17.変化

 蒼の通う東間研修学校の裏には、裏山ならぬ裏森が広がっている。1年生になりたての蒼達はまだ使ったことがないが、体術や術の訓練で今後使うことになるらしい。上級生にもなると、ここに敢えて妖を放し、それを戦闘科生達が退治するなんて本格的な訓練もあるらしく。

 しかし、まだ1年坊主の蒼には縁のないところだ。体術の訓練は訓練場で、術の実技は実技棟で行われている。

動き回るのが大好きな蒼は、父と街の外の森によく行っていたから、こういった自然は大好きだ。父が亡くなってから引っ越してきた区域はそれなりに自然はあるものの、それより前に住んでいたところには及ばない。だから、早く裏森での訓練がやりたくて仕方なかった。




「……」


 火と水の天秤のことがあった、放課後。蒼はその森へと歩みを進めていた。まだ【五天】について十分に説明していなかった、ということで、一鞘と姫織に呼び出されたのだ。


 てっきり訓練でしか立ち入れないのだと思っていたのだが、他の学年やクラスの訓練とかち合わなければ、入っても大丈夫らしい。といっても夕方の4時半まで。それ以降は、許可がなければ入ってはいけないことになっているらしい。


 無論、学校内での術の行使は講義・訓練時以外は校則で禁止されている。広々としているこの森も例外ではない。


 蒼は裏門へと差し掛かる。4時少し前の今、西日も差し込まないこのあたりは日が伸びた5月であっても妙に薄暗い。他に生徒が来る気配もない。確かに、これは内緒話に持って来いだ。


 普段の蒼であれば、例え【五天】の話であっても、裏森に入れることにわくわくしていたであろう。しかし今日はそうもいかない。


 裏森は、裏門から通りをひとつ挟めばもうすぐに広がっている。その際と言えるところに、一鞘が1人で佇んでいた。――うわぁ、何でこの人だけなのかな。


 蒼の気配を感じたらしく、一鞘が顔を上げた。あの特殊な光が見えたわけでもないのに、静かに見てくる瞳と目が合った途端、どきっとした。勝手に気まずくなって、さりげない風を装って目を逸らした。


「い、姫織は?」


「図書館に本返してから来るだとよ」


 うわどうしよう、話終わったっ! 「そっか」と言いながら、蒼は内心慌てた。【五天】について話すのだからひと気のない場所を選ぶのは当然なのだが、今の蒼にはそれが恨めしい。


(……。でも)


