第7話 香港滞在 その3 1934年1月5日

 私は、一度は経験の為に二階付き電車に乗ってみたいと思ったので、リバティさんにせがんで支那街まで乗せてもらう。二階は上等席で10仙、一階は下等席で5仙。出入口が前後で別になっている。車掌は下にいるが時々二階へ上がって来た。電車のスピードはとてもノロいから見物には好都合だ。電車が走っている感覚はソバ屋の出前がザルを沢山頭にのせてソロソロ歩いている様な感じがする。支那町付近には日本人の住宅もあって、カタカナで書いた店名も出ていた。このあたりに住んでいる日本人は、支那人とあまり変わらない生活らしい。三階建てアパート等が立ちならんでいて町が雑然としていた。


 そこから引き返して再び街の中心地に向かい、海岸通りのビクトリア女皇の銅像のある公園を見て、それから私蒸気船で対岸の九龍に渡った。この船も二階付きで乗船料は上が10仙、下が5仙だった。救命胴着は上の方にはあるが、下の方には一つもついていなかった。これは万が一の時には5仙組は命が保証されていないと言う事らしい。とにかくすべて支那人は別の下層待遇なのだろう。


 10分間で対岸に着いた。すぐ前に九龍駅があって広東行きの汽車が出ている。急行だと3時間で行けるらしい。照国丸がもう一泊でもしてくれると広東見物まで出来るのにと悔しい思いをした。九龍と言うのも立派な町で、電車はなくバスが行き交っている。「ペニンスラホテル」と言う十階建てくらいの立派なホテルがあった。商店街がある道幅は大連の山縣通り位あって、街路樹が思い切り大きく成長していて根元が直径60cmほどもあり、これが道を覆って緑のトンネルを作っていた。


 本通りから折れ曲がったところにリバティさんの社宅があった。同じ家が四軒並んでいて前には共用の広い芝生がある。坊ちゃんが自転車で遊んでいた。それぞれの家の二階と一階とが別世帯で、すべて三井の人が住んでいるそうだ。ベランダがある立派な家で、イギリス人が作っただけにガッシリしていた。十何畳ほどの広さのフローリングの部屋が3つくらいあったが、やはり畳が恋しいらしくて一部屋には畳が敷いてあった。「ここまで来たのなら畳とは縁を切っても良さそうなものなのに」と思った。


 「ソファーにお座りになってお茶でもどうぞ」とリバティさんがおっしゃって下さった。奥様は前に書いた通り、マージャンにお出かけでお留守をしていて、支那人の女召使い(アマと言う)が三人の子供さんを世話しているのだそうだ。隣りの屋敷にシュロの様な木があって、梢の葉かげに胡瓜の大きい様な果実が数個ほど固まって成っている。尋ねて見ると「パパイヤ」だそうだ。食べた事はあるが、実際に木に成っているのを見るのは初めてだったので、さすがに熱帯まで来たと感じさせられた。


 午後5時にリバティさん宅をあとにし、赤塗りの人力車を三輪ならべて渡り船の所まで行く。また10仙を支払い、渡し蒸気船に乗って香港側の船着き場に行く。照国丸は午後6時に出港と言うので最後のランチ船を待つ。その間にスケッチなどを描いて時間を潰した。別れ行く西洋人の男女がランチ船に乗る時に、人前も恥じる事なくチューと音立ててキスをしているのには驚いた。彼らにとっては当たり前の事なのだろうし、私ももっと丹田に力を入れて、これくらいでは驚かない様にしなければいけないなと困った。


 リバティさん御夫妻は照国丸まで見送りに来て下さって、午後6時に出港した。夕日は島影に隠れて暮色蒼然としており、ホンコンの町にはともしびが入った。海岸通りの沢山の灯や百貨店のイルミネーション、山の腹へダンダンに建っている家々の灯、山につけた道を照らす街灯、山頂の灯など、島のすべての場所に灯を飾り立てた様な美しさだった。西の空には金星が輝いていたが、島の灯も空の星と見間違うばかりであった。


 対岸の九龍も美しい。駅の時計塔の灯やホテルの灯が、照国丸が進むのにつれて見え隠れしている。港に停泊中の数隻のイギリス艦も美しい。食事を知らせる鐘が鳴っているのも忘れて、甲板でこの夜景に見入っていた。


 夕食の済んだ頃には、照国丸は島影を出て大海に入ったと見え、波のうねりが大きくなったので、これは危険危険。早速ベッドに潜り込んだが、思ったほどのうねりにもならなかったので、再びノソノソとベッドを這い出して今日のスケッチに色を塗った。 


 香港での徒歩移動数、6020歩。

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