2話

 狩猟者の一人、オルヴァーは最初から今の今まで、ずっと自身が主役になる結婚式に不満を持っていた。


「第一、どうして主賓の俺がやりたくないと言っているのを無視して式が執り行われようとしているんだ。村の全員が結託してヘレンの肩を持って無理矢理強行するなどどうかしているぞ……どうしてこうなった。俺が何か悪いことをしたか。俺は俺なりに、ヘレンと村のためを想って剣を振るってきたというのに」

「式一つでどれだけ嘆いているんだこの人……」


 ある一室の扉に背中を預け、心底嫌そうにげんなりとした表情を浮かべるオルヴァー。彼を見て思わず漏れた眩きは聞こえることはなく、部屋の中にいたクインとリアの乾いた笑いを誘うだけとなった。


「あのー、花嫁に聞こえるように愚痴言うとかやめてくれない? だいたいあんただって了承したことじゃない」

「あれは異変解決の余熱というか勢いというか、そういった類のせいでつい言ってしまったもので本心ではない」

「なんであんた時折そんな露骨に女々しく情けないこと言うのよ……いいから覚悟決めてよね。せっかく立派な花嫁衣裳だって用意してもらったのに。あ、クインちゃん、そこちょっときつい」


 結婚式兼宴を控えた村の雰囲気は明るく、村の中央にある広間には煌々と灯りが点され、日の沈んできた夕暮れ空と似たような光を放っている。

 村人たちは式場の準備を進めている中部屋の中ではクインとリアの手伝いのもと、ヘレンの花嫁衣裳の着付けが行われていた。


「でも、本当に良いんですか? 僕たちよりもずっと、村の人たちの方がずっと綺麗に髪を結えたり、準備ができると思うのですが……」


 赤茶色の髪に櫛を入れながら不安げに問いかけるリアに、ヘレンは笑いかける。


「いいのよ。式の本番だと、あなたたちはあまり表には出てこれないだろうし。むしろ、やってもらえて嬉しいわ。あ、クインちゃん、そこもちょっときつい」


 聞き耳を立てているわけでもないが、部屋の外でも女性陣の会話が丸聞こえであり、心中落ち着かない。


「……まさかヘレンの体を思い出してるんじゃないだろうな?」

『ないですないです思い出してないです』


 ドスの聞いた声が聞こえ、颯太は頭で考えるよりも早く見えもしないのにブンブンと首を横に振った。

 森の中で野犬に追われ、逸れたときにヘレンの不安によりオルヴァーとして幻視された経緯は包み隠さず彼らに話している。成り代わるための記憶の補填として、オルヴァーという一人の人間の記憶を、生きてきた軌跡を頭に叩き込まれて経験は、無視してこれからも円満に会話できるようにも思えなかったのだ。


「……ゴーストの特性のようなものなのだろう。おまえに責任がないことはわかっているし、全て今すぐ忘れろとは言わん。だが、思い出されるのもそれはそれで落ち着かなくてな」

『俺もできれば忘れたいとは思ってるんですけどね』


 とはいえ、一人の人生を振り返れるようなほどの記憶というのは、そう簡単に拭い去れるものではない。ましてや、それがこの世界に放り出されて一番、指標とも成りえるぐらいの立派な人間の人生だとしたら尚更だ。

 思い出すべきではないプライべートな記憶は多々あれど、全て忘れてなかったことにしてしまうには惜し過ぎるほどの経験と、決意の重さがあった。


「……ここでは落ち着かないな。場所を変えるか」


 この場を離れようとするオルヴァーに、部屋の中から声があがる。


「ちょっと、どこ行くのよ。花嫁の晴れ姿を見るんじゃなかったの? ねぇ、ちょっとクインちゃん、そこはきついってば」

「後で見れるだろう。終わったら呼んでくれ」


 文句を言う声とともに悲鳴が上がり、その後に「いやでもここを細くしないとシルエットが美しくなくて……」と妙に凝ったことを言い出したクインの声が聞こえる。そしてリアの苦笑を浮かべてそうな笑い声を背にして、二人は宿を出た。

 宿の裏手、人目のつきそうにない場所に移動する。壁に背を預けたオルヴァーは腕を組み、短くため息を吐いた。


「これから、どうするつもりだ」

『……旅は、続けます』


 単刀直入の質問に颯太は意表を突かれつつも、落ち着いて口を開く。


『俺はともかく、二人が落ち着いて生活できるところを探してあげたいなって思ってます』

「この村では、駄目なのか?」


 オルヴァーの問いに颯太は目を瞑って考え、『駄目です』と答える。


『ここは、リークテッドが近過ぎます。もう今更クインの存在を警戒する追っ手が来るとも思えないですけど……リアで荒稼ぎしていた商人たちがやって来ないとも限らないし。できることなら、もっと離れておきたいですね』


