第11話 シンガポール滞在 その1 1934年1月9日

1月9日、火曜日。晴。照国丸がシンガポールが近づいて来て、両岸に島が見えて波のうねりがずっと減って来た。島は遠くて低いからまだ良く分からないが木が生えていて家もあるらしい。汽船も通っている。


 甲板上に出てマウント氏と写真の撮り合いをする。午前11時頃、どこかの水上飛行機が飛んで来て、船の上を2回グルグル回って飛び去った。どうやらイギリスの物らしく、「これは船に敬意を表したのだ」と言う人と、「示威に来たのだ」と言う人とで意見が二つに分れた。


 昼食が済むと、もうシンガポールの港はすぐ目の前に見えている。とても平らな島で、香港と比べると丸みを帯びていて違った感じに見える。町全体が水の上に浮んでいる様に感じられて高い建物だけが目立っていた。照国丸が埠頭に横付けになり、周囲には十何隻かの丸木舟が舷側に漕ぎながら近づいて来て、現地人たちが上を見ては口々に何かを叫んでいる。どうやら「銭を投げてくれ」と言っているらしい。乗船客が銀貨を投げると現地人たちは海に飛び込んで、海底へと落ちて行くのを拾っては自分の物にしている。本当に狡猾であさましい風景だが、銀貨は水中ではゆっくりユラユラと落ちるので、これを拾うのは割に楽な仕事なのかも知れない。私は無駄金を使う気にはなれないが、この際だから銀貨がどのくらいのスピードで海水まで落ちるのかをストップウォッチで測ってみよう。丸木舟には1〜2名の現地人が現地人が乗っている。肌色は黒いが、顔付きが日本人に近い者もいる。白髭を生やして乃木大将に似ている者や、小磯参謀長に似ている者、あるいは子供っぽいのもいる。船頭は一本のオールで巧みに舟を操っていて、中にはタバコを吸っている者もいた。彼らは海に潜る時にはタバコの火のついた方を口の内へ入れて、それを口にくわえたままで海に飛び込んでいる。この景色を見て喜んだ乗客たちは、しきりに銀貨の雨を降らせていた。私もちょっと気が変わったので、もう使わない上海の20銭を投げてみたが、さすがにここでは通用しないらしく、彼らは拾ってそれを確かめると、海へ投げて捨ててしまっていた。シンガポールは要塞になっているので、軍事的に利用されるのを恐れて海岸では写真は撮影禁止になっているのだが、私はそっと見つからない様にこの様子を撮影した。


 いよいよ埠頭に着くと、そこにいる人種は様々だった。白人、日本人はもちろん、ヒゲの多いベンガル系インド人は頭に白布を巻いていて、イスラム教のヒンドスタニーは黒い帽子を被っていて肌の色が黒かった。それからマレー人や支那人、安南人等々。彼らが集まって照国丸にはしけを渡したので、午後2時には上陸が出来る様になった。裸足のマレー人が、両替や絵葉書、そして郵便古切手を売りに船内にやって来た。


 三井物産の人が出迎えに来てくれていた。ところが我々船客仲間で三井に頼ろうと言う連中がとても多い。正式に本店から紹介されている者もいるし、私の様に飛び入りの者もいる。点呼をしたら、我々満州組の3人、オー氏ご夫妻(奥様は、宗教家であり内角大臣や北支那開発株式会社の創始者でもある人物のご令嬢)。2組4人、それに鐘紡の人4人で計11人。三井もこうなってはツーリストビューローと同様である。タクシー三台に分乗して、まずは三井シンガポール支店の応接間に集まった。何とか言う名前のお偉いさんが出て来て名刺を交換した。この時には私も学校教授よりも満鉄社員の方が通りが良いので、あらかじめ用意しておいた社名入りの名刺を出して、あたかも満鉄代表の様な顔をした。三井は客の案内は慣れた物で、すぐに3台の自動車を用意して1人の案内人が付き、ジョホールまで行こうと言う事になった


 道すがらには内航船の波止場や海岸通りの芝生があって、市役所や記念ビクトリア劇場などもあり、市内には至る所にヤシの木が茂って実が沢山になっているし、空も青々としているので、香港と比べてもますます熱帯らしい地になって来た。聞く所によると12〜2月は雨期で大雨が多いとの事。いくらかは涼しいそうだが、室内は華氏83度(摂氏28度)の暑さだった。


