■■■を無視しろ
MukuRo
ねえ、そこのお兄ちゃん?
私が見える?
私の声が聞こえる?
ねえ……ねえってば!
無視してるの?
無視しないで……。
私を見て
わたしを
わたしだけを
■■■を無視しろ。
その女は危険だ。
そいつに反応すると殺される。
そいつは毎晩通学路に現れる悪霊だ。
あいつは存在してはいけない。
死にたくないなら絶対に無視しろ。
絶対だ。
まずい
くる
たすかて
しな
「それで、警察来たらもう死んでたらしいぞ」
「ふうん」
何気ない普通の日の昼休み。僕、
「でも、たまたま病気持ってただけとかないの?」
「それが違うみたいだな。確かに死んだ人は六十歳のジジイだったけど。身体中から出血して死んだんだとよ。身体中傷だらけだったけど臓器は何ともなかったらしいぞ」
「そっか……それにしてもさ、今更ガラケー使う人なんて居るんだね」
何とも暗い話題なので、話を逸らすことにした。
「それ。大体皆スマホって思ってたけど年配ならいるんだろうな。それよりさ、翔也。ちょっと頼みが」
「宿題なら前にも見せたよ」
「いいじゃんいいじゃん。友達として何とか、な?」
そう卑屈に寄って来る彼は、僕の数学のノートを取り上げた。
「あ、ちょっと!」
「まあまあ、後でなんか奢るからさ」
はぁ、と僕は溜息をついて、彼がノートを写すのを眺めた。
「翔也、帰ろうぜ」
「今行くよ、ちょっと待ってて」
僕と岩田君は同じソフトテニス部に所属している。午後六時、部活を終えた僕達は荷物を纏めていた。
「言い忘れてたけどさ、岩田君のラケットそろそろ限界かも」
「え?」
「ほら、ガットが結構傷んできたみたい」
「あ、マジだ」
「放置してるとまずいからさ、張り替えよう」
「そうだなー。明日部活休みだし、持ち帰るか」
彼はラケットケースをぶんぶんと振り回しながらスクールバッグを担いだ。僕も(彼よりは穏やかに)帰り支度を済ませた。
帰り道、僕と岩田君でたわいも無い話を繰り返している。人通りの少ない住宅街で雑談の声だけが響いていく。
「それにしても、普通そんな事件あったらパトロールが強化されるくらいありそうだけどね」
「言うても、俺達が入学する前の話だし。いつまでも警戒ばっかしてられないんだろ」
「ふうん……」
「そう言えばさ、■■■■■■■■■■■、聞いたか?」
「ん、今なんて?」
「いやだから、■■■■■■■■■■■■■■■って話」
「ごめん、よく聞こえない」
「はぁ?さっきから……あれ、俺なんて言ってた?」
周囲に妙な気配が漂う。まるで誰かに見られているような、気が狂いそうな空気。
「なあ、早めに帰らねえか」
「そ、そうだね、今日は早
「私が見える?」
一瞬で身体が凍てつくような言葉。幼い女の子のような声。硬直する身体。振り返ってはいけない。根拠もないのに、脳みそがそう訴えているようだ。
「私の声が聞こえる?」
無視しろ、彼女に襲われ死んだ人はそう言っていた。反応したら殺される。惨殺される。
怖い。今すぐにでも逃げたい。でも、今逃げたら?僕も彼も彼女の声に反応して立ち止まっている。ここで逃げたら、反応しているのと同義じゃないか?
考えろ、考えろ……。あいつから逃げる方法を、生き延びる方法を。
「な、なあ?俺トイレ行きたい。早めに帰るぞ?」
「そ、そうだね……」
岩田君は話を無理矢理逸らしてくれる。これで聞こえないフリをし続ければ大丈夫だろうか?
