もう一度会えたとしても

くずき

もう一度会えたとしても

 お坊さんの唱えるお経が部屋に響き渡る。それを邪魔するかのように、窓の外では蝉が鳴いていた。

 この猛暑日、部屋に3台の扇風機が首を回していたが、それでも暑さはしのげずにいた。参列者はしきりにハンカチなどで汗をぬぐう。

 しかし、その中で一滴も汗を垂しても何もせず、長袖のシャツの袖をまくろうともしない男がいた。男は、正面の遺影をひたすらに見つめる。


 山崎 翔が片想いをし続けた、真田が亡くなった。


 そのことを伝えるために電話をくれた、翔の友人である野田は酷く早口だった。

 野田がそんなにも焦っていることに驚きつつも、何と言ったのか、3回聞いてようやく理解した。

「真田が運転してた車が、横転したトラックに巻き込まれて、死んだの」

 その言葉が、翔の喉を塞ぐ。

 電話の向こうで、何かを話しているようだったが、ほとんど、言っていることはわからなかった。ただ、まるで自分とこの世界が切り離されて、浮遊するような、変な感覚に襲われる。

 もはや、翔の中では、真田に会うことが生きがいだった。真田と話すことで、慣れない一人暮らしの辛さなんかどうでもよくなった。

 ただ、漠然と、翔の頭の中に真田の笑う顔だけが思い起こされる。

 自分が今どんなことを思っているのかさえわからない。実感がわかないからなのか、苦しくもなければ、悲しくもない。けれど、何か異物があるような違和感はある。

 野田にお葬式の日時を言われたが、それでも行くか行かまいか迷った。

 もし、真田の遺体を見たら俺はどうなる?

 その旨を伝えてもなお、野田は「お葬式には来て」と。

 電話が来たその日に翔は嫌な胸騒ぎを覚えながら準備をし、翌日、彼女の地元である熊本まで野田と共に飛行機で飛んだ。


 お葬式にきてみれば、この違和感の正体が分かるのではないかと思ったが、わからなかった。

 着いてすぐに彼女の両親に挨拶をした。すると、両親は翔の顔を見るなり、何故か悲しそうな顔をする。

「貴方が翔さん?」

 と、聞かれ、頷くと、両親は悲しいままだが、笑顔を浮かべた。

 そして、彼女のところへ案内され「顔を見てください」そう言われ、おそるおそる、棺に入った真田の顔をのぞいた。

 真田はただ、眠っていた。

 肩を叩けば、「おはよう」と、言ってくれる気がした。

「真田」

 だが、目を開けてはくれない。

 まだ、生きているはずなのに。

「娘は、翔くんのことをたくさん話してくれてたの。たくさん仲良くしてくださったのね。本当に、ありがとう」

 嗚咽混じりに聞こえたその言葉が皮切りに、全ての音が遠のき、ついには肩を叩かれても、何も分からなくなった。

 今日は35度を越す猛暑。しかし、暑さもわからない。悲しさも、愛おしさもわからなかった。

 彼女が死んだことにより、自分の感情はどこか、遠くへ行ってしまったのだろうか。

 遺影の中の彼女は、いつものように、頬にえくぼを作って笑っている。あの笑顔で、毎日、面白い話をしてくれた。

 彼女が最後にしてくれのは……

 翔は思い出そうとしても、思い出せなかった。思い出せたのは彼女の笑い声だけ。

 お坊さんが立ち上がる。すると、誰かの手が顔の前に出てきたのだ。ふと、そちらを見ると、そこには彼女と瓜二つの女性がいて、無意識に目を見開く。

「大丈夫ですか? 気分が悪いなら、別の部屋で休みましましょうか」

 その人の声は、はっきりと聞こえた。その声は、彼女の声、そのものだった。

 翔はただ、「はい」と言って、立ち上がり、その女性の後ろをついていった。その後ろ姿まで同じだったが、彼女ではないことがわかるのは、身長だった。身長が、彼女よりも小さい。翔の肩ほどに頭がくるが、それよりも小さい。