 町で面白く見かけたのは、家の軒下が歩道になっている事が香港と似ていた所である。マレー人の巡査は背に大きな白色のカゴをくっつけて交通整理をしている。交通機関は自動車が多い。電車は無軌道でその他に乗合バスがあり、これは反イギリス運動当時から支那人がやり出したそうだ。普通のフォードに赤い小屋の様な物を付けた小型バスも走っていた。ここらは支那人の店が多いらしく、看板は英文と支那文で書いてあった。

 

 10分ほど走った所で植物園に着いた。大きな熱帯植物が集められている公園の様な所で、私はその変わった景色にあまりに驚いたので、椰子の木をたくさん写して回った。木のよく茂っている所に猿が放し飼いにされていて、これも照国丸乗客の西洋人が子供を連れてバナナを買って来て猿にやっている。猿は方々から集って来て、人を恐れずに近よっては手に持つバナナを取った途端に逃げていた。道に十何匹も並んで遊んでいて、これも大変珍しい風景だった。同じく珍しい蘭が集められた所も見た。蘭の事は少しも分からなかったが、良い匂いだけは気に入った。オーさんご夫妻は新婚旅行と言う訳だが、到る所でお婿さんがお嫁さんに向かってあっちこっちに立たせて写真や16ミリカメラで撮影していたので、我々はかなり待たされた。これではまるで新婚旅行ロケーションのお伴をしている様な物だった。

 

 植物園を出て郊外を最高スピードで走るが、道路は整備されていて乗り心地が良い。所々に支那人の店舗がある。空気の暑さと湿り具合は内地の梅雨の時と同じ感じで風景も見た目が似ている。途中にあるゴム園で下車して、ゴムの木に傷をつけてゴムの原材料となる汁の出る所を見た。まるでコンデンスミルクの様な液体が見る見る内に付けた傷から湧き出して来て、斜めの傷の溝を伝わって器に溜まった。これに酢酸を加えて固めるて天然ゴムにするのだそうだ。来る途中で行違った車にもこの粗製ゴムを積んだ物が多くて、とても不快な香りがしていた。最近はゴムの値段が下がってさっぱり駄目だと聞いた。一包みあたり1円何十銭だったのが、近頃は何銭と言う下落ぶりだそうだ。


 シンガポール島の北側は軍港で、先だってから問題になっている浮ドックやその他の設備を今やっている所である。無線電信の塔が見えた。我々の走る道のすぐ側には沢山の給油タンクがあったが、これには果して油が入っているのだろうか。シンガポールを出て40分でジョホールに入る。これは独立王国でイギリス人のアドバイザーがいる。つまりイギリスの保護国である。1km弱の長さの陸橋で渡るその側を汽車の線路も通っていた。その最後の所に幅の狭い跳ね橋があって、その下を舟が通っていた。


 この辺りを一口に英領マレーと呼ぶのだが、詳しく言うと次の様な行政組織になっている。


 *英領海峡殖民地=シンガポール島、ペナン島、その他。


 *マレイ連邦保護領=四つの州から構成されていて、それぞれの州には現地人の支配者(サルタン=王様)がいる。


 *非連邦である四つの州=ジョホールはここに属している。


 ジョホールに入る所には形式的だが税関の検査があって、かろうじて独立国の面目を保っている。ジョホールに入ってもあまり人や町並みの風景に変化は無かった。小高い丘の上にイスラム教の寺院(モスク)があって、白亜色でのサラセン建築は見事な物であった。中に入って直接この目で見たかったのだが、異教徒は入れないと言われた。イスラム教徒が入るには、まず水浴室で心身を洗い、メッカに礼拝しなければならない。私はここで修行している人を少し写真で撮影した。


 見物する所は決まっているらしく、照国丸の人々が乗った車が集って来て我々3台、郵船2台、自腹組が2台と集中した。少しジョホールの町を走ると広い芝生やゴルフリンクや立派な住宅があって、とても気持ちが良かった。三井の案内人の話によると、シンガポール郊外でちょっとしたサラリーマンの住宅と言うのが、我々から見て理事の社宅以上であり、テニスコートくらいが備えられていない家は無いそうだ。私の知人がこれを聞いたら羨ましがられる事だろう。


 ジョホールの王様の住まいも見たが、平民の家とそれほど違わなかった。その隣りの西洋人クラブのホッケー場へぞろぞろと見物に入り込んだら、体格の大きな西洋人が出て来て怒られて体裁が悪い思いをした。「Is there anyone who speakes English?(誰か英語を話せる者はいるか?)」と言って文句を言える対象人物を求めている様だったが、皆が顔を揃えて「誰も英語が解からん」、「何を言っているの?」と言う風な表情をして渋々とそこから出た。こんな時にはこれ以上の方法はなかっただろう。

 

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