三
夕花姫が暁に頼んで男性を連れ帰ったところ、当然ながら国司邸は大騒ぎになってしまった。
「まあ、姫様が
「洞穴で倒れてらしたと」
「まあ、謎めいた方ですのね……!」
四方を海に囲まれた小さな国だ。噂話には飢えていた。夕花姫はなんだかなと思いながらも、暁に男性を「空き室に運んであげて」と伝えてから、急いで父の元へと向かった。
日頃から早朝に仕事に出向き、昼間には帰ってきて部屋でゆっくりしているのがこの国の国司の生活であった。
「お父様」
「おや、夕花。どうかしたかな?」
「男性を拾ってきました」
「ぶっ……」
彼女の拾いもの癖はよく知っている国司であったが、人間を拾ってきたのは初めてだった。
「元いた場所に返してきなさい」
「嫌ですね、お父様。犬猫ではないのですよ?」
「夕花は犬猫だってよく拾ってきているだろうが……!」
子犬も子猫も、海鳥からしてみれば充分に餌なのだから、大きくなるまでは屋敷に置いていてもいいじゃないか、と夕花姫は思う。飼い主だって探し回ってから引き渡しているのだから、なにも考えずに拾ってきた覚えだってない。
それはさておき、国司は夕花姫の拾いものにはなにかしら思うところがあるようだったが、彼女も引く訳にはいかなかった。どのみち干潮だったからよかったものの、このまま満潮になっても見て見ぬふりしていたら、彼だってどうなっていたのかわかったもんじゃないのだから。
「お父様。あの方、昨日の高波で流されてきた方らしくて、頭を大きく打ち付けておりました。びしょ濡れな上に怪我までなさっているんですから、こんな方を放っておくことのほうが無理ではないかと申します」
「そりゃそうなんだけどね!? 普通はそう思うけどね!? それでもそんなどこの馬の骨ともわからない者を屋敷に入れたら危険でしょう!?」
「お父様、口調が崩れております」
「ああ……失礼失礼」
日頃は国司として威厳を守って国を治めている父ではあるが、夕花姫の巻き起こす騒動においては、おろおろとするただの父親に成り果ててしまうのであった。
そもそもいくら拾い物癖があるとはいえども、男を拾ってきたことなんて前代未聞なのだから。
しかし、親の心子知らず。
夕花姫は国司が怯んだところで続ける。
「ですからお父様。あの方を置いておく許可をください。怪我を治したら元いた場所にお帰り願うよう伝えますが、怪我をなさっている方を放置しておくなんて、慈悲のないことはできません」
「……まあ、そうだね。それでその問題の人物は、気絶したままなのかな?」
「はい。今は暁が面倒を見てくださっています」
「まあ……暁がいるんだったら大丈夫だろうけどね。とりあえず様子を見に行ってみようか」
「はい」
こうして、夕花姫は国司と一緒に、暁に任せた空き部屋へと向かっていった。
気絶している彼は床の上に御座を敷いて横たわっていた。暁が用意してくれたらしい。
暁は彼の近くで控えていたところで、パチンと夕花姫と目が合った。
「ありがとう、暁。まだ目が覚めないの?」
「姫様……国司様も」
暁が頭を下げるのに、国司は「そのままでいいよ」とひと言伝えてから、夕花姫の拾ってきた男に視線を送る。
「彼が、問題の人物かな?」
「はい。念のため医者を呼び出しておりますが、まだおられません」
「なるほど」
横たわっている男性をまじまじ見て、夕花姫は少しだけ顔が火照るのを感じた。
今は目を閉じている、薄く息をする男性。
髪は既に乾いているものの、烏の濡れ羽のようにしっとりとした艶を帯びている。目を閉じると睫毛は長いし、薄い唇の輪郭も整っている。
ここを訪れる男性は、皆既婚者や年老いた者ばかりで、目の前の男性ほど夕花姫と釣り合う年頃の男性もいなければ、整った容姿の人間もいなかった。暁も他の者と比べればかなり顔が整ってはいるのだが、彼は性格や侍としての性分もあって、全体的に大味な上に、周りからはどうしても怖がられてしまっている。夕花姫くらいしか、彼に気安い女子はいなかった。
夕花姫が横たわっている男性に見とれている中、暁は淡々と国司に報告する。
「この者は干潮のみ現れる洞窟で倒れていたんです。どうなさいますか?」
「ふうむ……干潮の……」
彼が倒れていたことと干潮と、なにが関係あるのだろうと思う夕花姫だったが、男性の睫毛がふるふると震えたところで、我に返った。
「お父様、暁! 目が覚めたみたいです!」
「うう……」
「ねえ、あなた。どこからいらっしゃったの? 都から? 海を渡ってらしたの?」
「ん……」
洞窟で聞いたくぐもった声よりも、かすかに漏れる声のほうが低くて甘い。その声に夕花姫はまたも頬に熱を持つ中。ようやく男性の目が開いた。
綺麗な黒真珠のような目だった。最初は虚ろにさまよっていたそれは、傍で控えていた夕花姫と暁を捕らえ、唇を動かす。
「こ、こは……?」
「ここは小国よ。私は……」
夕花姫が自己紹介しようとするよりも先に、暁に軽く口を抑えられた。夕花姫は目を白黒とさせる。
「ふぎゅ……ちょっと……なあに?」