 敵がいるとわかっている慣れた土地より、敵がいるとはまだわかっていない見慣れぬ土地の方が心情的にも落ち着く。

 黒い髪と瞳を持つ人間を探す、という当初の旅の目的は、もう果たす意味はないのかもしれないけれど。二人が落ち着いて、自分の存在を偽ることなく、のんびりと暮らせる場所を探すという目的は消えていない。


「……決めたことならば、俺が口を挟むようなものではないだろう」


 壁から背を離し、オルヴァーは颯太がいるであろう方向に目を向ける。


「……言うのが遅くなったが。森では、おまえの覚悟に助けられた。事情を知らない常人が相手ならば、おまえはまず負けることはない」


 二人の目が合うことはない。けれど言葉は、意思はしっかりと颯太に向けられている。


「負けるなよ、ソータ。クインとリアを命を懸けて守ろうとすることができるのは、おまえだけだ」


 守ることができる、ではなく、守ろうとすることが、できる。その言い回しが意味する事実を、颯太は噛みしめる。


『はい。必ず』


 颯太の返答に満足したのか、オルヴァーは薄っすらと笑みを浮かべた。


「ちょっとオルヴァーどこ行ったのよ! 今! 今が一番美しいシルエットらしいんだけど! あまり長く持たないから早く来て!」


 家の中から響く悲鳴じみた懇願に、オルヴァーは笑みを引っ込めてため息を吐いて、「式が終わるまで維持ができなければ意味がないだろう……」と眩き、宿へと戻っていく。


「……やっぱり、良い人だな」


 思い返そうとしなくても、どうしても一度頭の中に叩き込まれた記憶は頭を過ぎってしまう。

 ゴーストの身勝手な行動により地位を奪われ、それでも剣を手にして、愛する人と共に生きる術を模索してきた。そして、その苦労が報われようとしている。

 それまでの軌跡を、颯太は余すことなく容赦なく頭に叩き込まれている。その苦労と功績は、颯太の少ない人生経験では無視することはできないほどに、素晴らしいもので。

 それに比べて俺は、と愚痴のように眩く前に、颯太は咄嗟に首を振って堪える。代わりに大きく息を吐いて、壁に背中をつけながらズルズルと腰を下ろした。

 比べるのもおこがましいし、比べるようなものではない。オルヴァーが言ったとおり、クインとリア、その二人を守ろうとすることが、命を賭けてでもそれができる者は、自分しかいないのだから。

 自分でもそう思っているし、尊敬する人から口にしてもらえた。だから、より一層の自信を持って、彼女たちの傍に立てる。

 その覚悟を持てたからこそ、今この瞬間に、声を上げることも、喉を引きつらせることも、目を見開くこともなかったのかもしれない。



 いつの間に、いつから、そこに立っていたのか。



 颯太の視界の隅、決して中央には捉えない端に、大柄な男が立っていた。

 薄汚れた衣服は、颯太には見慣れたもの。ボロボロのセーターに、穴だらけのジーンズ。素足にはいくつも傷が走り、くたびれた黒い髪を乱雑に伸ばし、顔のほとんどがその脂ぎった髪に覆われて見えていない。

