ちひろについて
aoiaoi
前編
10月、秋晴れの夕方。
サッカー部の練習を終えた帰り道。
俺が出てくるのをどこかで待っていたのだろうか、思い切ったように女子が一人俺の目の前に走り寄った。
同じ高校の制服だが、同じ2年生かどうかはわからない。そもそも、この子は顔が地味でオーラが薄い。
「あの……桜田先輩、これ……受け取ってもらえませんか」
彼女は、おずおずと手紙を俺に差し出した。
頰が真っ赤だ。
俺は、こういう時に使ういつもの微笑を浮かべた。
「あー……ごめん。
今、練習に集中したくて。誰からもそういうの受け取らないって、決めてるからさ。
本当にごめんね」
「…………
わかりました」
その子は、唇をぐっと噛んで手紙を引っ込める。
溢れそうになる涙を指で必死に払うと、くるりと俺に背を向けて走り去った。
「あーあ。かわいそ」
「
背後から、部活の仲間が二人どさっと寄りかかってくる。
「しょーないだろ。興味ない子に希望持たせてどうすんだ」
「だから! そういうのが冷たいって言ってんの」
二人とも俺の前ではこうして楽しげにしているけど、陰では何気に文句を呟いてることを、俺は知ってる。
「調子こいてる」とか何とか。
「隼人はさ、イケメンで勉強できてサッカー部でも目立ってて、全部持ってってるよなー。モテて当然だけどさあ」
「さっきの子への言い訳も、どうせテキトーだろ。可愛い子にはフツーにOK出してるもんな。で、飽きたら次々彼女替えて、やりたい放題かよ」
「まあな」
彼らの言葉を、否定する気はない。
勉強も部活も、それなりに頑張ってる。それに容姿やら何やらは勝手に親から与えられたものだ。ブーブー言われても困る。
結果的にその他大勢より多くのものを持ってるんだから、持ってるものを有効利用して日々を楽しんで、何が悪い?
俺はそんな強引な
現在、俺が狙ってるのは、特別な女子の彼氏というポジションだ。
彼女の名は、
栗色のロングヘアに小さな顔、大きな二重の瞳、ふっくらと艶やかな唇。メリハリのある体つき。まさに高嶺の花だ。
結も、自分がもてはやされていることを存分に楽しむタイプのようだ。告白を断る時の彼女の微笑みがエグい、付き合って三日でフラれた、その翌日には違う男と歩いてた……男達のそんな悲痛な嘆きがひっきりなしに聞こえてくる。
一筋縄ではいかない相手であることは重々承知しているが、簡単でないからこそ余計手を伸ばしたい。そう思うのが男だ。
あのお姫様を連れて街を歩いたら、さぞ気持ちいいだろう。
最近の俺は、暇さえあればそんなことばかりを想像していた。
*
欲しい参考書があり、部活を終えた俺は街の書店へ向かった。
本屋なんて、滅多に行かない。読書もしないし、参考書とか問題集とか本当に必要なものができた時だけ立ち寄る程度だ。
久しぶりに入る店内の紙の匂いにほっと癒される。
本を買い、店を出た時には、夕暮れの空は闇に変わりつつあった。
「あっ」
不意に、すぐ横で小さな叫びが上がった。
と同時に、自転車に乗った黒い影が、目の前を走り去って行く。
「ちょっ……鞄っ!!」
叫びを上げた人影が、次の瞬間自転車を必死に追いかけ始めた。
どうやら、あの自転車の男に鞄をひったくられたようだ。
それを目にした俺の足は、既にスタートを切っていた。
自慢の俊足をなめるな。
人の流れの中をスムーズに走れない自転車が、それでも強引に人混みを搔きわける。
俺はみるみる自転車の男に近付いた。
その横に追いつき、自転車のハンドルを握る腕にガシッとしがみついた。
男はバランスを崩し、自転車ごと道にどさりと倒れこむ。
起き上がれずにいる男を渾身の力で押さえ込み、叫んだ。
「ひったくりです! 警察! 警察呼んでください!!」
警察での質問等事務処理を終えた俺に、被害にあったその人は戻ってきた鞄を抱き締めながら俺に深く頭を下げた。
「あざっした、マジで」
掠れた声が、耳に届く。
ふわふわした茶色の髪が、俯いた顔にかかっている。
ん……?
一瞬の違和感を感じた直後、その顔が上がった。
そこには、驚くほど綺麗な女の子が、俺を見つめて子供のような無邪気な微笑を浮かべていた。
「ほんと、これ
俺より少し背は低いだろうか。薄い化粧をした端正な顔に、肩くらいまでの柔らかそうな茶髪がふわりとかかる。
ハスキーボイスに、なんとも雑な言葉遣い。
服装は、なかなかにハードなロゴの入ったジャンパーと、強いウォッシュのかかった細身のジーンズ。ごついバスケットシューズ。
初めて見る、ぶっ飛んだ食い違いっぷりだ。
——俺の中の何かが、突然強烈に揺さぶられた。
切れ長の涼しげな瞳が、俺を見つめて問いかける。
「なんかお礼したいんで……とりあえず、お名前聞いていいですか?」
「……桜田 隼人と言います……
お礼、ですか……
なら……これからその辺で、お茶とか付き合ってもらえますか?」
「は、お茶?
