第3話 上海滞在 1934年(昭和9年)1月1日
1934年1月1日火曜日。年明け早々、6時に目が覚めてしまった。寄航して停船中だからか船の中はとても静かである。こんな静かさで船が動いてくれると良いのだけれどと思う。手早く身支度をして甲板に出ると、外はかなり寒いので一旦部屋に戻ってコートを着て出直した。河面は煙の様なモヤに覆われていて、河向うの紡績工場から白い湯気が立っているし、近くには川底を掘る船も見えている。この景色はなかなか絵になると思ったので、水彩画を一枚描いた。
午前8時半から新年のお祝いがあるので食堂に出かけた。おとその盃を上げて、皆に「おめでとう」と言い、朝食を食べ始めた。出された料理は蛤の吸物とお雑煮、それにご飯と、なんとも正月らしい食事だった。
午前9時、オネスト氏がいらっしゃって、「これから私の自宅へ来ないか?」と誘われたので、バリイ君と一緒にお伴して行く。オネスト宅の場所はスコット通り40番地と言う閑静な良い所で、立派な住宅で感心した。暑さを避ける為のベランダがあり、窓は大きくて気持ちが良い。広い芝生の庭があって、門には鉄のしっかりした扉が入っている。玄関に入ると左手に広い応接間があり、マントルピースが付いている。奥様にお目にかかるのは久し振りだった。お子さんは7歳の女の子と6歳の女の子、4歳の男の子と2歳の男の子で、長女さんは今年から小学校へ行くと言う。1時間ほどみかんを食べお茶をながら雑談し、オネスト氏は海関の新年祝賀会が12時からあるとの事で、一緒に外出し、照国丸の寄航している所迄タクシーで送ってもらった。
船での昼食までには時間があったので、甲板に上がって上海の大まかな景色の絵を描いた。
昼食後、再びバリイ君と一緒に照国丸から出て市街バスに乗ってみた。東京のバスよりもずっと大きく、道の舗装が良い為か少しも揺れないで乗り心地が良かった。ガーデンブリッジで下車して乗車賃12セントを支払った。あたりの雑踏、バス、電車、人力車等の風景を8ミリカメラで撮影した。電車は特等席と普通席とがあって、大抵は二両連結で、前の車両が特等席だった。上海にはこの他に無軌道電車と言うのがあって、屋根には電車の様にパンタグラフがついているが、車輪はタイヤでバスの様になっている。これも乗り心地が良さそうだ。
それからオネスト氏と再び落ち合う約束があったので、町を歩いて子供公園に午後2時に着いた。オネスト氏は雇ったタクシーで来て、すぐに町の西の外れのジェスフィールド公園に行った。この附近は郊外住宅で気持ちがとても良さそうだ。三階、四階建ての大きなアパートがある。公園は広くて美しい。日当たりのよい所にはバラが咲いていて、いかにも上海は穏やかな場所の様だった。
再びタクシーで競犬場(Caridrome)に行った。そこは立派な建物だったのだが、見物だけに入るのに一人1ドルも払わなければならなかった。馬券ならぬ、犬券を買うのにみな大騒ぎをしている。ちょうどレースが始る前で、騎手が赤い制服を着て、これから走る競争犬を連れて見物人の前を見せて歩いている。競争犬は6頭で、番号の入ったゼッケンを着せられている。やがてレースの時間が来て競争犬を一列に並んだボックスに入れると、その前を木製で出来た囮の兎が走る仕組みになっている。合図と共に一斉にボックスの蓋を開くと競争犬が飛び出して囮の兎を追い始め、コースを一周すると勝負がつくのだ。券を五ドルで買えば、当たると五十ドルにもなる事があるそうだ。二度レースを見たが面白そうだったので、この情景を8ミリカメラで撮影した。
それから歩いてフランス租界まで出向き、電車にも一度乗って見る。大世界と言う見世物小屋の集っている所へも入った。入場料は20セントで、支那の芝居やら、色々なドンチャン騒ぎをやっていた。
そこを出てから人力車に乗って、南京路まで行った。途中で毛皮や衣服が沢山売られていたので驚いた。中国風の喫茶店に入り、ココアとミカン、それにブタマンジュウを食べた。これは大連のものよりも味が良い。オネスト氏は「大連から味の素が輸入されているんですよ」と言っていた。食用の蛇も置いてあったが、さすがに食べるのは遠慮した。
南京路の夜景も見たが、これはとても銀座にかなわない。とても寂しい風景である。タクシーに乗って一度バンドに出て、照国丸が寄航しているウエイ・ サイド埠頭に帰る。時間は午後6時、気温はずい分下がったらしく寒かった。先ほど食べたブタマンジュウで食欲は満たされていたので、夕食はやめにした。
夜になって手紙など書いていたら午後7時頃、東京から四女が安産だったとの電報が来て、とても安心した。やはり女の子だったか。電報の返信は明日の朝に照国丸が出航してから打つとしよう。
移動歩数7320歩(約5.124km)
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