忘れても、確かにそこにあるもの

足駆 最人(あしかけ さいと)

本文

土間から、重たい開き戸を開き、庭の砂利を踏んだ。

久しぶりに見た祖母の家の庭の景色はどこか寂しさを感じた。

昔はエンドウマメやヒマワリなどが植えられていて自然豊かだった庭にはもう何も無い。

今日私は、祖母の家を訪れていた。

この家が造られてからもう百年は経つらしい。

この暑い夏から身を守るクーラーがない。

完全な木造建築。

土間にある二層式洗濯機。

伝統があると言えば聞こえがいいが、ただの古い家である。

そしてこの家が取り壊され、新たな広い道が出来る事になった。

なので、親戚が集まって祖母の家にある荷物を片付けることになったのだ。


「あっつ…」


額を流れた汗を肩にかけてあったタオルで拭う。

社会人になって一年目のサラリーマンの私からすれば、仕事の事で精一杯だったので、運動不足が体に疲労感を伝える。

庭で風にあたるために外に出たが、涼しい風は吹かなかった。

太陽が眩しく庭を照らす中、鈍く光を反射する場所に私の視線がいった。

その場所には錆びだらけだが、所々にまだ金属光沢の残った鉄のバケツが逆さまに置かれていた。

記憶を思い巡らしそのバケツに近づき、ひっくり返した。

そこには細い木の切り株があった。

懐かしい記憶がだんだんと蘇る。

祖母と話した色々な事や、ここにあった蜜柑の木の事を。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


祖母のポテトサラダは世界一である。

幼少期から現在まで、今までこの思考が変わった事はない。

祖母の家の庭で取れた、じゃがいもときゅうり、にんじんとハムを切ってマヨネーズで味付けする。

食べる時にはウスターソースをかけるのだ。

私はこのポテトサラダが大好きでどのくらい好きかと問われれば、スーパーなどのお惣菜にポテトサラダがあればそれは絶対に買わないほどだ。

あの日も私は祖母のポテトサラダを食べていた。


「それだけでいいんか?他に何かいるか?」


「ううん。大丈夫」


この時、私は小学校低学年の冬。

母に祖母の家に荷物を届けて欲しいと言われて、荷物を乗せて自転車を漕いだ。

祖母の家に着いて、荷物を渡すと「ポテトサラダあるけど食べるかい?」と聞かれ、私は喜んで大きく頷いた。

祖母のポテトサラダはたまにしか食べられないのだ。

だから、食べられた日はとても運がいいのだ。

ウスターソースをポテトサラダにかける。

白いポテトサラダに茶色いソースをかけて、箸でつまんで食べる。

口に強いウスターソースとマヨネーズ、新鮮な野菜の味が広がった。

それが幸せなのだろうなと、子供ながらに感じることが出来る。

食べているとすぐにポテトサラダは無くなってしまう。

ポテトサラダがなくなると、祖母は大きなみかんを出してきた。


「これあげるから食べい」


「わかった。ありがとう」


私は祖母からみかんを受け取って、皮をむいて一欠片食べる。

口に含んだみかんのかけらを咀嚼すると、果汁が溢れた。

すると、妙な感触を覚えて、私は思わずその異物を吐いた。


「蜜柑の種はちゃんと吐きい」


祖母にそう言われて、私はこの時初めてみかんの種の存在を知った。

今まで食べたみかんの中にはこんなものは入っていなかった。

私は種無しのみかんしか食べた事がなかったのだ。


「種って事は植えたらみかんができるの?」


私は小学校でアサガオの種を植えた事があり、アサガオの種を植えたらアサガオの花が咲く事を知っていた。

つまり、みかんの種を植えたらみかんの花が咲くのだろうと思った。


「蜜柑はできるな」


「ならこの食べてるのはお花なの?」


「いや、それは実だ。花に守られてできたのを今食べてるんだよ」


そう言って祖母も、私のよりはひと回り小さい蜜柑の一欠片を食べた。

それを聞いた私はみかんを食べる手を止めた。