「……ここは国司の屋敷。貴様はいったい何者だ? この格好……ただの旅人でもあるまい」
彼の着ている着物は明らかに絹であり、庶民が着られるものではない。だからといって海賊にしてはひとりで舟に乗っていたのだから。海賊は大人数で押し入り強盗をするのが定番だったのだから、こんなにこそこそとした行動を取るとも考えにくい。よって彼は明らかに不審人物であった。
暁の鋭い詰問に、男性は「んー……」と間延びした声を上げる。まろやかな声だった。
やがて、男性は困ったように眉を下げた。
そしてのそりと起き上がる。
「……済まないね。ちょっと思い出せないんだ」
「思い出せない? 嘘をつくな」
「そうは言われてもね……ここがどこの国なのかもわからなければ、私が何者なのかも思い出せないのだけれど。君は私のことをご存じかな?」
男性の告白に、少しだけ暁は目を剥き、助けを求めるように国司を見た。
国司は「ふむ……」と顎を撫で上げたあと、口を開いた。
「どうせ医者を呼んでいるのだから、診てもらおうじゃないか」
****
暁が手配した医者は、おっとり刀でやってきた。
男性の着衣を解き、あちこちを触り、最後に頭を見てから「ふむ……」と医者は唸り声を上げた。
「記憶喪失かと思われます」
「記憶喪失?」
「この方は頭を大きく打ち付けた跡がございました。稀に頭に強い衝撃を受けた方が、記憶を飛ばすことがございます。この方もそうなのでしょう」
「それって……元に戻るの?」
夕花姫の問いかけに、医者は軽く首を振る。
「時と場合に寄ります。記憶が戻らない場合は生涯記憶を取り戻しませんし、何日か経って急に元に戻る場合がございます。呪いではございませんから、陰陽師などを手配してもどうしようもございませんよ」
「そうなのか……」
「体も確認しましたが、頭以外は特に打ち所がございません。頭が元に戻れば自ずと帰る場所もわかるでしょう」
「ありがとうございます」
医者は念のためと打ち身に効く軟膏を置いて帰っていったが、頭に塗ってもいいものかどうかは、聞きそびれてしまった。
暁は国司に「どうなさいますか?」と渋い顔を上げるのに、夕花姫は目を釣り上げる。
「ちょっと暁。まさか記憶喪失の人をここから追い出せなんていうんじゃないでしょうね?」
「落ち着いてください、姫様。この者は正体不明なのです。そんな身元不明で正体不明な者を、妙齢の姫様の傍に置いておける訳がないでしょう」
「そんな人でなしみたいなこと、できる訳がないでしょう!? なに言っているの!」
ふたりの言い合いに、記憶喪失の張本人は、またも「んー……」とまろやかな声を上げる。
「私はどうすればいいのかな? 私もどうしてここにいるのか覚えていないし、そもそもここはどこなのかな? なにもわからないというのも困ったものだね」
記憶喪失とは思えないほどに落ち着き払った声を上げる。
それにますます、暁の態度は硬化していく。
「国司様、彼は速効叩き出すべきです」
「だから暁、犬猫ではない人を追い出せなんて言わないで!」
「ですが姫様。こやつは危険かもしれないのですよ?」
「記憶喪失に危険もへちまもある訳ないでしょう!?」
「腹芸なんて、貴族であったら誰でもするものですから」
「もう! あなたどうしてそんなに疑り深いの!」
ふたりがギャーギャーと言い合いをするのを、国司は「まあまあ」と言って止める。
「たしかに困ったものだね、私も記憶喪失の者を預かるのは初めてだし、残念ながら彼が嘘をついているのかどうかさえもわかっていない」
「でしたら……」
「だが本当に記憶喪失の場合、彼を捨て置くのは犬猫にも劣るね。だから拾ってきた以上は夕花と暁、ふたりできちんと面倒を見なさい」
「お父様……!」
夕花姫がパァーッッと笑顔を輝かせるのに対して、暁はどんどんと鼻白んでいく。
一方、男性は困った顔で小首を傾げていた。
「おふたりに助けてもらうことになる訳だけれど……私はどう名乗ればいいものかな」
「私は、夕花。こちらは私の侍の暁。あなたの名前はそうね……
「浜風」
夕花姫の提案に、浜風と名前を賜った彼は、不思議そうに小首を傾げた。それに彼女は微笑む。
「あなたが助けを求める声が風に乗って聞こえたから、助けに行けたのよ。だから浜風。記憶が元に戻るまで、お世話させてちょうだいね」
「なんだかくすぐったいね、でも。うん。ありがとう」
途端に浜風と名前をもらった彼が破顔した。夕花姫はますます顔がポポポと熱を持つのを感じた。
暁は心底冷たい目で浜風を一瞥したあと、国司に「よろしいのですか?」と問うた。
「お前は夕花の侍だからね。どうか彼女の傍にいて目を離さないで欲しい。なに、いつものことだよ」
「……わかりました」
こうして、夕花姫が初めて出会う麗しき公達(らしい)の浜風にときめいている中、静かに主従はやり取りを終えたのであった。
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