不自然な早歩きで僕と彼は急ぐ。無視している以上は追ってはこないようだ。事実、あの気配が遠のいていく。これなら逃
「無視しないで」
背後からの拙い声に、身の毛がよだつ。冷たい汗が制服に染み込んで、ただでさえ冷えた外気がさらに寒気を増している。
見たくない。見たくないのに。交差点のカーブミラーに視線が寄ってしまう。そこに映るのは、白い服の少女。僕達よりも年下に見える人の形。
「私を見て」
もう耐えられない。見ちゃダメだ、見ちゃダメだ。ダメなのに……。
僕はそうっと、首を背後に回した。ゆっくりと、まるで強引に傾けられているように。
そこにいたのは……少女の姿。白い服を着ただけの少女。
違う。僕は認識していない。ただ背後に違和感を感じて、振り返っただけだ。そこには『誰もいない』。それだけだ……。
僕は首を正面に戻した。
「私が見える?」
すると、僕の目の前にその姿はあった。ふわふわと宙に浮かび、鼻先がギリギリ触れるくらいの距離に、少女の顔がある。その顔はどこにでも居るような女の子の顔。なのに、凄まじい殺気と恐怖心を孕んだ姿。現実ではないものがすぐそこに迫っている。
膝が震えて止まらない。口を閉じてはいるけど、歯がガタガタと音を立てるのを止められない。大粒の汗が背中を流れ落ちる。
「無視しないで。お願い、私を見て」
無表情ながら、必死に懇願する姿はまるで何かに怯える幼子のよう。それでも滲み出る狂気を隠せていない。
「私を見て……無視しちゃやだ」
わたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてわたしをみてむししないでむししないでむししないでむししないでむししないでむししないでむししないでむししないでむししないで
脳内に響く彼女の声。ただでさえ高い声が何重にもハウリングする。耳を塞ぐ余裕すらない懇願の叫び。聞いた事のない轟音に鼓膜が破裂しそう。脳みそに手を突っ込まれてぐちゃぐちゃに掻き乱されているようだ。
僕と彼はもう耐えられなくなり、その場から一目散に逃げ去る。追いかけてくる様子はないが、声は聞こえ続ける。すると彼女はすぐ目の前に現れる。彼女は僕達みたいにわざわざ追わなくてもすぐに現れる事が出来るんだ。僕は反対方向に足を折り返す。その時、足を挫いたのかその場に倒れてしまった。
「翔也!」
「岩田君……助けて……」
彼女は僕の背に馬乗りになる。小さな身体なのに、本棚の下敷きにでもなったかのような重みを感じる。
「う、動けない……岩田、君……」
「す、すまん翔也!」
彼は自身の保身を優先したようで、すぐに走り去った。
「お、置いて、いかない……で……!」
「ひどい人。みすてるんだ」
そう彼女は呟くと、細い手を伸ばし、握り拳を作る。すると、彼は突然左足を挫く。用水路沿いを逃げていた彼は、左側に倒れ、ガードレールを乗り越えて落下する。僕は重たい身体を何とか起こし、彼の元へ向かう。
「痛ったっ、ああああ……!」
彼の頭部からは鮮血が楕円状に広がり、意識を保っているのが不思議なくらいの重症を負っていた。
「じぶんだけ生きるなんてひどい」
そう言い放った途端。テニスラケットが彼の口元を直撃する。彼女が落としたのか。
「がっ、ごっ……。ぐうっ、ああ……!」
出血と共に、ぼろぼろと砕けた歯が落ちていく。コンクリートに二色の血溜まりが出来る中、彼は必死に立ち上がった。
「ふざけんな……この■■女!■■!■■■■■!何しやがるんだっ……この■■■■!!」
彼は酷く傷付いた口内を見せつけるように叫ぶ。立つことすらままならない筈なのに、死に物狂いで叫んでいた。少女は一瞬表情を変えるも、すぐにあの無色の顔へと戻る。
「あ、もういいよ。死ぬから」
突如、近くの街灯の明かりの部分だけがポッキリと折れる。落下したそれはそのまま彼の頭部を直撃し、顔面から彼は倒れた。ぐちゃり、という音だけが閑静な住宅街に響いた。
「あ、もう息してないや」
彼女はぽつりと呟いた。彼女にとって死そのものが現実にありふれたものであるかのように。
「ひっ……あああ……」
僕は情けない声を上げるだけで、その一部始終を見ることしか出来なかった。死ぬ。捕まったら死ぬ。抵抗しても死ぬ。逃げないと。逃げても死ぬんじゃないか……。でも逃げるしか……。
頭が混乱して思考がまともに動かない。恐怖心が絶頂に達し、身体中が常に震えるようになった。目の前の事が夢か現実かわからない。目を覚ませばベッドの上なんじゃないかと思いたい。彼の死がただの幻覚であってほしい、そうあってほしいのに……。何も出来ない。それでも逃げなきゃ……今なら視線がそっちに向いてるから……!
僕は後先なんて考えずに走り出した。どこに逃げるかなんて事は考えない。考える余裕もない。とにかく逃げる事しか考えなかった。
「さてと……あれ、いない」
逃げろ、逃げろ……。
挫いて痛む足なんて考えるな。
死にたくない。死にたくない。
怖くてしょうがない。もう耐えられないから、とにかく
「みつけた」
僕は後ろを振り返り、その姿を目撃した。その姿を見た途端、視界が急にひっくり返る。頭を地面に打った。倒れたんだ。無理に走ったせいでまた転んでしまった……!
僕は起き上がろうとした。
動かない。
恐怖心か、ずっと走り続けた疲労感か。
そんなのどうでもいい。
起きろ、早く……!