「みかんの花が大切に守ってきたものを勝手に食べちゃ駄目なんじゃないの?」


私がそう祖母に聞くと、祖母はまた一つみかんを一欠片食べるとこう言った。


「それが仕事なんだよ」


「仕事?」


「そう。花が実を大切に守ってくれたおかげで、その実は私達が生きるために大切な物をくれるんだよ」


「そうなんだ」


私はその話を聞いてまたみかんを食べ始めた。


「しっかり働いて何かに繋げる。今この世にいる誰かかもしれないし、未来の誰かかもしれない。わからなくても大事なことさ」


「そっか…」


そう話しているうちに最後のみかんの欠片を口の中に入れた。


「ならこの蜜柑達のために一仕事しようか」


「え?」


祖母は立ち上がり、みかんの種を皮に包んで庭に出て行った。

私も同じようにして祖母の後を追った。

庭に出ると、祖母は庭の端の平地のところにみかんの皮と種を置き、道具置き場に向かってスコップを取り出す。

私が平地の所へ行くと、祖母は指を指して言った。


「スコップでここを掘り」


私は祖母の意図を理解した。

私は言われるがまま、土を掘った。

そして祖母はそこに私と祖母のみかんの種と皮を入れた。

何故皮を入れるのかは私はわかってはいなかったが、不思議と質問はしなかった。

そして、丁寧に土を被せる。


「いっぱいみかんできるかな?」


「さあね?毎日水ぐらいはやっといたるよ」


そう言って祖母は立ち上がる。


「さっき、私達は栄養の為に蜜柑を食べた。そして今、蜜柑の成長の為に私達は種を植えた。世の中もこういう風にできているんやからな。覚えておき」


「わかった」


私はこのみかんの種が芽吹くのを祈った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


祖母は簡単に言えばあまり人に好かれるタイプの人間ではない。

気が強く、口調が荒い事から人を寄せ付けない感じだ。

だが私自身は特にそう感じる事はなかった。

祖母の家に行くといつも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

それゆえに幼少期の頃から、優しい祖母として私の瞳に映っている。

確か私はその日も私は祖母の家に行った。

小学生高学年の頃だ。

みかんの種は芽を出し、少しずつ伸びていった。

その頃は数十枚の葉を生やし、時々しか見ない私からすればまた大きくなったなと思うばかりである。

いつものようにみかんの成長を見て、ジョウロで水をやる。

種を植えてからの私のお決まりだった。

しかし、今日はいつもと違った。

複数枚の葉が所々欠けていたのだ。

そして、見慣れない生物がいる。


「わあ!!」


私は驚いて尻もちをついた。

緑色の五センチくらいの生き物がいる。

何かの幼虫だと私は思った。

私は虫が苦手なので驚いてしまった。

すると、私の驚いた声を聞いたのか祖母が庭に出てきた。


「なにかあったのかい?」


私が幼虫を指差すと、祖母はこちらに近づいてみかんの木を覗き込んだ。


「ああ、アゲハチョウの幼虫が孵ったのかい。最近卵があったから産まれたんだろうね」


よく見ると、みかんの木の葉の裏には黄色い粒が複数ついている。

祖母はそれだけ言うと、家に戻ろうとする。

私は祖母を止めた。


「このままじゃみかんの木が食べられちゃうよ。どこかにやった方がいいんじゃないの?」


私は正直に言って気持ち悪かった。

私は虫が嫌いでよく友人たちにいじられる事も多々あった。

私の心中はこんな気持ち悪い生物が、少しずつ育ってきたみかんの木についているのが不愉快だったのだ。


「いいんだよ。さあ、部屋に戻ろう」


私はみかんの木に振り返ってもう一度その緑色の奴を見た。

しかし、自分で触ることもしたくはないので祖母を追うしかなかった。


「いいかい、よく聞きな」


隣にたどり着いた私に、祖母はこう言った。