 案内された部屋は6畳ほどの部屋で、襖を開けて布団を出そうとしたので、翔はそれを制した。ただ、部屋の端に積み重なれていた座布団を一つとり、それを枕にして許可もなく横になる。

「姉とは、どういう関係で?」

 女性は翔の傍に座り、いきなりそう聞いた。翔はぼんやりした視界の中で、そうか、この人はあの人の妹か。と、思う。

「俺はただ、気があっただけです」

 翔はそれきり、目を閉じた。

 最後に女性は、「貴方なら、姉は幸せでしたね」とだけ聞こえ、全てのものが遮断される。





 大学の図書館はいつも人が多くいた。人目のつきにくい、端っこの席。ここが一番日が入り、人の気配が少なく、本が見やすい特等席だった。そこを二人で陣取るのが常だ。

 翔は目の前で、真田が本を読んでいることに、違和感を感じた。

 真田は本に目を落とし、いつものようにページの端っこをいじっている。

「……どうした? おまえ」

 声をかけると、こちらを向いた彼女は、ニヤリと笑う。

「なに、翔ちゃんこそどうしたの。怖いことでもあった? そんな真っ青な顔して。翔ちゃんもそんな顔するんだねぇ」

「いや……あれ?」

 何だっけ。

 あれほど、こんなにも辛い出来事は二度とないと思うほど、感情も、感覚も全て手放したのに。

 何があったのだろうか。

 翔は真田の顔をぼうと、見つめていると、真田は頬杖をついた。

「悲しいことがあった? ショウちゃんが? あんなに能天気なショウちゃんが?」

「いや、それお前が言えないから。お前の方が能天気だからな」

 そう言ってやると、真田はえくぼを作って、嬉しそうに笑う。

「一番の褒め言葉だよ。ありがとう」

「嫌味かよ」

「じゃ、一つ。私が面白い話ししてあげる。こないだ、サークルの飲み会あったじゃん?」

「あぁ、俺が行かなかったやつか」

 それは1ヶ月前、翔は歯医者へ行く予定があり、サークルの飲み会に参加しなかったことがあったのだ。

 真田は本を閉じ、ニヤニヤとしながら話を続ける。

「そのときね、野田がめっちゃ酔っちゃってて、急に自分のことを話し始めたの」

「あの野田が? 話したとこ見たことないのに」

「そうそう。そしたらさ、野田っち、なんて言ったと思う? 私はみんなと話したいのに、口下手だからみんなと話せないっ! って、可愛いこと言うんだもん。みんなでさ、野田っち、大丈夫だよーって。そのときから、野田は野田っちになったから」

 なんとなく、その場面を翔は想像できた。サークルにはノリのいいやつばかりで、おそらく、そんな野田の姿を本気で可愛がったのだろう。特に、真田なんかノリのいい方だから皆と言いながらも、ほとんど真田がからかっていたのだろう。

 翔は自分の口角が上がっていることに気づかない。

「それで、野田が話す回数も増えのか」

「そうだよ。ショウちゃんはもったいないなぁ。あんな野田っち、滅多に見れないだろうに」

「見たかったけどなぁ。まぁ、まだ、みんなで飲みに行ける機会はあるだろ」

 そういうと、急に沈黙が訪れた。

 翔はそれに「え?」と、言ってしまう。いつもなら、真田は休みもなく、永遠と話し続けるのだ。翔が飽きたというまでやめないのにと、真田の顔をまじまじ見ると、口をもごもごさせる。