えっと……」
「あ、お金は俺が持つんで」
「…………面白いっすね、桜田さん。
自分、
あまりにも出し抜けな俺の要求に、彼女は一瞬驚いた顔になったが——すぐに、ニシっと明るい笑顔を見せた。
警察を出てすぐ側の、ファストフード店。
色気も素っ気もないが、とにかく俺はこの出会いに変に気が動転していて、気の利いた店など思いつくはずもない。
水瀬千紘は、それに特に不満顔をするでもなく、俺の隣でポテトをもぐもぐと口に運んだ。
「あの……水瀬さんは、学生?」
「ええ、高校2年です。○○高校」
「え、あそこって優秀なとこじゃない。すげえ。
俺は、△△高の2年。水瀬さんのとこに比べたらめっちゃ下だなー。
それに、○○高校って、ここから少し離れてるよね?」
「……別に、すごくもなんともないですよ。いつもギュウギュウと息苦しくて、つまらなくて……
なんか、知り合いと顔合わせないところで過ごす時間を作りたいなって。友達なんかが来る心配のないあの本屋でバイトしてるんです」
どこか寂しげに見えた瞳をすっと切り替え、彼女は俺を見てニっと微笑んだ。
「あ、千紘でいいっすよ。呼び方」
「……うん、わかった。
じゃあ、君も敬語はやめてくれる? 俺のことも、隼人でいいから」
「了解〜」
手元のコーラをずずっと啜り、彼女はからりとそう答えた。
小一時間ほどなんということもないおしゃべりをして、千紘と別れた。
もちろん、連絡先をお互いに交換して。
別れた後も、彼女の掠れ声が、俺の頭から離れない。
彼女は——不思議だ。
あんなに綺麗な顔をして。
上から下まで、風変わりなギャップだらけで。
なのに、構えずに側に居られる不思議な空気を持っていて。
さっき別れたばかりなのに。
すぐにでも、また会いたくなる。
気づけば俺の脳みそは、あの無邪気な笑顔と、微かに見せた寂しげな眼差しでいっぱいに埋め尽くされていた。
*
11月下旬、土曜の午後。
俺と千紘は、水族館のクラゲの水槽の前にいた。
初めて会った日から、約ひと月。
ほぼ毎週末、俺たちは遊びに出かけていた。
映画、古本屋、動物園。
これまでに一緒に出かけた場所だ。
どこか行こっか、と誘うと、少し考えて、控え目なメッセージが返ってくる。
断らずに誘いに応じてくれることが、天にも昇る程嬉しかった。
千紘はいつも、目の前のものを静かに見つめる。
何かを深く考えるかのように。
そして、そんな物思いからふっと空気を切り替えると、いつものように涼しい眼差しで明るく笑った。
今も、彼女は目の前に緩やかに浮かぶクラゲをじっと見つめている。
ふと、小さな呟きが聞こえた。
「……いいな、お前は」
「え?」
「ん、なんでもない」
水槽の照明を受けながら小さな一言を誤魔化した彼女の微笑みが、あまりに美しくて——
俺は、すぐ隣にあった彼女の指に、思わず手を伸ばした。
俺の指が触れた瞬間——彼女は、怯えたようにばっと手を引っ込めた。
「——あ……」
そのまま、彼女は表情を硬くして黙り込む。
「…………
そろそろ、帰ろっか」
気まずい空気をどうにか片付けてしまいたくて、俺はギクシャクと呟いた。
「——隼人。
この後、寄りたい場所がある」
俺の呟きに、意を決したように顔を上げると、千紘は小さく微笑んだ。
水族館から少し歩くと、海の見える広場がある。
冬も間近な寒い海はすっかり夕闇に包まれ、辺りにはもう人もいない。
俺たちは、それぞれのダウンジャケットに
海と周囲の街の灯が見える
「隼人。
言ってないことがあるんだ」
そう言うと、千紘は自分の柔らかな髪に手を伸ばし、ぐっと力を込めた。
彼女に掴まれた茶色の髪が——ずるずると、頭から引き
髪を剥がし終えると、千紘は唇のリップを手の甲でぐいと拭き取った。
そこには——
黒々とした短髪と凛々しい顔立ちの、美しい男子高校生が立っていた。
「…………」
「俺は、男だ。
男なのに、男に恋をしてしまう、そういう種類の」
「……」
目の前の事実が飲み込めず、俺はぎゅっと眉を歪めた。
「誰かにいくら恋をしても、多分俺の想いが叶うことはない。
その現実に、俺は半ば
姉さんが、メイクアップアーティストをやってて。
気づけば俺も、男子の注目を集める綺麗な女子になって見知らぬ街を歩いてやりたい、なんて思うようになった。
ふざけ半分に姉さんに頼んでみたら、『千紘なら絶対似合う』って、いろいろ貸してくれてさ。化粧道具や、このウィッグとか。
何度も、メイクの練習をした。
実際に街に出てみたら、俺の願いが少しだけ叶った気がした。
俺を知らない男子高校生が、みんな俺を見て振り返る。
それが、気持ちよかった」
「……それで……
それで君は、こうやって俺がどんどん君に惹かれていくのを、密かに面白がっていたのか?
君は、俺を
「違う!」
千紘は顔を上げ、真っ直ぐ俺を見た。
「あんな風に、隼人と知り合うなんて……これっぽっちも思ってなかった。
隼人に出会ったあの日に、『オレは男だ』と、伝えなきゃいけなかった……
どうしても、言えなかった。
隼人と、もっとずっと一緒にいたくなった。
本当のことを言ったら、隼人は俺に間違いなく呆れ、離れていってしまう。
——それが、怖かった。
キモいだろ?」
千紘は、ふっと乾いた笑みを浮かべた。
「…………」
思いが、まとまらない。
どうやっても。
俺が恋をした人は——
たった今、俺の目の前で、消えてしまった。
「ごめん」
千紘の小さな呟きが、俺の耳に響く。
なのに——何一つ、言葉を返せない。
俺はそのまま、黙って千紘に背を向けた。
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