「すべての生物には生きている時には、自分が一番輝いている時があるんだよ。それは一度きりかもしれないし、何度でも輝けるかもしれない」


祖母は歩く足をゆっくりにする。


「蜜柑の木は成長に成長を重ねたら花が咲く一番輝いている時がくる。そして、季節が来れば何度でも輝ける」


祖母は私の肩に手を置いた。


「アゲハチョウは成長すると、綺麗な羽を持った一番輝いている時がくる。けれど、羽が生えてもそのあとは死んでしまって、もう輝く事はない」


私は祖母の顔を見る。

祖母はどこか遠いところを見ているような気がした。


「輝く為には、種だったり、幼虫だったり、輝いているとは言えない時が必ずあるんだよ。その間にいつか輝く為にたくさん頑張るんだよ」


そう言われて、私は後ろを振り返る。

私が気持ち悪いといった彼らも、一生懸命食べて頑張って、美しいチョウになって羽ばたくのだ。


「だから、あんたもいっぱい頑張ってより多く、より長く輝けるようになりなさい。私が言えるのはそれだけだよ」


「わかった」


私はみかんの木のもとに走ると、また木の前にしゃがむ。


「ごめんな、お前らも頑張れよ」


私は緑の努力家達にそう言うと、また祖母の所に戻った。

数ヶ月後、私は綺麗な羽で飛んでいるアゲハチョウを見た。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


人とは悲しいもので時が経てば、なにかを忘れていくものだ。

私は祖母の家に行くたびに水をやっていたが、いつからかそれを忘れるようになり、祖母の家に行くこともそこそこ減った。

祖母の家に訪れても、もう庭に出ることもなくなった。

いつしか私は中学生になり、勉強に部活などさまざまな出来事に多忙になった。

それだけでなく、新たな友人もできて、恋もした。

祖母の事を考える時などほとんどなかったのだ。

その日、私は久しぶりに予定が何もない一日だった。

誰か暇そうな人を遊びに誘うか、家でゆっくりするかを考えていると、家の電話が私を呼んだ。


「取れた野菜があるから、取りにおいで。ポテトサラダも作ってある」


相手は祖母だった。

久しく、祖母のポテトサラダも食べていなかったので私は了承し、自転車を漕いで、祖母の家に向かった。

祖母の家に着くと一つ驚いたことがあった。

家の前のアスファルトが新しくなっていた。

いつも自転車ががたがたする道だったのだが、とてもスムーズに自転車が動く。

変わっていく景色に少し寂しさを感じつつ、私は祖母の家の扉を開いた。

祖母に挨拶をした。

祖母に招かれ、指された所に座る。

そしてポテトサラダを食べながら、祖母と一緒に荷物の確認をした。


「これを見ておくれ」


「ん?」


祖母がこちらに右手の小指を見せてくる。

祖母の小指はぐにゃりと不気味に曲がっていた。


「いつのまにかこうなっていてな、指を使って荷物を取るのが大変よ」


そういうと、祖母は立ち上がって庭へ向かう。

私は祖母になんとも言えない気持ちを抱えた。

今までの祖母の人生の疲れが体に現れてきたのだろうかと思った。

あの曲がった祖母の小指は祖母の体の一部であり、祖母自身を体現したものなのだ。

私は立ち上がり、祖母に言った。


「庭に干している布団。俺が取ってくるよ」


「いいんかい?ありがとうな」


私にはこんな事しか、祖母にはしてあげられないと思う。

ただ少し祖母の助けになればと思った。

私は庭に出る。

布団をといでるとふと、みかんの木を見た。

いつのまにか、また背丈が伸び、大量の緑の葉っぱをつけていた。

そういえばこの前、みかんは漢字で蜜柑と書くことを知った。

私は祖母にとっての蜜柑になりたいと思った。

頻繁ではないが育った蜜柑を時々食べて栄養を摂取するように、時々でもいいから、祖母の役に少しでもたてればいいなと思った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


