迷い-3-
昼休みを告げるチャイムが鳴り止んだ後、私は当然の如く屋上へ向かう。
相変わらず教室にいると息が詰まりそうだったが、屋上の扉を開ければ"本当の家に帰って来た"かのような安堵感があった。
それは、綾瀬幸人という友人が出来て一緒に雑談を出来る喜びも少なからず入り混じっているのだろう。
現に、綾瀬が屋上に来なかった昨日は心にポッカリ穴が空いたような寂しさを感じていた。
しかし、綾瀬は絵に描いたような明るい人間だ。
悩みの一つや二つあるのだろうが、そんなことは感じさせないほどに。
それなりに友人に囲まれているだろうから、昼休みに
(昨日は友達とお昼食べてたのかな)
そんなことを考えていると、屋上の扉が重い音を立てて開いた。
一つの人影が扉から顔を覗かせた。
柔らかい茶色い毛を靡かせながら私の顔を見るや否やニッコリと笑う。
「よっ、昨日は来れなくてごめん」
綾瀬がお弁当の入った袋を持って私の隣に腰を下ろした。
「はー」と溜め息を吐きながら、空を仰ぐ。
「笹川は、兄弟いたっけ」
空を仰いだまま、綾瀬がボソリと言った。
もしかすると、隆志くんと何かあったのだろうか。
「…いないよ」
「そっか」
綾瀬は仰いでいた顔をこちらに向けた。
物悲しげに微笑むその姿は、細い枝のように頼りなかった。
少しの風でも折れそうな細い枝のようだ。
「俺さ、弟のことが大好きなんだ。だから、弟のためなら何だってやってきたしどんなワガママも聞いてきたつもり」
綾瀬がペットボトルのお茶をぐっとあおった。
やけ酒のような飲み方に私は眉尻を下げた。
「でも、弟は俺のことが大嫌いなんだ。この前も、お前は自分に酔ってるだけなんだって、お前の方が名前の通り恵まれてるんだって…」
だんだんと声を小さくしながら、俯く。
前髪が垂れて表情はわからない。
「言われて…」
話を続けようとした声はいくらか震えていた。
表情が見えなくとも、彼が悲痛な思いでいることは容易に想像が出来た。
しかし、綾瀬はパッと顔を上げ、私にいつもの笑顔を零した。
少しばつが悪そうに後頭部をポリポリと掻く。
「ごめん!今のは忘れて!こんなん話されても笹川も困るし、悪かった」
そう言いながら袋から取り出したおにぎりを口に運び込む。
私は、「一生仲良く出来る気がしない。母さんとも、幸人とも」と言っていた隆志くんを思い出していた。
何故、彼が弟想いの綾瀬をあんなに毛嫌いしていたのかはわからないけれど、やはり一方的に隆志くんが嫌っていることには間違いないと思える。
「ううん、気にしないで。…弟さんが綾瀬を嫌っている理由は何かあるの?」
隆志くんは「あまり家庭のことを話すのは好きじゃない」と何も言ってくれなかったが、綾瀬なら何か話をしてくれるかもしれない。
何か理由がわかれば、私が彼の力になることも家庭の問題を解決する術も何か思いつくかもしれない。
「…まあ、色々…あるだろうな」
色素の薄い瞳を細めながら眉を下げる。
「色々?」
「うん。まあ、親のこととか教師のこととか…」
河川敷で隆志くんが話していたことと重なる。
親というのは、お母さんのことなのだろう。
そして、教師というのは小学生の頃の担任の先生のことなのかもしれない。
でも、それと綾瀬と何の関係が…?
その2つの話は隆志くんが綾瀬を嫌う理由にはならない気がする。
「…それは綾瀬が何か絡んでるってこと?」
「…そうね、俺が悪いかっていうとそうじゃないかもしれない。でも俺が絡んでることには変わりはないね」
「それは…」
「ごめん、これ以上は話せない。弟のためにも、笹川のためにも」
ペットボトルのお茶をグイっとすべて飲み干すとそれを袋に放り込んで、立ち上がった。
「…私のためにも…?」
「知らない方が幸せなこともあるってこと」
踵を返して屋上の扉の方へ歩いていく彼の背中を見送る。
重い音を立てて扉を開け、屋上を後にした綾瀬を最後まで見届けた後、深いため息を吐いた。
綾瀬も隆志くんも、深くは何も語らない。
それはそうだ。
誰しも踏み込んでほしくない一歩は存在する。
それなのに、いくら力になりたいからと言ってずけずけと踏み込むのはよくなかった。
特に、綾瀬は私が弟の隆志くんと知り合いだということは知らない。
(そういえば、隆志くんとも会えてないな…)
あれからメッセージの返信も途切れている。
綾瀬が昨日休んでいたことと何か関係があるのかもしれないが、それをまた綾瀬に聞くことも隆志くんに再びメッセージを送るのも違う気がする。
(何もなければいいけど…)
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