二
夕花姫は普段は、国司の屋敷の一室で過ごしていた。彼女付きの侍女はほとんどおらず、ときおり裁縫や歌、楽器の稽古を行うものがやってくるのみであった。
苦手な裁縫で単衣をつくりながらも、これになんの意味があるんだろうかと夕花姫は思う。
本来、彼女の年頃ならば婚約者のひとりやふたりいてもおかしくはないし、なんなら結婚していてもなにも間違ってはいないのだが、場所が場所である。四方を海に囲まれた場所まで派遣された国司くらいしか出会いがないのだが、都から派遣されてくることは滅多になく、あっても既婚者で都に妻子が待っているような人物ばかりだから、やはり出会いがなかった。
都の姫君の真似事をしていて、出会いなんか本当にあるんだろうか、と夕花姫は思う。
物語に書かれているような色恋にものすごく興味がある訳ではないが、年老いた父のことを思ったら、結婚して安心させたほうがいいんだろうかと考えることだってある。お転婆が過ぎる娘ではあるが、家族や身内には愛着があるのであった。
裁縫でがたがたの単衣が出来上がり、こんなもの着れるんだろうか。むしろ布のほうが夕花姫に扱われて可哀想じゃないだろうか、というものができて絶句していたら、教えてくれた侍女がペコリと頭を下げた。
「それでは今日の稽古はここまでです。姫様、あとはごゆるりとおくつろぎくださいませ」
「え、ええ! ありがとう! 勉強になったわ」
自分に時間を割いてくれた以上、お礼を言う。
侍女は困ったように口元を袖で覆った。
「姫様、心にないことをわざわざおっしゃらずともよろしいんですよ?」
「ほ、本当だもの! 私に時間を割いてくれたのはあなたなんだから!」
「まあ」
彼女が去って行ったのを見計らってから、夕花姫は「さて」と立ち上がった。
上に引っ掛けた上着を脱ぐと、小袿姿でてくてくと庭へと降り立った。そのまま浜辺へと逃げ出したのである。いつもいつも暁が自分を見張っているのだから、どうせ抜け出したところでまた見つけ出して連れ戻すだろう。
彼女はそのまんま牛車が通れる程度には整備された道を出て、歩きはじめた。
潮風が吹いている。都からやって来る国司の中には、この風が生臭いと鼻白むものも多いが、長年このにおいを嗅いできた夕花姫にとっては、なじみ深いにおいであった。
浜辺まで出てこれば、ちょうど漁師たちが船を出したばかりで、閑散としているようだった。手伝いの子供たちも、船が戻ってこない内は休み時間とばかりに、浜辺を駆けて遊んでいる。
子供たちは、年頃にも関わらず同年代が護衛の暁くらいしかいない彼女にとっての、数少ない遊び相手であった。
ちょうどこの間も遊んでくれたさちが、パッと顔を上げる。
「ああ、おひいさんこんにちは!」
「こんにちはー。今日はなにをしていたの?」
「宝探しをしてたの!」
「あら、宝探し? なにそれ」
ここに住んでいる子供たちは、貝を見慣れ過ぎて、どんなに美しい貝殻でも拾って後生大事にする性分はない。この間のように転覆された船の中身を拾い集めることを、子供たちは「宝探し」と称していた。
「どうも昨日高波があったみたいで、面白いものがあれこれ打ち上げられているんだ」
「あらまあ……この辺りは平気だったの?」
「全然。この国で高波なんて、ほとんど影響ないもの」
「それもそうか」
浜辺に波が打ち寄せてくることはあれども、高波で大事なものが流されることは不思議としてない。船が流されてしまったら仕事にならないし、灯台が水をかぶってしまっても困るというのに。ときおり海鳥が干しっぱなしにしていた魚の干物を持って行ってしまう以外では、干物が波で持って行かれてしまうことも、浜辺の近くに建っている漁師たちの家が流されてしまうことも、何故かなかった。
都の人間であったら驚くようなことも、この国の日常ともなってしまったら、誰も不思議と思わなくなってしまうものである。
さちは夕花姫に説明をする。
「だからさっきから、いろんなものが流されてるから、それを皆で集めているの」
「ふうん……面白そうね」
「おひいさんもする?」
「そうね、前は物語が流れ着いてたし、もしかしたら無事なものがあるかもしれないし」
前に拾ってきたものは、ひと晩一生懸命干していたものの、とうとう文字が読めるまで回復することはなく、泣く泣く捨てる羽目になってしまった。
無事な物語があればいいなと、夕花姫は思う。
さちは「あるといいねえ」と頷いてくれて、ふたりで流されたものを拾いに行った。
子供たちは打ち流されたものをあれこれと拾い集めている。
大きな木箱には竹簡がたくさん積まれていた。こちらは紙よりも頑丈だが、残念ながら水を吸い過ぎて墨が薄くなってしまい、こちらも文字が読めそうになく、なにが書いてあるのかがわからない。積み荷も結構流されていて、中には錠でがっちりと閉められていて開けられそうもない箱まである。
「すごいわね、こんなにたくさん物が流されたのなんて初めて見た」
「うん。灯台の人も、昨晩の高波はすごかったって言ってたから」
