二の四
三之助は立ちどまり、その先輩に――しぶしぶながら――頭をさげる。
藤川は、いま藩政を
「今頃のご到着とは、よいご身分なことだ」
誰に言うともなく、あきれたような口ぶりで、藤川は嫌味を口にする。
「おいぼれの下男など連れているからだ、家格がしれるな」
と斟酌なく云って、供の若い中間と軽薄に笑いあう。
藤川は全体的に狐を思わせる風貌であった。顔は細面で、白い肌をして、目は細くて、人のどんな
その唇をいやらしくゆがめて、藤川は続けた。
「仕事もできん、口もろくにきけん、要領もわるい、おまけに怠惰。こんな人間がよく平然と生きていられるものだ」
けっして、三之助のほうを見て云っているわけではなく、どこか景色をながめるように歩きながら、ひとりごとを、聞えよがしに云うような態度だった。
三之助は、茂平とならんで、藤川たちが目の前をとおり過ぎ去るのを、うなだれるような態度で見送る。
藤川の姿が、門のそとへと消えると、三之助はため息をひとつ。
――あいつさえいなければ、気楽な数日間なんだがな。
茂平はあんなことを云われて、よっぽど立腹しているだろう、と見ると、平然とした顔がそこにあった。
三之助の視線に気づいた茂平は、こちらをみて屈託なさげに笑う。
「あんなことをいちいち気にしていては、下男はつとまりませんよ」
その日の夜は、代官みずからが亭主役になって、勘定方のふたりをもてなしてくれた。御役所奥の座敷で、豪勢な料理がふるまわれたが、そこは、半分賄賂の意味合いがなきにしもあらず、と三之助でなくても気づく話だった。まあ、この程度の接待を賄賂と騒ぎたてるほど生真面目な役人は、今の藩には、どこをさがしてもいないだろうが。
それから三日の間、三之助と藤川のふたりは、宴会をした座敷で一日じゅう、帳簿とそろばんを交互に眺め続けた。
最初のうちは、なんだかんだと難癖をつけたりして、三之助をいじってきた藤川だったが、それも飽きてきたのか、三日目ともなると、ろくに口もきかないありさまだった。
こういう場合にかぎったことでもないのだが、三之助から他人に声をかけるとか、話をふって場をなごますとかいうことは、まずない。
田村家の新太郎や史絵とは、会えばなにかと話もはずむし軽口も云えるのだが、さほど仲の良くない同僚、とくに言動に棘のあるような性悪な人間とは、うまく会話ができないのだった。もうずいぶん大人になったことでもあり、いいかげんそういう子供じみた、他人に対する苦手意識は捨て去りたい、と、常々思っている三之助ではあったが、話せないものは話せない。そういう相手と対面すると頭が真っ白になって、言葉が出てこなくなるのだから、どうにもしかたがないのである。
そんな息苦しさのなかでの監査業務も、きっかり三日目に終えることができた。
監査結果を聞くのは、手代たちで、様々な項目の会計上の齟齬を指摘するのは藤川の役目で、三之助は隣でその様子を見ていただけだった。
そういう一連の、ほとんど儀礼のような仕事も終え、夕刻、三之助は、あてがわれた門の脇にある長屋の部屋へもどる。
今晩ひと晩は、泊ってもよい段取りで、明朝、春原城下へ帰る。
三之助は部屋にあがって、羽織袴を脱ぐと、脱いだものを部屋のすみにほっぽって、ごろり、大の字に寝転がった。
おおきな溜め息をひとつ。
茂平にはいくばくかの小遣いをあたえて旅籠に寝とまりさせ、三之助はひとりで、文字通り手足を伸ばしていた。
三之助は、じっと、天井の節目を見つめていた。
年季が入って、ずいぶん黒ずんでいる天井板の節目は、見つづけているうちに、だんだん人の顔のように、またはイタチかなにかが走る姿のようにも見えてくる。
まばたきのたびに、視界に星がきらめいて、見ているものすべてがぼんやりとして……。
そしてそのまま、うとうとと、睡魔に誘われるまま、まぶたを閉じた。
直後――、そとから数人の男たちが話す声が聞こえてきた。
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