっている瓶に目をやった。

 だから、モンゴメリさんにこのジュースをもらったんだよね……。

「僕のロッテちゃん、いや夢ちゃん」

 名前を呼ばれて、はっとして振り向いた。

「君も、何かを勉強することが必要かもしれないね」

 ケストナーさんはまだ優しい笑顔だったけど、立派な眉毛が少しだけ、さがって見えた。 

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