 蒼はできる限り音を抑えて、息を整えた。どうしても気まずい。何故だか腹立たしい。無性に恥ずかしい。けれど一鞘に、言わなくちゃいけないことがあった。


「あの、……天秤の時、ありがとう」


 何だか緊張して、我ながら随分と分かりづらい言い回しになってしまった。伝わったか心配だったが、一鞘は何のことだか理解できたらしい。あぁ、と声を漏らした。


「おれ、あの教師嫌いだ」


「……へっ」


 ――別にお前の為にやったわけじゃない。そんな言葉が返ってくるだろうと身構えていた蒼は、思いがけない発言に一鞘を見た。一鞘はしかめた顔を、そっぽへ向けている。


「えっと……、茶音先生のこと?」


「あぁ」


 一鞘はさっきの講義の時と同じ、怒った様子でうなずいた。


「あの場で止める立場にあるの、普通教師だろ」


 きっぱりとした口調だった。何故そんなに怒っているのか、蒼には分からない。


「まぁ、そうだね……」


 のろのろと、ためらいがちにうなずいた。何となく、まだ新米教師の茶音を悪く言うのは気が引けた。


「お前、天秤が止まらなくて完全に固まってただろ。……まぁ、クラスの奴らも大体そうだったけどな。みんな怖がってた」


「う、ごめんなさい……」


 1番後ろの席にいる一鞘にまで、自分が凍りついていたのが分かったということだ。戦闘員を目指しているのに、なんて情けない姿をさらしてしまったんだろう。


 そう思うと、恥ずかしくて頭が下がっていく。いたたまれなくなって思わず謝ったのだが、


「別に。悪いのは全部茶音だ」


 一鞘は実に淡々と蒼の恥を否定してのけた。そのあっさりとしているようにさえ聞こえる物言いに、蒼は思わず一鞘をまじまじと見つめた。


「初めて見た呪具なんだ、その呪具が変な動きしたら戸惑うのは当然だろ。お前も、クラスの奴らもだ。なのに1番あの天秤のこと知っていておかしくない茶音があのザマだ」


「あのザマ……って?」


「お前が固まってた時、あの教師顔面蒼白だった。そのせいでクラスの奴らも余計に恐怖煽られたみたいに見えた」


 頭が真っ白になっていたので、周りを気にする余裕がなくて思い至らなかったのだが。……そうだ、そこで助けてしかるべき茶音は、来てくれなかったのだ。


 来てくれたのは、それを見かねた一鞘だ。


「ったく、火と水が同じ量の奴がいることぐらい、想定しておけっての」


 一鞘は忌々し気に舌打ちまでしている。そんな一鞘に、気まずさや躊躇も忘れて、蒼は1歩近付いていた。


「あたし……、異常ってことは、ない?」


 尋ねる声は震えてしまっていた。目を合わせるのが苦手だった一鞘の目を、縋るように見上げていた。一鞘はそんな蒼に、しっかりと目を合わせてきた。


「おれの家にはあの天秤があったから、あれについてはよく知ってる。珍しいってだけで、異常じゃない」


 何の気負いもなく断言されて、胸を重くしていた鉛が、泡になって消えていくような――そんな感覚が、湧き上がった。蒼はぱっと顔を伏せた。また涙が零れそうだ。


 自分はあの天秤の一件で、こんなにも気に病んでいたのだと、今になって気が付いた。そうだ、あの時は本当に怖かった。すくみ上がって、動けなくなっていた。


 そして少なくとも、茶音に裏切られたような気がしていたのだ。


 一鞘や姫織に言い負かされて見るからに落ち込んでいた茶音に、蒼は同情していた。自分と重ねて見ていたところもあった。きっと言い争いが苦手なんだろうなと。


 まだ新米教師だから仕方ない、悪気はなかったんだろうと自分の気持ちに蓋をしていたが――……、恨んだ。


 助けてくれなかった。何が「風端君いきなり割り込んじゃダメでしょう」だ。軽い調子で謝って流すな。そんな思いが、今になって吐き気のように胸の奥底からせり上がってくる。


 もうあの人は信用できないと、はっきり確信してしまった。


「あたし……も。あの先生、好きになれない」


 涙をこらえようと唾を呑み込んでから、蒼はゆっくりと、言い切った。そんな風に誰かのことを言ったことなど、今までなかった。


「いいんじゃないか」


 一鞘の意見は、実に単純明快だった。その、あっさりとした口ぶりに、また気持ちが軽くなる。今度はそれを、素直に受け入れられた。うん、とうなずけた。


「ありがとう……、一鞘」


 胸に湧き上がった気持ちは、本当にそのまま口にできた。すると、一鞘が何故か目を見開いた。


「……何?」


「いや……、名前、」


「え?」


「……何でもない」


 言いたいことがよく分からなくて顔を覗き込んだが、一鞘の方から一方的に目を逸らされた。


(……?)


 それが気になって、思わず一鞘に1歩近付いたのだが、


「……お待たせ」


 姫織がとことことやって来たので、蒼は足を止めたのだった。




森に入って少ししたところで、蒼は木の根元に腰を下ろしていた。すぐ近くには、木の幹に背を預けて立っている一鞘と、蒼と同じく根っこを椅子代わりにしている姫織がいる。今は、姫織の教書のような説明に聞き入っていたところだった。


「……【五天】が産まれるのは、周期的にじゃない。龍が【五天】を必要とした時だけ」


「つまり、おれらの次にいつ【五天】が産まれるかは分からないってことだ。先代は、おれらの曽祖父母の世代だったらしい」


「バラバラってこと? 10年に1度とか、前の【五天】が亡くなったらとかじゃなくて」


「そういうことだ」


 姫織はきちんと整理した情報をくれるし、一鞘は噛み砕いた説明をしてくれる。このあたり、やはり2人は優秀なのだろう。


「だから、お前の言う目がどうとかが本当に【五天】を見分けてることになるのか、まだ確定じゃないんだよな。結局、お前にしか見えてない情報だから。先代が生きていたら、何とかお前を先代に会わせてみて同じなのか確認させたかったんだが」