「こんなにたくさん物が流されているんだったら、もっといろいろあるかもしれないわね……」
ふたりで浜辺に打ち上げられたものを次から次へと眺めていたところで、だんだん砂浜から遠ざかり、干潮のときのみ見ることのできる洞穴まで辿り着いていた。そこでさちは「わあ!」と声を上げるのに、夕花姫も釣られて驚く。
「ちょっと、なあに? いきなり大声を上げて!」
「こんなとこまで舟が来てる!」
それに夕花姫はなにをそこまで驚くのだろうと首を捻った。
たしかに漁に使うのは舟だと全然人が乗れないからあまり使わないが、舟で沖釣りに行かないこともないので、全く使わない訳でもない。
「あらまあ、本当に。でもそれのなにに驚くの?」
「ここ、干潮のときじゃないと入れないんだよ!? こんなとこまで舟があるってことは、満潮のときに来たってことだよ」
それもそうか、と夕花姫は思う。
油断し過ぎて干潮のときに広くなった浜辺を歩き回っていたら、波が戻ってきて取り残され、暁が舟を漕いで助けに来て、屋敷に戻ってから夕餉の時刻まで説教されたことを思い出し、少しだけ震える。
さちは続ける。
「誰か人が流されてるかもしれないんだよ! 舟、壊れてないもの!」
「はあ……さちすごいわね。たったこれだけで状況がわかるなんて」
「海賊かもしれないから……ちょっと大人呼んでくる! おひいさんは浜辺に戻ってて!」
さちは慌てて引き返してしまったのを、夕花姫はポカンと眺めていた。
暁に怒られるのも嫌だから、浜辺に戻って皆が拾い集めてきた宝物を眺めていようか。そう思ったものの。
干潮のときのみ現れる洞窟から、風が通る音が聞こえてきて、夕花姫は驚いて振り返った。そして、その風がかすかに「うう……」とくぐもった声を拾ってきたのだ。
「まさか……」
さちが言っていた海賊、の言葉が頭を過る。
暁が前に何度も口酸っぱく注意していたのだ。この国は何故かけしからも高波からも守られているが、逆に海賊がいつ舟を漕いで現れてもおかしくはないのだと。
そのまま浜辺に引き返して、誰かいると訴えたほうがいいんだろうか。そう考えたものの。
「うう……」
聞こえてくる声は、苦痛を伴っているように聞こえた。
気付いたら夕花姫は、そのまま駆け出していた。もしこれをさちが見ていたら悲鳴を上げていただろうし、暁は「また後先考えずに」と説教をしていただろうが。
もしかしたら海賊ではないのかもしれない。もしかしたら打ち流された船に乗っていた人が転覆した船から脱出する際に流されて、身動きが取れなくなっているのかもしれない。
夕花姫は声の聞こえるほう、聞こえるほうへと走って行く。岩肌はお世辞にも走りやすいとは言い難く、何度も何度も滑りそうになりながらも、夕花姫はきょろきょろと視線をさまよわせる。
潮のにおいが篭もり、陽の光の遠ざかるそこでも、不思議と夕花姫の目は利いた。きょろきょろと辺りを見回していて、ようやく見つけ出した。
ぐっしょりと濡れた狩衣を着た男性が、倒れているのを。夕花姫はおずおずと彼の元に近付いて、頬をぺちぺちと叩く。
「ねえ、大丈夫?」
「うう……」
おろおろとして、夕花姫は彼を見る。ぺたんと水を吸って髪が張り付いている頭に触れてみると、どうも大きくたんこぶができてしまっている。頭を大きく打ったのだろう。
やがてこちらにドタドタと人が走ってきた。
さちが呼んできた大人と一緒に、夕花姫を探していた暁も混じっていた。
「姫様、またこんなところで……!」
「説教はいいから。ねえ、暁。この人頭を打っているみたいなんだけれど、どうしよう?」
動かせばいいのか、起こせばいいのかわからず、ひとまず倒れた人の傍で座って夕花姫は訴える。
それを見て、暁はあからさまに鼻白んだ顔をしてみせたものの、すぐに顔を引き締めた。
「満潮になったらここは沈みますから、ひとまず安全な場所に連れて行きましょう。とりあえず洞窟の外に……」
「ねえ、漁師の家にはさすがに泊められないでしょう? うちに連れ帰ってもいい?」
ますますもって暁は顔をしかめた。
「……犬猫ではないのですよ?」
「わかってるわよ、そんなこと。でもこの人起きないじゃない。舟から落ちたんでしょう多分。それにここよりも広いしちゃんと寝かしつけられるし。ねえ、いいでしょう?」
暁はますます難色を示したものの、夕花姫も折れなかった。
既に彼女の緋袴は、岩肌に残っている水分を吸って変色してしまっている。それを見た暁は、長く長く溜息をついた。
「……わかりました。ただしお父上には姫様が説明してください」
「わかったわ、ありがとう暁!」
暁は夕花姫を立ち上がらせると、濡れた男性を担いで、そのまま屋敷へと歩いて行った。そこで夕花姫は「あれ?」と男性を見た。
潮のにおいに混じって、甘い匂いがする。花や果物の匂いとも違うような気がする。それは暁が担いでいる男性からするものだとは、帰り際にようやく気が付いた。
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