暑い夏なのにどこか涼しさを感じさせる午前五時。

私はセットしていたアラームで目を覚まし、簡単に身支度を済ませて家を出た。

今日はお盆初日。

祖母に頼まれて墓参りについて行くことになった。

自転車を漕ぎながら空を見上げると、うっすらと明るくなっていた。


「こんな朝早くからわるいなぁ」


今日の祖母の第一声はこれだった。

私は祖母が出てくるのを待っていると、庭にある蜜柑の木が見えた。

かなり大きくなってきてはいるのだが、花は咲かず蜜柑の実を作ってはくれない。

そんな蜜柑の木を私はじっくり見ていた。

しばらくして、祖母は墓掃除の荷物を持って家を出る。

私はお供え用の花を持って祖母の隣を歩いた。

祖母と時々会話しても、無言の時が多少なりともあった。

その時に感じる風の音と騒がしくない虫の鳴き声が心地よかった。


「じゃあ水汲んでくるよ」


私と祖母が墓につくと、私はいつものように行動した。

蛇口があるところに行って、その場にある公共のバケツに水を入れて墓のところに持っていく。

バケツに水を入れている間、私は周りを見た。

人もそこそこいて、皆が掃除をして墓にお参りをしていた。

水が溜まると、祖母のところにもっていく。

そして祖母は水で掃除をし、花を添えた。

私はマッチで新聞紙に火をつけ、そっと線香を燃え続ける新聞紙に近づけた。

ゆっくりと白くて細い煙が上がる。

私は手で仰いで火を緩やかにし、墓に添えた。


「さあ、参ろうか」


祖母はそう言ってしゃがみ、手を合わせて目を閉じた。

私も祖母と同じようにした。

祖母は何かボソボソと喋っていた。

しばらくすると立ち上がり、墓を後にした。

そして帰り道。

祖母は私にこんな事を言った。


「大切な物は失ってから気づくっていうだろう?」


祖母の問いかけに私は頷いた。


「そして、自分以外に今を大切にしなさいと言っても無駄なんだよ。結局、大切にしない。何を言われようとも、人は後悔をしなきゃ大切な物に気がつけないんだよ」


なるほど。

と、私は思った。

考えた事も無かったからだ。


「だから人間ってのは後悔すればするほど優しい人間になると私は思うんだよ。それが本当にいい事かどうかはわからないけれどね」


確かに、出来るだけ後悔という物はしたくないものだ。


「だから、一度の後悔をどれだけ自分にとっての大きな物にするかが大事だ。後悔しないように生きて、後悔したら自分の物にする。それができたら周りの人に好かれて楽しい人生をおくれるはずだよ」


祖母の家に着くと、私は冷たい麦茶を飲んだ。

そして、早起きをしたせいか私は大きなあくびをした。


「朝早くだったからね。少し横になりな」


私は布団に寝転んだ。

祖母が私に扇風機を向けてくれる。

この家にクーラーはない。

けれど、風通しの良い木造の家と、扇風機の柔らかな風は涼しく、とても心地よいものだった。

そして、祖母の鼻歌のようなものが聞こえてくる。

私の意識は微睡みの中に落ちていった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


数ヶ月後、祖母から蜜柑の木を切ったという報告を私は聞いた。

私はその時、特に何も感じることはなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私は祖母の家の近くにあるそこそこの進学校に入学した。