「無理だよ」
パリン、と何かが割れる音がした。それが隣の空き家のガラスだと気づくのは、僕の全身にその破片が突き刺さってからの事だった。
局所的に感じたことの無い痛みが走る。その破片は彼女の力で乱暴に引き抜かれる。僕はただ、僕の血で大きな水溜まりが出来るのを横たわって見ているだけだった。
「もう死んじゃうか」
僕の視線の前で、彼女は無邪気に微笑む。玩具を買ってもらって喜ぶ少女のような、目の前の惨劇を悦ぶ死神のような。
もう全身に力が入らない。視界がぼやけていく。本当に死んでしまうのだろう。受け入れるしかない事実なんだ……。
「なんか言い残すことはあるかな?」
彼女の目の色は、好奇心しか感じられない。純粋に僕の遺言が気になるのか。
「ねえ、君はなぜ……人を殺すんだ?」
「人が憎いから」
「……」
「自分の事だけ考えて、平気で人を無視する。そんな人が憎いの」
「無視っ、されるのは……嫌なんだね」
「うん。反応してくれてよかったよ。でもあのお兄ちゃんは嫌い。あんなひどいこという人も嫌い」
岩田君のことか……。あんな暴言を吐く彼は初めて見た。せめて何か出来ればよかったのに……。
「そうだと思ったよ……君がさっき■■■■って言われた時、顔色がっ、変わったんだ」
「そうなの?」
「うん。君は反応してくれると嬉しそうにする。でも■■■■って言われた時とか、無視した時は……ゲホッ、悲しそうだったよ……」
「よく、見てるんだね」
「うん。もしかして……。……ぅ、君は」
過去に辛いことでもあったんじゃないか、と言おうとしたが、もう意識を保つのも限界に近かった。意識がぼんやりと、霧がかかったかのように遠のいていく。
「……、ね……」
「さよなら、お兄ちゃん」
冷たく突き放すように彼女は告げる。死がすぐそこに来ている。もう言葉を発するのも苦しい。でもせめて。彼女がこれ以上の人殺しにならないよう。せめて、一瞬殺人を引き止められる言葉となれるように。
「ごめん、ね……無視して、ごめん……」
「……っ!」
「き、みは……そこにいる……ちゃんと、生きていた…………」
僕はもう動かない筈の右手を虚空に伸ばす。視界が真っ暗で、彼女の顔が見えない。それでも、何か触れられるように。
一瞬だけ、冷たい手に握られるような感触がして。もう腕は落ちた。音がない暗闇で、静かな死を僕は受け入れた。
「そんなの……ずるい」
そんな震え声を、最後に聞いたような気がした。
突然、身体が透明になった。
指の先から、身体がどんどん透明になる。黄色と白のあったかい光がわたしの透明なからだを覆う。
「わたし、消えるの?」
その答えは正解だった。もう手と足の指がない。ゆっくりと消えていく。
「あっけないなぁ」
もっと人をころせるからだなのに。無視ばかりする最低な人をどんどんころそうとしたのに。なんでたった一人のお兄ちゃんの声で、変な気持ちになって。お兄ちゃんの手を握ったら。もう消えちゃうんだ。
もうここには居られない。わたしそのものが消えるか、地獄にいくんだろう。
最後にお兄ちゃんが言った言葉。わたしが死ぬ前、似たようなことを聞いた気がする。
誰だっけ。
思い出せない。
わたしを助けてくれたあの人。
顔がわからない。
でも、すごく優しい人だった。
「……さよなら、お兄ちゃん」
さよなら。わたしの大切な人。
「お前達は恥ずかしいと思わないのか!」
一人の若い男が少女の目の前に立つ。無視と暴力を続ける大人達を前に声を上げる。
少女の名は“さつき”。孤児である彼女は、生活場所を求めこの地へと辿り着いた。だがこの村にとって、彼女のような余所者は排斥すべき存在として扱われた。仲間以外は受け入れるな、それがこの村の暗黙の了解であった。
「無視をやめろ!彼女の何に怯えている!彼女は何もしていない!一人の人間だ!ここに存在し生きる権利がある!これ以上村八分を続けるなら実力行使するまでだ!いい加減解らないか!!」
強くも優しい怒鳴り声が街に響いた。村人達は彼から遠のいていった。
「大丈夫かい、さつきちゃん?」
先程の怒り狂った声とは別人のような、柔らかい声で少女を包み込む。
「怯えなくていい。私がいる。君は生きている。ちゃんとここで生きているんだ。いない者なんかじゃない」
少女は涙ぐんだ目をごしごしと擦り、本来彼女が持ちうる笑顔を見せた。
「そうだ、笑ってるのが一番だよ」
実質的な村八分にされていた彼女とその家だが、確かに手を差し伸べてくれる人がいた。彼は、少女にとって唯一の救いだった。彼の存在のおかげで、村民全員から無視され続ける生活にも耐え続けた。
彼は少女を信じ、少女も彼を信じた。
少女が村人を惨殺した時も。彼が不可解な死を遂げた時も。少女が有力者達から拷問を受け死亡し、それを揉み消された時でさえ。
生きている間は、互いを信じ続けていた。
「……でもさ。やっぱり許せないよ、わたし。無視もいじめも許せない。だから、そんな人をわたしはころす。あいつらだけじゃない。ひどい人はみんな、わたしがころす」
さつきはその透けた身体で、夜を舞う。
男はその姿を、どこか悲しそうな目で見つめていた。
■■■を無視しろ MukuRo @kenzaki_shimon
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