「そんなに、何か言いたいことがあんのか?」

「んーん。いや、いやぁ」

 ついには両手で顔を覆ってしまう。

 そんな姿を初めて見た翔は、ますます何を言いたいのか、気になってしょうがなかった。

「そんなに悩むことなんて、真田にもあるんだな」

「そりゃ、20年以上も生きてれば、二つや三つぐらい、あるよ」

 それから深くため息をついた後、小さな声で、思わずそれを聞き流すぐらいの声で。

「ショウちゃん、好きなんだよなぁ」

 と、言った。

 翔はフリーズした。呼吸さえも忘れて、目の前の真田をみはる。

 しばらくな沈黙の後で、真田ははっきりと「冗談だよ」と、顔を依然と覆ったままで言った。

「いや、冗談って、俺が先に……」

 そこまで言ってから、翔は急に、頭にある映像が浮かぶ。

 まず思い出したのは、野田からの電話だった。あんなにいつも内気で、物静かなのに、その電話の声の野田はひどく焦っており、早口で、声が大きかった。それで、「真田が死んだ」と。

 翔は、全身に電気が走ったように、鳥肌が巡った。

 それから、真田の眠る顔と、写真と、妹と。

 真田は死んだ。

 それが明確に、文字として、頭に刻まれる。

 けれど、確かに、自分の目の前にいるのは真田だ。

 翔は思わず、顔を覆う真田の手首を掴んだ。無理やり引き寄せて、目を合わせる。

 真田は驚いたように目を見開いた。その目は、やはり真田で間違いない。鼻の形や、輪郭も全て。

 それから、真田はためらいがちに、えくぼを作って笑う。

「最後ぐらい、笑って欲しかったなぁ」

「なんで……」

 声がうまく発音できず、喉に栓が詰まったような、苦しさがこみ上げる。

 それを他所に、真田はいつものように笑って翔を見つめているのだ。あの、遺影のように。

「私、こんなにショウちゃんが苦しむなら、会いに来るべきじゃなかったね」

 翔は目の前の異常事態に、呼吸さえ忘れる。握っている腕の感触はちゃんとあるのに、疑いの念さえ浮かぶ。

 真田は翔の手をほどいて、その手を握った。真田の手は、氷のように冷たかった。

「まず、私は悔いなく幸せだったし、毎日が楽しかった。ショウちゃんにくだらない話をすることが、一番の幸せだった。なんでかわかる? いっつも笑ってくれたからだよ。その笑顔が私の生きる力になった。本当だよ? 大げさだっていうかもしれないけど、本当のことだからね」

「それを? それを伝えるために?」

「そうだよ」

 と、眉間にしわを寄せて笑った。

 翔は真田の手を一層、強く握る。

「俺は」

「わかってる。けど、元気で。野田っちとも仲良くね」

 真田は、笑っていた。けれど、その目から涙が流れていたのを、翔は見逃さなかった。




 目を覚ましたとき、視界がボヤけていた。部屋には明かりがついており、誰もいない。

 翔はひどく辛い心持ちだった。

 さっきのことが、夢のようにぼやける。

 涙が出る。抑えようとしても、嗚咽が漏れだす。


 真田は死んだ。この、猛暑の日に。


 その事実が胸に強く打ち付けた。

 けれど、悲しさはあっても後悔はない。ただ悲しいだけ。苦しいだけ。

 誰かが部屋に入って来た。

「起きてる?」

 野田の声だった。

「最後に、野田の話してくれたんだよ、あいつ」

 翔は、震える声を振り絞って、そう言った。

 思い出そうとしても、思い出せなかった、最後の話。たわいもない、日常の話だった。

 それが、余計に、まだここにいるのではないかと思わせる。

 だが、確かに、もうここにはいないのだ。

「私、真田さんのこと、大好きだったの」

 震えた声の方へ目を向けると、野田は目を腫らし、化粧も落ちて、ぐしゃぐしゃな顔で泣いていた。

 その顔が、どうしてか自分と重なる。

「俺も」

 どうして、突然いなくなったんだ。

 もう一度会えたとしても、真田、お前がいなくなったという事実が、どうしようもなく怒りたくて、悲しくて、つらくて。

 それでも、俺はどうして、会いに来てくれたのに、ありがとうと、言えなかったんだ。

「好きだったの、本当に」

 野田の声が、重たく耳にのしかかる。

 翔は天井を眺めながら、ただ涙を流した。

 やはり、真田の笑顔は頭から離れてはくれなかった。

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