それゆえに祖母の家に一週間に一度、行くようになった。

何故頻繁に行くようになったのかと言うと、一番の理由が祖母の老化である。

祖母は少しずつ体が弱くなり、ボケはじめたのだ。

今は立って歩く事ができるが、長いこと歩くことは出来ないので祖母が買い物に行くこともなくなった。

それに電気をつけっぱなしにしたり、鍵を閉め忘れたりする様になった。

それに買い物にも行けない。

一時期、祖母を老人ホームに入れようという話が上がったが、祖母は猛烈に反対した。

今は、スーパーの食品配達などを使用して祖母は食事を作ってくれる。


「ほいよ」


祖母は冷えた麦茶を冷蔵庫から出してくれた。

置きっぱなしにしているとすぐに水滴が溜まるので麦茶をコップに注ぐとすぐに冷蔵庫に

しまう。

けれども、冷蔵庫は僅かな隙間を作っていた。


「おばあちゃん。冷蔵庫開けっぱなし」


「あれ。閉めなかったっけ?」


そう言って祖母は冷蔵庫を閉めた。

何故だか私は切なくなる。

小さいときに見ていた祖母。

父よりも圧倒的に小さいその背中には何よりもたくましく、そして強いものが見えていた。

今はそれが霞んでしまって見えなくなっている。

それがもどかしくて、辛い。

その内には祖母に自分のことすら忘れられてしまうのかと思うと恐怖に竦んでしまう。

だから、頻繁にここにきてしまうのだろう。

何も変わらないとわかっているはずなのに。

私は祖母が作ってれた素朴な食事を食べた。

若い私からすれば、何か少し物足りないような食事だ。

せめてポテトサラダもあればよかったが、もういつから口にしていないかわからない。

庭で育てていた野菜も今はもう育てていないのだ。

そして私はふと思いいたり、食事を終えると祖母に一言声をかけた。


「ちょっと庭に出るよ」


祖母は、はて?と首を傾げた。

しかし、すぐに。


「あいよ」


と祖母は言った。

私が何故外に出ようと思ったのか祖母なりに理解したのだろうか。

私は立ち上がって、庭に向かう。

奥にあった、そこそこ大きかった蜜柑の木の姿がもうなくなっていた。

蜜柑の木は花を咲かさず、実もつけなかった。

それに植えた場所が悪かったのか隣の家の人からの苦情で切り倒したのだった。

そこには今は銀色の金属光沢のないバケツが逆さまに置かれている。

私はそのバケツをどけた。

「……」

太い切り株が残っている。

私と祖母が植えたあの小さかった蜜柑の種子たちはこんな太さの木になっていたのかと思う。

そうして少し考えた私は、自身の今までの行動に落胆した。

もっとこの蜜柑の木をしっかり面倒を見ていたらどうなっていただろうか。

花を咲かし、実をつけ、次の世代へと繋げたのだろうか。

私の行動に既視感を感じる。

そう、…虐待だ。

自分が紡いだ小さな命を、勝手に飽きて見捨て、いつの間にか殺してしまったのだ。


「ごめんな」


あんなにも立派に成長していた蜜柑の木を私はどうでもいいと思っていたのだ。

蜜柑の木を切ったと祖母から聞いた時、僕は何も感じなかったのだ。

けれど、ここに蜜柑の木の努力が残っている。

それを見てしまうと自身の愚かさに気付かされるのだ。

私は祖母の教えを思い出す。

私はこの蜜柑の木に一番輝いている時間を与えてあげる事が出来なかった。

それがとても口惜しい。


「後悔しているかい?」


気がつくと、後ろに祖母がいた。


「…しているよ」


「だったら、それを未来のためにどう大きくしていくかが大事だよ」


「…そうだね」


私は蜜柑の木切り株を少し撫でると、すっと立ち上がる。

滑りが悪く、撫でにくかった。

けれど、日光にずっと当たっていたバケツに閉じ込められていたせいかとても温かい。

そして、祖母に戻ろうと言った。

すると祖母が私に声をかけた。


「________」


あの日祖母が言った言葉を、私は思い出せない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


何故、こんな大切な事を忘れているのだろうと私は思った。

熱い日差しが熱を弱める気配は全くない。

