第12話 シンガポール滞在 その2 1934年1月9日

 再びシンガポール島に橋を通って渡り、先ほど来た道とは違う場所を遠まわりして走ったが、道はやっぱりよく整備されている。途中でジャングルの様な木の茂っている所を通った。木は18mもあるくらいに高くて、道は日が当たらないせいか冷々として涼しい。密林とでも言うのだろうか、森の内は乱雑に木が生い茂っていて昼間でも暗い。アフリカ猛獣映画等のロケーション隊などがこの森を撮影に利用するのだそうだ。ゴム園が沢山、椰子の木、パイナップルの畑があって、沢山実がなっている。パパイアも実っていた。


 それから水源地に行った。あまり大きな池ではないが、周囲の木が新鮮な緑で水に映ってとても美しい。ここでもオーご夫妻の新婚旅行ロケーション撮影が始まった。この水は雨水を溜めた物とジョホールから鉄管で導いて来た物だとの事だった。そして市街に入った。日本人クラブと言う建物の前を過ぎて日本人公園に入る。ここはアラビア人の経営だそうだが、純日本式に出来ていて藤棚、池、三笠山、池には八橋、喜楽と言う日本式の茶屋もあり、七面鳥が飼われていた。この景観を写真に収めようと思ったが、時刻はもう5時半で周囲は暗く撮影は難しかった。

 

 再び三井物産支店に辿り着いたが、自動車に乗りっぱなしで3時間も走ったのでとても疲れた。ここで別れを告げて帰ろうとしたら、満州組の3人様には石炭部が夕食に招待するから、ひとまず照国丸に帰って待っていてくれと告げられた。オー氏ご夫妻は恐らく汽船部に、鐘紡の諸氏は綿糸部が招待するのだろう。午後6時半に照国丸まで送ってもらって一休みしていると、もう迎えの人が来た。この人は拓殖大学出身でライサン氏の後輩だそうだ。また自動車に乗せられて三井の前を通り、賑やかな所から暗い道を随分と走った。どうやら別の市街に入ったらしい。右折して海岸付近のトキワ花壇と言う所に車は横付けされた。


 洋館の玄関に、だらしなく浴衣を着た老女や、盛装した日本人らしい女中も3、4人いて我々を出迎えた。靴を脱いでスリッパで二階に上る。何だかガランドウで気持ちが悪い。海に面したところに一段高くなって日本座敷が設備されていて芝生の庭がある。なんだか芝居の舞台の様だ。。海は暗くて見えないが、ここはカトンという有名な海水浴場で、月夜のドライブは素敵だそうだが、あいにく暗い夜で電灯の光しか見えない。置いてあった絵ハガキで見ると、本当に良さそうな場所に写っていた。


 露天風呂に入ったらどうですかと言われたので、我ら3人で浴衣をかけて浴場に行く。庭に下りて下駄を履き、砂を踏んで海岸に出る。暗くてよく分からないが海に建てられた一戸建て家屋の浴場があって、そこには橋で渡れる様になっている。潮の香りがして波音が足の下に聞こえる。女中が電灯を着けてくれて中に入ると椅子、テーブルの部屋と畳敷の部屋とがあって広い浴場がついていた。お湯が熱く沸き過ぎていて入れなかったので、外で垢を洗い落した。これで月夜だったら良かったのにとつくづく残念に思った。


 風呂から上がって二階座敷に帰ってみると、御主人側がお待ちかねいてウヰスキーが用意されている。さては我ら満州組は呑み助と判断されたらしい。しかし我々三人組は揃って下戸で、ウヰスキーよりもサイダーをありがたがる連中だったので、御主人側も当てが外れたらしい。御主人は女将を相手にウヰスキーで乾杯していた。ここで日本料理が出た。刺身、蒲焼、酢の物、どれも当地の産だそうだが一向に美味くなかった。あまり見た目が良く無い女性も酌に出て来たが、これも手持不沙汰で味が無さそうだ。まあヨーロッパから帰ってくるお客には、この魚とこの女で日本に帰った様な気持ちがするのだろう。


 驚いたのは天井や壁にヤモリが這い回っている事である。長さが15cm位で、壁に止まっている蝿を目の前で食べて見せた。ここらの家にはどこでもヤモリがいるので、慣れると平気でむしろその目元などは可愛らしいと言う。壁はいいとしても天井の頭の上までやって来るから、いつ落ちてくるかも知れないのでヒヤヒヤする。いや、実際に落ちる事もあるらしい。「電灯が部屋の中央にあった時には、ここに寄って来る虫をめがけてヤモリが来て落ちたので、つい最近電灯を両隅へ移しましたと」女将が言っていた。


 私らは一向に酔えなかったので雰囲気は座談会の様になり、御主人様から質問攻めにあった。下記はそこで得た知識。


〇 この地に住むのは日本人3000人。そのうち1000人は沖縄からの漁師で、シンガポールの魚の半分は彼らが供給している。フカのいる様な大海に網を張って、潜って魚を網に追い込むのだそうだ。

〇 日本人小学校は生徒400人。運動会の時には日本人商店がすべて休んで大騒ぎをするそうだ。小学校以上に進学する時は、内地へ帰すかここの英語学校に入れる。

〇 ジョホールには野生の虎、象、カメレオン等が居る。虎がジョホールの海峡を泳いでシンガポール島に来る事もある。虎に出会ったら睨みつけるのが秘訣で、背を見せたらやられるらしい。

〇 支那人の勢力が盛んである事。排日主義者をあまり取締まると排英になる恐れがあるので、官憲は大目に見ている事。

〇 当地の産業はゴムと錫とで、三井でもこれが主な商品。撫順炭は昨年秋から満州と内地で景気が良いが、ここまでは配給して貰えないそうだ。まあ。それでも排日主義で売れないと聞かされるよりはマシである。


 女らしくもない女性が座興をつけようとして、枯れた声で歌いながら東京音頭を踊り出した。これでは座興も冷めてしまう。我々の興味は、もはやヤモリが偶然にやって来たバッタを果して食うかどうかにかかっていた。ヤモリはこの大きな獲物を狙ってソロソロと近づいて来た。20cmまで接近して、しきりに睨んでいたが、余り大きくて断念したらしく、後へ逃げて行ってしまった。


 午後11時に自動車で送ってもらって照国丸に帰った。明日は正午に出港だから、朝の内の見学の為に朝8時に車を回してもらう様に頼んでおいた。


 シンガポールからの移動距離374km。風向、東北東。風力1m/秒。気圧758.1ミリ(1014ヘクトパスカル)。気温26℃。水温27℃。移動歩数2600歩。

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