 それでも、濁った黒い瞳とニタリと笑った口元だけは、颯太の視界にしっかりと映っている。

 見るな、目を合わせるな、視線を向けるな。気取られるな、気づかないフリを続けろ。無視しろ。決して、意思を合わせるな。

 表情を努めて涼しげな顔のままに固定し、颯太は空を仰ぐ。


「あー、良い天気だな――」

「お、おま、まえ、俺が、見え、ているだろう」


 掠れ、どもり、情けなく。それでいて肝が冷える野太い声が、しっかりと颯太の耳朶に届く。


「こ、え。声を出すの久しぶりだから、うまく発音できてるかわか、らねぇ。聞こえ、てるか? なぁ。聞こえてるん、だろ?」


 震える体を気力で押し込み、何度も心の中で唱える。無視だ。気づくな。何も反応するな。

 ふらふらと、すがるような声色と足取りで近づいてくる存在を、視認などしてたまるものか。


「おい。おい、聞こえてるんだろ。おまえのその格好、この世界の物とは違うよな?」


 ついに、視界を覆うほどの近く。強くなる饐えた悪臭に顔をしかめるわけにはいかない。

 颯太は両手で顔を覆い、「式が始まる前に寝とこうかな……」などと嘯く。


「無視しないでくれよ! なぁ! おい!」


 耳障りな声が、鼻が曲がるような臭いが、醜悪な様相が平静であろうとする精神を掻き乱す。

 まるでその懇願は、自分がこの世界に降り立った時のように、心細さによる感情の発露のようにしか見えなくて。

 ついに、ゴーストの手が、颯太の肩に乗せられる。


「――うわっ、な、なんだ?」


 肩についた虫を追い払うかのように、颯太は腕でゴーストの手を払い立ち上がった。あたふたと周囲を見回し、何かに触られたように振舞う。

 そこに居るのに、触れているのに。気づきも、見向きもされない。颯太自身が一ヶ月間、嫌というほど見せ付けられてきた動作だ。


「な、なんだよ。何か、いるのか……?」

「……おまえも、見えてないのか」


 懇願から落胆へ、声に乗せた感情が変化する。喜びが表情に出そうになるのを必死で抑え、颯太は慌てふためく演技を続けたまま、少しずつ不自然でないように離れていく。

 このまま、どこかに行ってくれればそれでいい。このゴーストが何者であろうとも、もう関わらないでいこうと決めているのだから。

 逃げるように宿へ飛び込もうとする前に、扉が開く。


「ソータ? 急に大きな声を出して、どうしたの?」


 大げさに騒ぎ過ぎたと後悔するよりも早く、クインが外へと出てくる。

 ゴーストの前へと、現れてしまう。


「宿に戻れ! ゴーストがどこかにいるぞ!」


 颯太の叫びを間いて、クインが辺りを見渡してもそのゴーストの姿は見えない。それでも、颯太の表情と声の焦りから、クインはすぐに踵を返して宿の中へと入ろうとして――


「――見えてねぇなら、いいや」


 その背中に向け、ゴーストが拳を振り上げる。

 一切の躊躇もなく、大人の男が、無防備な少女の背中に向けて拳を振り下ろそうと――


「――弾けろ!」


 炸裂した風がゴーストの腕を弾き、颯太の手がその手首を掴み上げる。

 空いた手には自身の血に塗れた短剣を持ち、颯太はゴーストを睨みつけた。


「……今、何しようとしやがった」


 自分が殴られるぐらいならいくらでも我慢しようとしていた。どんなことをされても無視し続けるという覚悟は持っていた。

 でも、クインを、心から命を懸けて守ろうとした少女に振るわれる拳は許せない。

 男が、大の大人が、無防備な少女の背中に迷いなく拳を振るおうとする、その精神を許容できない。

 振り返るゴーストの目が、激昂に燃える颯太の目と合う。お互いの黒い瞳が向かい合い、


「……やっぱり、見えてたんじゃねぇか」


 ニタリと、怖気の走る笑顔で細められた目から、静かに涙が溢れた。


「……あ?」


 泣く? このタイミングで? と困惑の声を上げる颯太。刃を持つ武器を構えた男に腕を取られているというのに、男の目からは見間違いを否定するかのように次々と涙が溢れてくる。


「おまえ、は、俺が見えてるんだな!」


 あろうことか、武器を持った相手に笑顔を浮かべながら抱きついてこようとしてくる。


「は? いや、なんだ急に! ってか臭い! 寄るんじゃねぇよ!」

「そうかそうか見えてるんだな!? 聞こえてるんだな!? ようやく! ようやく会えたぞ!」


 嗅いだことのある腐敗臭ではなく、不衛生による悪臭も耐え難い。鼻が曲がり目にしみる臭いから離れようと颯太はもがくが、いくらなんでも短剣を振るうわけにはいかない。


「だからっ! 離れろっての!」


 つい今しがたクインを背後から殴りつけようとした同一人物なのか疑わしいほど、不釣合いに陽気な雰囲気に颯太は飲み込まれないように声を上げる。颯太よりもずっと大柄で筋肉質な体を持つゴーストの膂力は凄まじく、全力で押しのけようとしても少しも動いてくれない。


「あ、お、おお、悪い。人と、何かと話すなんてもういつ以来かわからないから、はしゃいじまった……そんな怒らないでくれよ」


 謝罪を口にして離れるゴーストに、颯太は未だ懐疑的な視線を向ける。

 姿は見られている。この相手に、颯太は何一つとして有利性を持っていない。力や体格はもちろん、運動能力も及ばないだろう。

 殺そうと手に持った刃を振るわなければ、こいつを止めることはできない。

 この場からクインを連れて逃げ出したところで、こいつが何をやるか検討もつかない。友好的に話しかけて、涙を流し笑顔を向けてきたとしても。

 こいつは、クインを殴ろうとした。颯太にとってはそれだけで、敵対心を懐くには十分過ぎた。


「ソータ。そこに、いるのね」


 確信を持って問いかけるクインに、颯太は男から目を離さずに頷く。


「……話がしたいなら、場所を変えていくらでもしてやる。だから」


 短剣を握り締める拳に、力をこめる。


「少しでも妙な真似をしたら、おまえを殺すからな」


 脅しの言葉を受けて、ゴーストの笑みは崩れることはない。

 視線を、感情を向けてくれるのならば、殺意であろうとも構わないかのように、口元を曲げて喜んでいた。

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