私の視線にある蜜柑の木に、薄く今までの思い出の情景が映っていた。

あの日と同じように私は切り株を撫でた。

やはり滑りの悪い、少し変な触りごごちだった。

それにあの日より暖かい。

まあ、夏真っ只中なら当たり前だろう。

そんな事を考えていると、後ろから私の名が呼ばれた。


「おばあちゃん」


私は庭への出口から私を呼ぶ祖母の下へ駆け寄った。

足腰がだいぶ弱って、壁にもたれたり、杖を持ってじゃないともう祖母は立つこともままならなくなった。


「休憩と共に、この家で言いたい事がある。そこの椅子を持ってあそこに連れて行ってくれ」


祖母が指差したのは、蜜柑の木の切り株がある方向だった。

私は祖母の要求を了承した。

私は庭への入り口に置かれている木製の椅子を持ち、祖母に寄り添う。

祖母は私の腕に捕まって、体重をかけてくる。

寄りかかってきた祖母は軽い。

けれど確かな重みがある。

祖母と出来るだけ段差のない道を選んでゆっくりと足を踏み出し、蜜柑の木の切り株の側に近づく。

そして私は木製の椅子を置き、祖母を座らせた。


「懐かしいねぇ」


「そうだね」


祖母は周りを見ていた。

ジャガイモなどを植えていた小さな畑。

まばらに咲き誇る小さな花々。

そして蜜柑の木の切り株。

昔と比べると全然庭の外の景色は違う。

祖母の家の周りの全体が広い道になるので、周りの家はもう取り壊されているのだ。

そのおかげか、上を見ると綺麗な入道雲が見える。

それでもなんとか長い間、ここに留まろうとしたのが祖母の願いだ。


「…また、ポテトサラダが食べたいよ」


「…そうさね、施設に入る前にあんたの家で作らせてもらうよ」


「うん。帰りにジャガイモ、買いに行こうか」


私と祖母はたわいのない会話を続けた。

祖母が時折見せる幸せを感じたような、私の大好きな笑顔がとても眩しかった。

その笑顔を見ると、私の心は少し不安になる。

祖母とはもう、数年するとこのように話せないんだろうと思う。

そう思うとやはり悲しいのだ。


「…そろそろ行こうか」


私が祖母にそう言うと、祖母は私の手を握った。

そして祖母は私にこう言った。


「今までありがとうね」


穏やかで優しい祖母の声と共に、小さな風が吹く。


「え…。いやそんな…なんなら俺がありがとうだよ、おばあちゃん」


祖母は首を横に振り、私の目をじっくり見る。


「私はあんたが思ってるようないい人じゃない。人あたりがキツくて、誰にも好かれないただの老いぼれだよ」


涙の滴が祖母の頬を流れる。

蝉の声は鳴り止まず、今も騒がしい。


「けれどね、あんたはいつも笑顔で私に会いに来てくれた。どれだけそれが嬉しい事か。あんたに私はたくさんの事を教えてもらった。だから本当に…」


私はあの日の祖母の言葉を思い出す。

あの時はなんでそんな事を言われたのか意味がわからなかったのだ。


「ありがとう__」


感謝の言葉を言われて、嬉しくない人はいない。

小さな感謝も大きな感謝もその他の事も全て、いずれは今までの自分のように忘れてしまって、いつかまた思い出す。

人間とはそんなふうに出来ているんだろうと私は思う。

忘却と追憶を繰り返し、人はその日を過ごす。

きっとこの祖母の感謝の言葉も忘れたくなくても、知らず知らずのうちに忘れてしまい、きっと私はまた思い出すのだろう。

なら、忘れてしまうのならば今、私がするべき事はなんなのだろう。

答えは明白だった。


「こちらこそありがとう。おばあちゃん」


私は祖母に感謝の言葉を伝えるだけだ。

そして夏が過ぎ、秋が来て、冬が去る。

祖母の家は解体され、広くて綺麗な道になった。

春になってその場所に行く事があった。

蜜柑の木があった場所は道にはならず丁度いい広さだったのか、またまた他の理由なのかはしらないが小さな公園になっていた。

私はその公園を少し覗いただけで私がその公園に入って行く事はなかった。

やっぱり私は忘れてしまったのだ。

そして何度も季節が移り変わり、数十年の時が経過した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日は冬のよく冷える日だった。