(それはそれで嫌だったなぁ……)


 蒼はこっそりと苦笑した。一鞘達は同い年だからまだいいが、そんないかにも雲の上の人と会わせられるなんて。


 ひとまずは、目以外に【五天】に現われそうな特徴がないかを話し合う。といっても、一鞘と姫織が蒼にあれこれ訊いて、その答えを受けて2人が意見をすり合わせるという感じだったが。蒼は重要参考人といったところだろうか。


 しかし、そう都合よくはいかない。いい情報もいい考えも出ないまま、あまり成果のないまま日だけが傾いていった。


「……じゃあ、そろそろ戻るか」


 幹から背を離し、一鞘が解散を告げた。煮詰まっていた空気が、それだけでほどける。姫織もこくりとうなずいて、歩いて行く一鞘に続いた。


「もう暗いしね」


 蒼は夜の帳を薄く纏う空を、木の葉越しに見上げながらうなずいた。


 ――それが、合図であるかのように。



 ミシミシミシッ‼



 地面にヒビが走ったような音が、森全体に広がった。


「ッ⁉」


 突如ぶわっと溢れた邪気に、蒼の全身を寒気が襲った。一鞘と姫織も、困惑したように身構えている。


「おい、出るぞ!」


 姫織の手を掴んだ一鞘が、蒼をふり返った。蒼はうなずくのがせいいっぱいだったが、一鞘にはそれで十分だった。


 走り出してすぐ、蒼ははっとした。――姫織は足が遅いのだ。それを一鞘がカバーしようとしている。


 蒼は姫織を引っ張って走る一鞘に追いつくと、姫織の空いている方の手を掴んだ。これでぐんと速くなる。


 一鞘と2人で姫織の手を引き、坂道を転げ落ちるようにがむしゃらに足を前に突き出す。激しくなっていく鼓動を無視して、ただただ風を真正面に受ける。


 ――さぁ走れ、逃げられるものなら逃げてみろ。


 嘲笑う声が聞こえてくるかのようだった。早く、早く――……、


 木々の隙間からの茜色の光が増し、森に面する大通りが見えてくる。もうすぐで森がひらける、脱出できる――しかし希望を根絶やしにするかのように、邪気が一段強まった。


 蒼達を足止めするかのように、地面からしめ縄のように太い蔓が無数に突き出してきた。蔓同士が複雑に絡み合い、目の前の景色をあっという間に塗り替えた。


 反射で急ブレーキをかけ、何とか蔓の壁に激突することは免れた。蒼と一鞘に引っ張られていた姫織だけが勢いを殺せず、蔓にぶつかりそうになったのを間一髪2人で受け止められた。……しかし。


「どうしよう……」


 森の出口はすべて、無数の蔓が壁となって塞いでいる。蒼は途方に暮れてつぶやいた。



 その異常事態に、教師達は一気に緊張状態を強いられた。


「何だ、今の邪気は⁉」


「私、確認してきます!」


「――今のは裏の森からですね」


 1人、冷静に告げた教師がいた。妖学を受け持つ、向追大河という教師だ。


 彼がズバ抜けてそういった感知に正確なのは周知の事実であったが、それでも教師陣は信じられないという顔になる。


「バカな! あの森にこんなに高位の妖はいない筈だ!」


「それに、龍脈がこれだけ交わっている区域ですよ⁉」


 彼らの反論はもっともだった。裏森は、生徒達の体術や妖退治の実戦、術の訓練場として使っている。それは森が妖の好む条件をあまり兼ね備えていないこと、そして何よりも龍脈が幾重にも重なっている土地であるからだ。


「もしかしたら、何かの拍子に侵入したのでは」


「内部から生じた可能性も」


「……どちらにしても、邪気の生じ方が突然過ぎやしませんか?」


 冷静な指摘が落とされ、職員室は無言に包まれる。


 ――つまり、それはどういうことなのか。


 結局何も分からない。


 とにかく今分かるのはこれが由々しき事態ということだった。何人かの教師は森へ偵察に行き、他の教師陣は緊急会議を開くべくバタバタと動き出した。

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