「はいこれ」


「おお、結構大きいな」


妻が炬燵で丸くなっていた私に大きな蜜柑を渡してくれた。

外は小さな雪がゆっくりと降っており、とても寒い。

妻と結婚して、もう三十年くらいになる。

会社で知り合って結婚し、いつもずっと私を支えてくれた。

娘も生まれて、立派に成長した。

今となってはその娘のお腹に、新たな命を授かっている。

私は妻に渡された蜜柑の皮を剥き、口に放り込む。

酸味が効いていて、いい感じに熟された美味しい蜜柑だった。


「うん、美味しい」


「そうだな」


妻も私の隣で美味しそうに蜜柑を食べる。

私の口の中に固いものがあり、私は向いていた皮に吐き出した。

出てきたのは蜜柑の種だった。


「そのうち、あの子にも持っていってあげましょうか」


妻は、箱一杯の蜜柑を指差してそう言った。

種の入った蜜柑を食べるのは久しぶりだなと私は思った。


「そうだな」


そうやって妻と談笑しながら蜜柑を食べていると、机の上に置いてある妻の携帯がなる。

かけてきたのが、娘の夫だと携帯の画面を見ると分かった。

妻は携帯をとった。


「もしもし」


明るい声で会話する妻の横で、最後の一欠片を食べる。

するとすぐに妻は電話を終わらせ、私に言う。


「陣痛が始まってもうすぐ産まれるって。早く支度して行こう」


「本当か⁈」


私は立ち上がって蜜柑を口に頬張ると厚着をして家の戸締りをして、車に乗り込んだ。

しかし、すぐに思い至ると家の中に入り、さっき妻が指さした段ボールを車に乗せ、運転席に再度座る。

しばらくして、家の鍵を閉めた妻がやってきて助手席に座る。

家を出て、車を走らせる。


「綺麗ね…」


妻はそんな事を言った。

娘がいる産婦人科はもともと、祖母の家があった近くだ。

私は丁度、祖母の家があった道を通って産婦人科に向かった。

やはり視線がついいってしまうもので祖母の庭だった公園を少し見る。

大きいとは言えないが立派な木があるように見えた。

しかし、それをしっかり見ている暇もなく走らせて、産婦人科に辿り着く。

妻を先に車から降ろし、私は駐車場に車を置いて駆け付けた。

娘がいる部屋に出来るだけ早めに向かう。

すると、徐々に赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。


「お父さん…」


娘がベッドにおり、手には産まれたばかりの子が抱かれていた。

側には娘の夫と妻がいる。


「女の子だよ」


そう言って赤ん坊の顔を見せてくる。

とても言葉で表せないほどに可愛い。


「おおお…よかったよかった…」


私は娘とその子の側に立ち寄り、泣き崩れた。


「泣かないでよお父さん!恥ずかしい」


「あの時と一緒ね」


あの時もそうだったなぁ。

私は過去を思い出していた。


「この人、この子が産まれた時も着くなり、喜んで泣きくずれたのよ。恥ずかしいったらありゃしない」


「そ、そうだったんですか…」


妻が娘の夫にそう言うと娘の夫は意外そうに、けれどどんな反応をすればいいのか困ったような表情だった。


「そんなこと言わなくていいよ…。恥ずかしい」


娘の父として少し威厳のあるように見せていたのだから恥ずかしい。

その話を聞いて、三人は少し笑った。


「ほらお父さん。抱いてあげて」


娘が優しく私の手元に渡してくる。

赤ん坊を抱くのはいつぶりだっただろうか。娘の時以来じゃないだろうか。

あの時は抱くのが下手だと妻によく怒られたからあまり抱かせてもらえなかった。

けれど、今は少し戸惑っただけでしっかりと受け取れた。

軽いような重いような。

けれど確かな重みがある。

私はこの言葉を何度も言うのだろうと思う。

この言葉を昔に言った事があるのを思い出して、またすぐに忘れた。

たとえ体が軽くても、命の重みとは、とても重いものなのだろうと思った。

あの時も。

今も。

赤ん坊は私の顔を見ると笑った。


「あー!お父さんにこの子の初笑顔盗られたー!」


娘のその言葉にその場の皆が笑った。

これを幸せと言わずに何というのだろう。

これ以上の幸せが存在するはずがない。

皆の幸せそうな笑顔を見るとそうとしか感じえないのだ。


「そういえば蜜柑を持って来ているよ。みんなで一緒に食べようか」


私の言葉に妻は少し意地悪そうに言った。


「あら貴方。本当に時々だけどしっかりしているのね。しっかりあの段ボールを持って来ているなんて」


「うるさいなぁ…。今、車から持ってくるよ」


娘に赤ん坊を優しく渡し、私はその場を後にした。

まだ、赤ん坊の顔が見足りないので少し早歩きで車に向かう。

産婦人科に着いた時よりも空から舞い落ちる雪が多くなっているような気がした。

車の鍵を開け、段ボールを持つ。

中のしっかりと熟された蜜柑が見える。

私は、帰り道に妻にあの公園に寄っていいか聞いてみようと思った。

さっきまで忘れていたが、あそこには祖母と植えた蜜柑の木があるはずだ。

私は段ボールを持って、車の鍵を閉めた後、歩き始めた。

今の蜜柑の木の姿を想像はできない。

また、新しく成長しているかもしれないし、そのままの切り株の姿かもしれないし、掘り起こされてなくなっているかもしれない。

…けれどわかっている事がある。

忘れても、ずっとそこにあるものがある。

形として残っているかもしれないし、残っていなくとも、思い出として残っている。

それを思い出して確認し、また忘れる。

それを私は生きている限り、何度も何度も繰り返すのだ。

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